第9話
会議が終わり早足で自分の職場へ戻る間、シオンはフェリシア・マークウェルドのことを考えていた。
あの優しげな佇まいとおっとりとした口調、年の割に落ち着いた雰囲気。
前世で愛した妻、アリシアを思い出させた。
なるべく若い独身女性には必要以上に関わらないよう気を配ってきたシオンだったが、春の陽気とはいえ、屋外で風に晒されてサンドイッチを頬張る彼女を放っておけなかった。
シオンは子供のころから女性が風邪を引くことが心配でならなかった。
母親や身近な女性の使用人がコホンとひとつ咳払いをすれば無理やりにでも休ませ、即刻医師を呼んだ。
それを周囲は優し過ぎると笑っていたが、シオンの心の中では優しさというより、焦燥感のような、絶対風邪を引かせてはならないという使命感のようなものが渦巻いていた。
そしてある日、シオンは高熱を出して寝込んでしまう。
それと同時に、忙しさにかまけて病弱な妻を亡くしてしまった前世を思い出したのだった。
あの時、シリウスの仕事は多忙を極めていて寝る間も惜しいほどに忙しかった。
三日も屋敷へ帰ることもできず、体の弱いアリシアをひとり残していることが心残りだった。
風邪など引いてはいないか、刺繍に夢中になって夜更かしなどしてはいないか、ちゃんと食事は取っているか。
心配になるが帰ることもできず、一秒でも早く仕事をこなすことを考えるばかりだった。
───疲れた。一杯だけでいい、アリシアの淹れた紅茶を飲みたい。
大した趣味もなく、仕事が生き甲斐というこの男は唯一、妻の淹れる紅茶を飲むひとときが好きだった。
穏やかで優しいアリシアの紅茶を飲むと気持ちが落ち着き、その時間だけがゆっくりと流れるような感じがしたものだった。
シリウスが職場に泊まり込んで四日目、今年最初の雪がうっすらと積もりやけに冷え込む朝だった。
屋敷の使用人ジョンが息を切らし真っ青な顔をしてシリウスを訪ねて来た。
ジョンが王城で働くシリウスを訪ねるのは初めてではない。
職場に泊まり込むシリウスのために着替えや屋敷に届いた手紙などを届けることがある。
しかし今朝はいつもと様子が違った。
「どうした、何があった」
「奥様、奥様が…」
ジョンは青い顔をしてそれ以上は口を開こうとはしない。
嫌な予感がして、仕事を放って急ぎ馬車へ飛び乗った。
───ダメだ。無事であってくれ。
君をひとりにした私が悪かった。
体の弱い君を放って仕事にかまけるなんて私が馬鹿だった。
頼む!無事であってくれ!
シリウスは屋敷へ到着するなり駆けてアリシアの部屋へ飛び込む。
アリシアの部屋にいたのはアリシアの寝台の傍らで嗚咽を漏らすエマと、アリシアを幼いころから診ている主治医が佇んでいた。
そして寝ているかのように寝台に横たわるアリシアがいた。
主治医の診断によると風邪を拗らせて肺炎を発症。
体力のないアリシアでは残念ながら乗り越えられなかったのだろうという見立てだった。
「アリシアは苦しんだりしなかっただろうか」
シリウスは亡骸となった妻の頬をそっと撫でる。
すでに冷たくなった彼女の唇が青紫に変色していて寒そうに見える。
「……ええ、安らかに逝ったことでしょう」
医師の言った言葉は気休めでしかなく、恐らく嘘だと思われる。何せ肺炎だ。苦しくないはずはなかった。
───悪かった。私が悪かった。
謝りたくても全てが手遅れで、後悔と贖罪にまみれながら、一人残されたシリウスは働く機械のように残りの人生を生きていくのであった。
✳️
廊下を曲がると、反対側の角にある給湯室の扉の隙間から女性同士が揉める声が聞こえた。
普段だったら女性の面倒ごとに首を突っ込むことはしないシオンだが、一人の女性の声がフェリシアであることに気が付き思わず足を止めた。
『あなた、覚えておきなさい。
私達を敵に回したこと後悔するわよ』
『そうよ、そのうち痛い目見るわよ!』
シオンはフェリシアを罵っている二人の女性が、隙あらばシオンに纏わり付いてくる部下であることに気が付く。
昼間フェリシアを執務室へ招き入れたせいで、彼女が責められているのは容易に察することができた。
───やはり余計なことはしてはならなかったのか。
己の配慮が足りないせいでマークウェルド君に迷惑が。
本来ならここで給湯室へ突入してフェリシアを庇いたいところだったが、そんなことをしてしまえば後日また彼女がどんな目に合うかわからない。
己の不甲斐なさに歯噛みするシオンだったが、扉の向こう側の雰囲気が急変したのを感じ取った。
フェリシアがか細い声で事情を話している様子の後、二人の女性の理解を得られたようでお互いに自己紹介をしている。
───いつの間にか仲良くなっている?
そしてフェリシアを責めていたはずの二人が給湯室から出て来る気配がして、シオンは急ぎ廊下の角の壁際へ身を隠した。
給湯室から出て来たのは、予想通り秘書課のシンディ・パウエルと、庶務課のサマンサ・クロフォードだった。
二人とも裕福な貴族家の令嬢で、特に勤務態度に問題はないが結婚相手を探しに仕事をしている節があるのが玉に瑕であった。
「全く、私達がフォローしてあげないと、あの子、お昼もまともに食べられなのね」
「ほんと、世話が焼けるわ」
「仕方がないけど、面倒みてあげましょうか」
「そうね、私達、困っている人を放っておけないタイプですものね」
政務室の方へ機嫌良さそうに歩いて
行く二人の女性の後ろ姿を確認すると、シオンはフェリシアに迷惑がかからずにすんだと安堵し小さく息を吐いた。
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