第8話 オーケー。トイレで歯磨いて着替えて来る。
前日脳が消費した糖分を、たっぷりジャムを載せたトーストで補充し、ジェニーは人並みの落ち着きを取り戻した。
「ごちそうさま。まだ時間あるよね?」
「ああ、20分あるぞ」
「オーケー。トイレで歯磨いて着替えて来る」
オレンジジュースを飲み干して、ジェニーは立ち上がった。
「そういうのは『支度してくる』だけでいい。トイレの事情まで知りたくねェよ」
「そんな暗号があったとは……」
「何が暗号だ? 早く行って来い!」
口では荒っぽいことを言う清十郎であるが、もはやかなり安心していた。人心地つきさえすればジェニーの動きは的確であった。どこに出しても恥ずかしくない格好で現れるはずだ。
ジェニーが身支度を整えるわずかな時間に、清十郎は事務所のキッチンを片付ける。1人暮らしが長い清十郎は動きに無駄がない。洗い物をしても水撥ね1つシンクの外には飛ばさない。
すべてが片付いたことを見極めて、清十郎はエプロンの紐をほどいた。
ネクタイこそしていないが、後はジャケットを羽織れば身支度は完了する。
今日の面会相手、大日本監査法人パートナー尾瀬
1人で出てくるということはない。実務面のリーダーが出てくるだろう。
で、そういう人間は弱小会計事務所など蛆虫のようなものだと思っている。食い残しの死肉をあさるいやしい生き物だと。悲しいかな、それはあながち嘘ではない。
事実、今日は大手監査法人のおこぼれに預かろうとしているわけだ。
(まあ、おいらは所詮汚れ役だろうが、お嬢を色眼鏡で見られたくはねェな)
ジェニーはまだ若い。汚れ役のレッテルを貼られるのは忍びなかった。
「支度できたよぉー」
スーツに着替えたジェニーが事務所の玄関から飛び込んできた。
「遊びに行くんじゃねェんだぞ。間延びした声を出しやがって」
「何よ。いちいちうるさーい」
2人は大きめの書類鞄にノートPCを突っ込む。今時の仕事はこいつがないと始まらない。
(へっ。おいらが駆け出しの頃は
まるで自分が恐竜かシーラカンスにでもなった気がする。
「忘れもんはねェな? じゃあ、出掛けるぜ」
「はーい」
なんだかんだ言っているが、ジェニーはうきうきとした足取りで駅へと進む。
残業は嫌いだが、出掛けることは嫌いではない。
事務所に籠っていると気持ちが滅入ってくるのだ。たまには外の空気を吸いたい。
東中野から総武線で四谷まで行き、丸ノ内線で霞ヶ関へ。日比谷の大日本監査法人本社ビルまでは何度も来たことがある。
「はあ。同じ国家公認会計師でも住んでる世界が違うって、いつも思うわ」
大日本が納まっている高層ビルを見上げてジェニーはため息をついた。
「最初からこうだったわけじゃねェからな。合併だ、吸収だって、中身はいろいろあるんだ」
「それでもよ。別にこうなりたいってわけじゃないけど、もうちょっと落ち着いた暮らしがしたいわ」
ホールの受付で来意を告げ、尾瀬の迎えを待つ。
壁際のベンチに座って待つこと5分ほどで、顔見知りの女性、尾瀬の秘書がホールに降りてきた。
「お世話になります」
清十郎は軽く右手を挙げて存在を示しながら、立ち上がってお辞儀をした。
松坂というこの女性はジェニーと同年だったはずだが、こうも落ち着きが違うのはどうしたわけか。
「ご案内いたします」
くるりと身を翻す時の髪の動きでさえ計算しているかのように上品に揺れる。
ばっさばっさと動くジェニーの髪とは大違いだ。
「むう」
何やら気配で感じるのだろう。松坂の後に続きながら、ジェニーは手櫛で髪をすく。そんなことをしなくても、髪質自体は負けていない。
(髪質だけならな)
ジェニーの後ろを歩きながら清十郎は声にならない溜息をつく。
(若い男の中にでも放り込んでやった方が良いのかねェ)
ジェニーの母親がいなくなってから、妙な言い方だが清十郎が母親代わりを務めてきた。
その流れで言うなら、清十郎の子離れができていないということになろう。恥ずかしい話だ。
(しかし、普通は放っておいてもジジイは嫌いだと独り立ちするもんじゃねェのか?)
ジェニーには一向にその兆しがなかった。もちろん清十郎は「親代わり」ではない。
かといって「友達」でも、「親戚」でも「仕事仲間」でもない。
パートナーであって、「身内」だった。お互いにそれが居心地よく、疑うことをしなかった。
もっと事務的に突き放せばよかったのかもしれないが……。
(今更だよなァ。こりゃ、腐れ縁だわ)
うだうだ考えている間に、エレベーターは24階の応接フロアに到着した。
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