今世は君を幸せにしたい

斉藤加奈子

第1話

───どうりで今日は冷えると思ったわ。


 初雪のちらつく窓の外を、アリシアは身体を横たえた寝台の中から、目線だけよこして眺めた。


今日は朝から乾いた咳が止まらず、身体が鉛のように重かった。そんな日は無理をせず身体を休めようと、幼い頃から世話になっている医師から処方されていた常備薬を服用し一日中寝ていた。


 アリシアは幼い頃から身体が弱く、毎年寒さが強まり初雪の降る季節になると必ず風邪を引いていた。

しかしここ最近は身体の調子も良く、つい趣味の刺繍に没頭してしまい深夜まで起きていたのが良くなかった。


「奥さま、体調の方はいかがですか。お医者様をお呼びいたしましょうか」


通いの使用人エマが一日の仕事を終え、帰る直前にじゃがいものポタージュスープと薬と水差しを持って来てくれた。


エマは王都にあるこの小さなタウンハウスに勤める使用人で、夫のジョンと共に夫婦で通いで働いている。


このタウンハウスは、アリシアの夫であるシリウスが結婚前に購入し一人で住んでいた。庭もない、寝室が四部屋しかないような小さな屋敷だが、寝に帰るだけの多忙なシリウスにはとってはそれでも十分に広い屋敷だった。


食事はほとんど職場の食堂で済ませ、洗濯物は業者に依頼している。

必要なのは屋敷を掃除し、清潔に保ってくれる使用人で、エマとジョンを雇えば十分だった。


そしてアリシアとの婚姻後は、アリシアの食事と世話が仕事として増えたが、使用人が二人だけという体制は変わらず、簡単な家事ならばアリシアも手伝っていた。


「そうね…今日はこのまま寝るから、明日の朝、お医者様に診ていただこうかしら」


「本当に明日でよろしいのですか」


「いつもの…風邪だと、思うから…明日の朝で大丈夫よ…」


いつもの事だからと、子供が家で待つエマに遠慮して、医者のもとへと使いに出すのを明日にしてしまった。


「そうですか…では明日の朝お医者様をお連れしてこちらへ参りますので」


そう言いながらエマはカーテンを閉めると、枕元のランタンへ明かりを灯す。


「ささ、スープだけでも召し上がって暖かくして寝て下さい。」


けほけほと咳き込みながら鉛のように重い身体を何とか起こし、肩にブランケットをかけてもらいながら、じゃがいものポタージュスープを乗せたトレイを受け取った。


「ありがとう」


アリシアは食欲はないものの無理をしてポタージュスープを三分の二ほど胃に収めると、トレイをエマへと返した。


トレイの代わりに粉薬とグラスに入った水を受け取り、それを慣れた様子で服用すると再び寝台へ横たわった。


「では奥さま、私は帰らせてもらいます。明日の朝お医者様をお連れ致しますので、どうぞゆっくりお休みになって下さい」


「ええ、ありがとう。お疲れ様」


「どうぞお大事になさって下さい。失礼します」


エマはランタンの明かりを消し、食器の乗ったトレイを持つと部屋から出ていった。


アリシアはけほけほと咳き込みながら瞼を閉じる。

薬が効いてきたのかすぐに意識は遠退きそのまま眠りに入った。


 アリシアはヴァレンタイン侯爵家の一人娘で、父親のダリウスは内務大臣を務める。

およそ一年と八ヶ月前、父親の部下の一人で、非常に有能で性格も真面目、将来有望と見込まれた伯爵家三男のシリウス・ワイドニアを入婿として婚姻を結んだ。


 アリシアとシリウスの馴れ初めは見合いだった。

アリシアは父親に連れられて高級レストランへ入ると、そこで待っていたのがシリウスだった。


 シリウス・ワイドニア。

ワイドニア伯爵家の三男として生まれ、とても見目の良い男だった。

艶やかな銀色の髪が周囲の光を反射し、涼やかな薄いブルーの瞳。

女性よりも美しいと囁かれ、その秀麗な容姿故に婦女子の人気も高かった。


しかし本人はどんな美しい令嬢から秋波を送られようが全く相手にすることなく、仕事一筋な男だった。


いつも仕事のことを考えているせいか眉間に皺を寄せるのが癖で、寡黙、そして相手がどんな高位貴族であろうが遠慮なく意見を言ってしまうような少々融通の利かない性格でもあった。


アリシアの父ダリウスは、そんなシリウスの性格に己の若い頃を重ねて傍に置くようになり、次第に溺愛する一人娘の婿にと望むようになり、婚姻へと至った。


それがアリシアが十九歳、シリウスが二十八歳の春だった。




 アリシアは魘されながら夢を見ていた。

幼い頃の、風邪を拗らせ肺炎にかかり生死の境を彷徨った時の夢。

苦しくて、身体が酷く怠い。

息苦しい呼吸をゼイゼイ繰り返していた。徐々に得体の知らない闇に飲み込まれそうな感覚になり、恐怖と孤独と不安が襲いかかる。


───怖い、助けて。


そう心の中で叫びながら意識を浮上させ、アリシアは夢を見ていたと気付く。


何時間眠っていたのだろうか。

部屋の中は暗闇で、とても静かだ。

深夜だと思った。


何故今ごろになって忘れていた幼い頃のことを思い出したのか。

アリシアは薄々気付く。

それは自分の体調があの時の自分と同じであるからだと。


───ああ、このまま一人で彼の世へ行ってしまうのかしら。素直にお医者様を呼んでもらえばよかったわ。

今さら後悔しても遅いわね。


この家にはアリシア以外に誰もいない。エマに医者に往診に来てもらうのを明日にしてしまったことを今さらながらに後悔する。


───旦那さま、お願い。帰ってきて。


夫に会いたい。

眠ってしまいたいが、このまま眠ってしまえば二度と目を覚ますことがないような気がする。せめて最後の瞬間、夫にこの手を握っていて欲しかった。


しかし夫であるシリウスは多忙でこの数日泊まり込みで仕事をしている。アリシアの願いは叶えられることはない。


次第に呼吸が浅くなり、意識を保っていられなくなってきた。


───お父様、お母様、逆縁の不幸をお許しください。

エマ、ジョン、今までありがとう。貴方達のおかげで旦那さまがいなくても寂しくなかったわ。

旦那さま、社交も出来ない子供も生めない身体の弱い私と結婚して下さってありがとうございます。

旦那さまとは月に数日しかお会いできない結婚生活でしたが、私は幸せでした。何よりも旦那さまのために紅茶を淹れて差し上げるのがとても幸せな時間でした。


旦那さまはお気づきでしょうか。

旦那さまが私の淹れた紅茶を召し上がると、その気難しそうな表情が緩み、眉間の皺が消えるのを。

その瞬間を見るのが何よりも楽しみだったのです。

ああ、最後に旦那さまに紅茶を淹れて差し上げたかった…。

こんな身体の私が言うのもおかしいですが、私は旦那さまのことを心配しているのですよ。

どうか、お体には、お気を、付けて───。


 アリシアの意識はここで途絶える。

最後に静かにゆっくりと息を吐き出すと、そのまま眠るようにして息を引き取った。誰にも看取られずに、静かにひっそりと。


こうしてアリシアとシリウスの結婚生活は一年と二ヶ月という短い期間で幕を閉じた。







 フェリシアは水底から浮上するような感覚の中にいた。揺蕩うようにゆらりゆらりと浮上していたが、次第に何かしらの力で引き揚げられるように速度を上げて行く。


明るい水面が見え、その眩しさで目を閉じた。

そして再び目を開く。

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