第15話
婚約が結ばれても、二人は以前と変わらずただの上司と部下の関係だった。
同じ職場で働いていてもシオンはお偉い上役、フェリシアは下っ端新人でほとんど接点がない。
シオンが直接指示を出すこともなければ、フェリシアが直接報告をすることもない。
当然業務中に私的な会話をする筈もなく、すれ違えば挨拶をする程度だった。
ただ、フェリシアやシンディとサマンサがお昼の休憩時間にシオンの執務室を使わせてもらうという関係だけは変わらず継続していた。
通常の貴族の婚約ならば、男が女の家へ挨拶に行き、婚約指輪を贈る。
そして手紙のやり取りやデートを重ねて親交を深め、結婚に向けての準備をしている筈だった。
しかしシオンは何も行動を起こさなかった。
───やはりベラルド室長は結婚したくないのね。
いつかこの婚約は破棄される。
フェリシアはそんな気がしてならなかった。
そして季節は秋。
この季節から統計課を含む政策室は、繁忙期を迎える。
この時期、地方では小麦の収穫を終え、領主は収穫高の計算が終わると国へ税を納め納税報告書を提出しなければならない。
もちろんそれは農業だけに関わらず、工業や商業、すべての産業においての収益に対しての納税報告が義務付けられていた。
そこで一挙に集まるデータを取りまとめなければならないのが統計課であり、その忙しさは連日深夜まで残業を強いられた。
連日深夜まで残業し、場合によっては休日出勤もしなくてはならない。
過酷な勤務状態の中、職員が少しでも働きやすいよう定められた労働規則があった。
◎ 五時間を超えて残業してはならない。
◎ 三時間以上の残業をする場合、一時間の食事休憩を取らなければならない。
◎ 二十一時を超えて勤務した場合、翌日の勤務開始時間は一時間遅らせることとする。
これらの労働規則は、今となっては知られていないが、昔シオンがシリウスだった頃に、上司であり義父でもあったダリウス内務大臣と共に国王へ陳情し、定められたものだった。
この三つの規則には、どんなに多忙であろうと必ず食事は摂り、自宅で体を休め、夜に家族の顔を見られなかったのならせめて朝食だけでも家族と過ごして欲しいという、職員とその家族に自分たちとは同じ思いをさせたくないという思いが込められていた。
✳️
遅くまで残業をした翌朝はゆっくり朝食が摂れる。それがどんなに忙しくとも乗り越えられる活力になるのだと、ウンウンと頷きながらロイドは厚切りベーコンを頬張っていた。
朝食の席には母親と、珍しく父親も同席していた。
「ロイド、マークウェルド伯爵のご令嬢が婚約したらしい」
ぶほっと飲みかけていたポタージュスープを吹き出しそうになりむせ返るロイド。
「二、三年は人生経験を積ませるために誰とも婚約しないと言ってましたよね?!」
フェリシアは人気の高い令嬢だ。
既に何人かは断られているのを知っている。
今年の夏、ロイドも『家族懇親会』の後にマークウェルド伯爵家へフェリシアとの縁談を持ちかけて、断られていた。しかも数多くある婚約の申し込みの一つとして処理されてしまい、当の本人であるフェリシアには全く知らされていないようだった。
『家族懇親会』の日、フェリシアの両親へ存在をアピールしようとエスコートを買って出た。
普段でもフェリシアに好かれようと、教育係という立場を利用してアピールしてきた。それもあってロイドは他の男性より自分が一歩リードしているつもりでいた。
しかしそれは功を奏することなく断られてしまったが、別にフェリシアに正式な婚約者が決まった訳ではないのだ。二、三年は婚約しないと言うのなら、それまでじっくりと確実にフェリシアを攻略していくつもりだった。
「その通りだ。うちと同じ理由で釣書を返された家がたくさんある」
「相手は誰ですか」
「…噂ではお前の上司、シオン・ベラルド殿と聞いている」
「まさかっ!室長は独身主義だって聞いてますよ!」
「ああ、私もそう認識していた」
「私が聞いた噂では、ロザリンド夫人が強引に話を進めたんじゃないかって言われてるわ」
