第16話
夜中も十二時を回り、シオンも帰らなければと思っていたところだった。
書かなければならない書類のペンが進まない。フェリシアのことをどうしたらよいものか。
それを考えると思わずため息が出た。
シオンもこのままではいけないと分かってはいた。
自分はアリシアを死なせてしまった酷い男であり、最も彼女と結婚してはいけない男である。
自分と一緒にならない方が彼女の幸せであることは間違いない。
しかしそれは前世のことであり、今世の自分と彼女には関係ないのだと頭では理解していた。頭では理解していたが今でも朝が来る度に思い出す。
ベッドで冷たくなったアリシアの姿を。
シオンが独身主義である理由は、贖罪の気持ちからくるものもあるが、また同じことを繰り返してしまうのではないか、妻となった女性をおざなりにしてそのまま死なせてしまうのではないか。そう考えてしまい怖かった。
もう帰らなければと書きかけの書類は持ち帰ることにし、重要書類をキャビネットへ仕舞い鍵をかけた。
そこへ扉を叩く音。
「ロイド・パッセンジャーです。
入ってよろしいでしょうか」
「入りなさい」
ロイド・パッセンジャー、統計課の優秀な若手。
フェリシアの教育係で彼女と一緒にいるところをよく見かける男。
この男がこんな時間にわざわざ訪れるとは嫌な気しかしないが、シオンは入室を許した。
「こんな遅くにどうした」
「すみません、プライベートな話でしたので…少しだけお時間いただけませんか」
「かけなさい」
シオンはソファに座ることを勧めたが、ロイドは扉から近い場所で立ったまま動かない。
「いえ、すぐにすみますのでこのままで。話はフェリシア・マークウェルド嬢のことです。もし、彼女と結婚するつもりがないのなら早く婚約を解消してもらえませんか」
「君には関係ないことだ」
「いえ、関係あります。
僕が婚約を申し込むので、彼女にそれを受け入れて欲しいと頼みました。彼女からも伯爵へ受け入れてもらえるよう、一言言うように頼んでいます。
とは言ってもまだ了承を得てないんですけどね…」
「……」
シオンは何も言い返せない。
ロイドなら彼女を幸せにできるのだろう。しかしそれとは反する、本当に他の男に渡してしまってもいいのかという未練がましい感情が胸の奥で燻っていた。
「僕は貴方に悪いとは思いませんよ。
フェリシアは社会経験を積むために二、三年は結婚をするつもりはなかったそうです。それを卑怯にも公爵家の威光を振りかざして強引に婚約を結んだのはそちらなんですから。
ただ何も言わないでフェリシアを奪うのはフェアじゃないと思っただけなんで」
「君の言い分は分かった。
しかし書類の上では正式に公爵家と伯爵家の婚約は認められた。
簡単に撤回できないのは君も分かっているだろう。
今日はもう遅い、帰りなさい」
「僕、諦めませんから。失礼します」
ロイドは頭を下げると踵を返し部屋を出ていった。真っ直ぐ思いをぶつけてくるロイドがシオンには眩しく見えた。
✳️
シオンが『結婚』を嫌がっているのであって、『フェリシア』を嫌っているのではない。
それはフェリシアも理解しているつもりだった。
理解していてもシオンが何も行動で表してくれないことはジクリジクリとフェリシアの胸を苦しめた。
正式に婚約が結ばれたのだ。
結婚が嫌なのなら婚約解消なり、受け入れるのなら慣例に則り挨拶に来るなり、何らかの対応はして欲しかった。
───前世では夫の帰りを待たされて、今世では婚約者の出方を待たされている。女って、待つばかりで損ばかりね。
夜も十一時を回り、王城から帰る馬車の中。フェリシアは馬車の窓のカーテンをそっと開け、窓から見える夜空を眺めた。
フェリシアとしてもロイドのことは好ましく思っていた。しかしそれが恋愛感情なのかはよくわからない。
