第9話 ウチにゃァ安売りする大根はねェよ。

「片桐会計事務所のお2人をお連れしました」


 応接室に入ったところで、松坂秘書がパートナーの尾瀬に報告した。


「そうか。片桐さん・・・・、わざわざ来ていただいて恐縮です」

「片桐です!」

「……」


 高層ビルに当てられて若干浮ついているジェニーを前に出して、清十郎は無言で頭を下げた。

 尾瀬とは旧知の中である。今更名乗る必要はなかった。


「それでは失礼いたします」


 深々と頭を下げて、松坂秘書が下がって行った。

 入れ替わりに応接フロア担当の接客係が、お茶を持って来た。


「片桐さん、吉竹さん。これ・・は本件を担当しているシニア・・・深山ふかやまです」

「深山です。よろしく」


 名刺交換の後、全員が席に着いた。


 深山たけしはグレート製薬を担当するシニアマネージャーであった。160センチ前後の小柄な男だ。

 そのせいで相手を観る時に上目づかいになることが多い。


(どうも油断できねェ相手のようだな。目にゆとりがねェ)


「深山、お2人は片桐会計事務所のパートナーだ。こちらのジェニーさんのお父様が吉竹さんと組んでおられたのだが、一昨年亡くなってね。ジェニーさんがパートナーを引き継いだというわけだ」

「片桐さんに吉竹さんと言いますと、昔大日本うちにおられたという……?」

「ああ、そうだ。吉竹さんは私より10年先輩に当たる。片桐さんは同期だった」


 尾瀬の目が遠くを見つめるものになった。


「あの頃はみんながむしゃらだった」

「日本中がそんな時代でしたからね」


 清十郎が同調すると、深山はわずかに鼻に皺を寄せたようだった。


「まさにバブルの真っ最中ですね」


 深山は舌を鳴らしそうな声音で言った。


「時期としてはそういうことだな」

「日本全体がどうかしていたんでしょうね」


 上の世代に思うところがあるのだろう。深山の物言いは辛辣だった。


「昔話はこれまでにしよう。今回グレート製薬特別監査に当たって、片桐さんにお手伝いをお願いした」

「聞いています。担当は手一杯ですので、緊急性を考えるとやむを得ないと思います」


 話を聞いていると深山の方に決定権があるように聞こえる。そんなはずはあるまいが。


「片桐さん、今回の契約条件をこちらにまとめてあります。以前の条件をそのまま踏襲している形です」


 業務範囲、報酬条件、成果物の引き渡し、必要経費、報告方法、守秘義務などについて資料が2セット用意されていた。


 清十郎は資料を手に取って、素早く目を通していく。中身を読まずに契約するなどという乱暴な受け方は絶対にしない。清十郎は契約というものを重く受け止めていた。


 ジェニーも資料をめくって眼を通していくが、全文を読んでいるとは思えぬ速さでページをめくる。一通り読み終わったジェニーは業務範囲と報酬条件のページを並べて見比べ始めた。


「何か気になるのか?」


 清十郎が水を向けると、ジェニーが予想工数表を指さした。


「この業務範囲に対してこの工数では、バランスが取れないと思います。誰がやっても間に合いませんよ?」

「確かにな。それはおいらも気になったところだ。尾瀬さん、どういう考えだい?」


 飄々とした口調だが、清十郎は言葉づかいを若干崩していた。取り繕う必要はないと判断したのか。


「深山、これは君が監督した内容だったな?」

「はい。全体の監査計画上、日程はこれだけしか取れません」

「日程を短くしても、工数は減りませんよ? それとも仕事の質を落とせと?」


 深山の物言いにカチンときたのか、ジェニーも言葉に不信を籠め始めた。


「まあ、待て、お嬢。深山さん、考えがあってやってることなんだね?」

「考えも何も、言った通りです。日程はこれだけしか取れないんで、ここに納めてもらわないと」


 清十郎が冷静に質問を引き取ったが、深山は木で鼻をくくる態度を変えなかった。


「日程の話と所要工数をごっちゃにする気かい? 見りゃァ、時間割単価も変更なしだ。これが掛け値なしのオファーということかい?」

「前回通りの条件で料金計算表を作らせてもらいました」


「そうかい……。お嬢、けぇるぜ」

「ん」


「吉竹さん!」


 帰り支度をする清十郎を尾瀬が呼び止めた。


「尾瀬さん、仕事をくれと頼んだのは確かにウチだ。だからって、これがお前サンとこのやり口かい? 値切りっコがしたけりゃ、やっちゃば・・・・・にでも行ってくれ。ウチにゃァ安売りする大根はねェよ」


「待ってください!」


 尾瀬が立ち上がったが、清十郎は止まらなかった。

 これは駆け引きではない。プロとして受け入れてはいけない線引きであった。


「失礼する」

「ごきげんよう」


 後も見ずに応接室を出て行く清十郎の後ろを、妙なテンションのジェニーが追った。

 深山は急な展開に付いて行けず、口を開けて見ているだけだった。


 ロビーまで降りて、ようやく清十郎は口を開いた。


「嬢ちゃん、無駄足を踏ませちまったな。おいらのしくじりだ。何か旨いもんでも食ってけェろう。おいらが奢るぜ」

「あれはちょっとね。えっ、好きなもの食べて良いの?」

「まあな。手加減はほどほどに頼むぜ」


 物事にこだわらないジェニーの性格に、清十郎は助けられた。胸の中の苦いものが、風に吹き去られていくようだ。


「じゃあさ、とらやのおしるこ!」

「ああん? 別にいいが、あそこは工事中じゃねえのかい?」

「銀座じゃなくって、帝国ホテルよ。このそばだけど行ったことないのよ」

「ふうん。任せるぜ。嬢ちゃんの好きなようにしてくれ」


 テンションの上がったジェニーが先導する形で、2人はホテルに向かって歩き出した。


「へへへ。清ちゃんカッコよかったね。『値切りっコがしたきゃ、やっちゃばに行ってくれ』だっけ? 『遊び人の清さん』みたいだったね?」

「よせやい。こちとら真っ当な勤め人だぜ」


 子供のころから遊び相手をしてもらった清十郎のことを、ジェニーは未だに「清ちゃん」と呼ぶ。清十郎の江戸っ子気質に似つかわしいので、はたから見てもさほど違和感はない。


「しかし、とらやかァ。おいらは何を食えばいいんだ?」


 左党の清十郎には場違いなこと甚だしかった。

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