お茶会で情報を集めた母親が言った。
ロイドはどうしても納得がいかなかった。シオンも、フェリシアも、婚約を結んだようなそんな素振りは一切見せていない。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、ロイドは王城へと出勤した。
ロイドは隣に座るフェリシアの様子をチラリと盗み見る。
フェリシアの様子はやはりいつもと変わりはなかった。
何度も確認してもフェリシアの左手の薬指には指輪は嵌められていないし、シオンに対して特別な感情を向けるようなこともない。
ロイドはシオンの方もチラリと盗み見るが、やはりいつも通り。
婚約を交わした者同士だとしたら、この状況は逆に不自然に見えてしまう。
───二人には結婚の意志がないのではないだろうか。もしそうだったのならまだ自分にもチャンスがある。
そう考えたロイドは勝負に出ることにした。
時刻も二十時を回り空腹を覚えたロイドは、フェリシアの仕事の切りもちょうどよさそうなので声をかけた。
「フェリシア、夜食行かない?」
「あ、はい、行きます」
昼間の食堂は混雑しているが、夜は利用者も疎らでフェリシアに絡む人も滅多にいない。フェリシアも普通に利用することができた。
食堂では夜食として二種類の軽食メニューが選べる。
今夜はビーフシチューセットかエビピラフセットのどちらかで、ロイドがビーフシチューセット、フェリシアがエビピラフセットを注文した。
二人向かい合い、食事をしながら下らない会話をする。
ロイドが楽しい話題を振ればフェリシアが笑顔になる。
その笑顔を見ながらやはりこの人が欲しい。そう思うロイドだった。
「フェリシア、最近悩んでることない?」
急にロイドが会話を変えた。
「……」
言葉を詰まらせるフェリシア。
やはり婚約について悩んでいたのだと少しだけ陰りを見せた表情から分かる。
「もしかして結婚したくないとか?」
「し、知って…」
「うん、実は今朝親から聞いたんだ。まだ貴族の中でも極一部の人にしか知られていないと思うけど、そのうち噂は広まると思うよ」
「そう、ですよね…。
私は結婚したいとか、したくないとか、そういうのはないんです。
私は貴族の娘ですから親の決めた相手と結婚し、いい関係を築けたらいいな、とそう思って生きてきました。
でもお相手の方はこの縁談に不服なんだろうと…」
「室長、独身主義で有名だもんなぁ」
「あ…やはりご存知ですよね…」
俯いてしまうフェリシア。
望んだ婚約ではないとはいえフェリシアにこんな顔をさせるなんて、とロイドの胸にジリジリと怒りのような感情が湧く。
「フェリシア、僕だったらどう?
僕がもう一度マークウェルド伯爵に縁談を申し込むから、フェリシアはそれを受け入れたいと伯爵に言って欲しい」
「ロイド先輩と?
それにもう一度って…?」
「恥ずかしいけど、君と結婚したくて一度婚約の申し込みをしてるんだ。
三年は社会勉強させたいからって断られたけどね。だから二、三年待ってまた婚約を申し込むつもりだったんだ。
だけど気がつけば君はシオン室長と婚約していて、しかもこんなふうに苦しそうにしている。
苦しむくらいなら、僕と結婚した方がいい。僕だったら君をこんなふうに悩ませたりしない」
突然の告白に顔を赤らめるフェリシア。恋愛経験のない彼女はこういう場合どうしたらよいのか戸惑うばかりだった。
「おう、いたいた。ロイド、先日出した数字について聞きたいことがあるって人が来てるぞ!」
ロイドを呼びに来たエミリオによりその場は中断されてしまった。
ロイドは「真剣に考えて欲しい」と言い残し、その場を去って行った。
✳️
午前零時を回ると職員は退庁し、常夜灯の明かりだけがぼんやりと視界を照らす。
薄暗い事務所の中で室長執務室から漏れる明かりだけが際立っていた。
ロイドは意を決して執務室の扉を叩いた。
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