結婚するのなら彼のように優しくて、いつも楽しませてくれるような人がいいのだろう。
彼だったらいい関係を築けそうだと思うが、公爵家の縁談を断ってもいいのだろうか。
───お父様に相談するしかなさそう…。
屋敷へ到着して、馬車から降りる。
屋敷を見上げると殆どの部屋の明かりは落とされていたが、父親の執務室だけは明るかった。
フェリシアは着替えもせずにそのまま父親の執務室へと向かった。
「お父様、フェリシアです。
遅い時間に申し訳ありません。相談したいことがあります」
「入りなさい」
フェリシアが執務室へ入ると、トニーはウィスキーグラスを片手に書類を眺めていた。
「遅くまで大変だな。
どうだ、フェリシアも一杯付き合うか」
労いの言葉をかけられ、酒を勧められる。
学生の頃にはない、大人として扱われたようで嬉しく思うが、疲れた体がお酒よりも暖かいココアを求めていた。
「いいえ、お酒は」
「少し待ってなさい。何か暖かいものを用意しよう」
トニーがチリンとベルを鳴らすと、隣室から従僕が出てくる。
「暖かいココアをフェリシアへ」
「かしこまりました」
さすが父親である。フェリシアの好みを分かっていた。
しばらくすると暖かいココアが出され、ゆっくりと口に含む。
芳醇なカカオの香りが考えすぎて固くなってしまった心を解きほぐしてくれるようだった。
「シオン公の件だね」
「はい…」
「先日、ロザリンド公爵夫人から謝罪共に、シオン公の仕事が落ち着いたら必ず挨拶に向かわせる、と手紙をいただいた。確かにフェリシアもこんな遅くまで働いて、休日まで出勤するほどだ。今結婚の準備を進めても負担にしかならないだろう」
「はい、確かに今忙しいのは本当ですけど…。お父様も噂でお聞きになっていると思います。ベラルド室長が独身主義であるのを。」
「それは聞いている。
しかし貴族は結婚して後継ぎを生むのが責務だ。しばらく考える時間があればシオン公も考えを改めるだろう」
「…私はそんな楽観視はできないと感じてます。
お父様にご相談があります。
私、職場の先輩のロイド・パッセンジャー様からプロポーズをしていただきました。もう一度婚約の申し込みをするから受けて欲しいと…」
「ふむ、確か夏に一度フェリシアをエスコートしてくれた若者だったな。
パッセンジャー侯爵家の嫡男だったと思うが…フェリシア、お前の気持ちはどうなんだ」
「私…ですか。ロイド先輩は一緒にいてとても楽しくていい方だと思っています」
「ふむ、シオン公のことはどう思っているんだ」
「ベラルド室長は…あのように気難しそうに見えますが、とても優しいお方です。それにあの方がダンスを教えて下さって、私、踊れたんです」
うふふ、とフェリシアは嬉しそうに笑った。
「フェリシアが、ダンスを?」
「ええ、とてもリードがお上手で」
あの壊滅的に踊れないフェリシアが踊った。
家族以外とは踊ったことのない彼女が。しかも嬉しそうにそれを語る。
トニーは父親として家格や貴族の面子などは置いておいて娘の幸せだけを考えた。
「ふむ、シオン公の仕事が落ち着いたら一度本人から話を聞いてみよう。その後パッセンジャー侯爵家との縁談も含めて考え直してみる。それでいいね」
「はい、お父様」
「今日は疲れただろう。早く休みなさい」
「お休みなさい、お父様」
「ああ、お休み」
───後はお父様に任せておけば大丈夫ね。
フェリシアは幾分か胸のつかえが取れたような気がした。
とりあえず問題解決はこの繁忙期が過ぎるまで持ち越しである。
そしてフェリシアのことを考えて一番いい答えを、トニーが決めてくれるのを待つだけだ。
しかし数日後、思いの外早くこの問題に決着がつくことになろうとは誰にも予想がつかなかった。
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