第2話
───長い長い夢を見ていた気がする。病気がちで、若くして世を儚んだ一人の女性の人生を辿るような夢。
夢?
夢にしてはアリシアという女性の感情が生々しくまるで前世がそうであったかのような…。
前世…そう、あれは私の前世…。
「フェリシアお嬢様、お加減はいかがですか」
フェリシアは目を覚ますと、額の上に濡らしたタオルが置かれていることに気が付いた。
心配そうに顔を覗き込むのは使用人のサーラだった。
───そうだわ、私風邪引いたんだったわ。
「ええ、もう熱は下がったみたい」
「もう、薄着で刺繍に没頭するからですよ」
「ええ、ごめんなさい。これからは気を付けるわ」
「良くなったと言っても今日一日はゆっくり養生なさいませ。
旦那様も今日は学園を休むようにと仰せです。」
「そう、ありがとう」
サーラが手際良くベッドテーブルを設置すると、とろとろに煮込んだパン粥が出される。
フェリシアはサーラの甘やかしに思わず頬を緩めた。
フェリシアはここマークウェルド伯爵家の末娘で、優しい両親と才色兼備の第一子の姉、世話焼きの第二子の兄、そしてマークウェルド家に良く仕える多くの使用人に囲まれて育った。
フェリシア自身は普段は健康で、二、三年に一度軽い風邪を引くことはあるが、それ以外は大病を患うこともなくいたって健康に十七の歳まで生きてきた。
しかしプラチナブロンドに薄い紫の瞳、透けるように白い肌、どこか儚げな雰囲気を持つ深窓の令嬢といった容姿で、家族を含め使用人も皆フェリシアに過保護だった。
食事もパン粥ではなく普通の食事でもよかったし、着替えて食堂へ行くこともできたが、甘やかされるままベッドの上で食事をとった。
フェリシアはパン粥をたいらげると風邪薬を服用し、今日一日はおとなしくベッドで寝ることにした。
皿を引き下げたサーラが部屋から出ると、フェリシアは夢の内容を思い出していた。
あれはフェリシアの前世で、およそ八十年前に現実にあったこと。
前世はこの国の侯爵家の一人娘だったが、今世は伯爵家の末娘として生まれ変わった。
前世のアリシアはまさしく深窓の令嬢だった。
学園に通うこともなく、親戚の子爵夫人を家庭教師として招き最低限の教育を受けていた。
人の多いところでは気分が優れないため夜会やお茶会などの社交は一切出ず、出かけることもしない。
一日数時間の勉強と、刺繍、そしてそんな自分が家族のために唯一できること、それは家族の体調を思って特別にアレンジした紅茶を淹れてそれを振る舞う。
それがアリシアの全てだった。
しかしそんなアリシアでも結婚することができた。
その相手こそが父親の部下である伯爵家三男のシリウス・ワイドニアだった。
シリウスと結婚してからはシリウスが持っていたタウンハウスへ移り住み、使用人のエマとジョンとまるで家族のように過ごした。
家からほとんど出ることがなく、体調が良ければ簡単な家事の手伝い、趣味の刺繍、そしてお得意のお茶を淹れることがアリシアの毎日だった。
何と狭い世界で生きていたのだろうか。外へほとんど出たことがなく、友達もいない。
人生で会話を交わした人数は両手で足りるくらいだ。
そして最後には多忙な夫を想いながら死んでいった。
それに比べて今世のフェリシアは毎日学園に通い、刺繍を同じ趣味とする友人と出会い、お茶会などの社交もこなす。
ただ社交と言っても同じ刺繍好きが集まって語らい、作品を披露し合ういつも決まった顔ぶれではあるが。
そして何よりも前世と違い健康だった。
───私、今世では働いてみたい。
フェリシアの前世の夫が、夫だけでなく前世の父親も毎日早朝から夜遅くまで、自分の人生を捧げるかのように働いていた。働くとはどういうことだろうか。働くことはそれほど夢中になれることなのだろか。
世間知らずで、世の中のことは子爵夫人の口から聞くことしか知らない前世。前世の父親や夫が見ていた世界と同じ世界を見てみたい。
フェリシアは、学園を出たら文官として働いてみようと決意する。
勉強の成績は良くもなく悪くもない。
今から頑張れば上の下くらいにはなれるのではないだろうか。
それだったら下級文官にはなれそうだ。
フェリシアはさっそくその晩、夕食の席で話してみることにした。
「フェリシア、体調の方は大丈夫なのか」
「はい、もうすっかり。食欲もご覧の通りです」
「刺繍もいいがあまり根を詰め過ぎないように」
「はい、ありがとうございます。ご心配をおかけしました。
あの、お父様、お母様。
私、相談したいことがあるのですが…」
「あら、なあに」
「どうした」
まだ十七の末娘の相談と言っても大したことはないだろうと、軽い返しをする両親。
「私、自分が世間知らずで世の中のこと何もわかってないってことに気が付いたの。だから世の中のことを知ってみたい、世間に出て働いてみたいって思ったの。
だから来年、文官の登用試験に挑戦してみようかなって…」
突然のフェリシアの言うことに、その場にいた全員が驚く。
「フェリシア、貴女、貴族の令嬢が働くだなんて、必要ないわ。
貴女は刺繍をやりながら、お父様とお母様が選んだ人と幸せになればいいのよ。」
フェリシアの母、テレシアは言う。
「もちろん結婚もするわ。でも私、社会に出て色々見てみたいの…」
「フェリシア、働くということはどういうことか分かっているのか」
父親のトニーは仕官はしていないが領地経営で地元産業を発展させるためにあちこち奔走している。
娘にはしなくてもいい苦労ならさせたくないと厳しい物言いとなってしまった。
「……」
やはり蝶よ花よと大事に育てられた世間知らずの貴族の令嬢の言うことでは分が悪い。
フェリシアは返す言葉が見つからず目を伏せた。
「フェリシア、行儀見習いとして王宮へ上がるのなら許してくれるかも知れないわよ?」
もうすぐ結婚してこの家を出る姉のアンジェリーナが助け船を出すが、フェリシアのやってみたい仕事は文官だった。できれば前世の夫や父親が勤めていた内務省の。
「文官に興味があるのです…」
消え入りそうな声で言ってみたものの、父親の許可は出そうにない。
「父さん、女性文官の仕事には受付や案内係など貴族の若い女性しか採用しない仕事もあるんだ。
フェリシアでもきっと活躍できる場があると思うよ。
二、三年働けばいい経験になるさ」
バチンとウインクを決めて妹に甘い兄のマルクスがフェリシアの味方をした。
「お、お兄様!」
「ふむ、それもそうだな。わかった、やってみなさい」
「あ、ありがとうございます!お父様、私頑張ります!」
結局結婚するまでと条件を付けられたが、フェリシアは文官の登用試験を受けられることになった。
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