第26話 幻覚を見る

 ここからの記憶は夢なのか現実なのか、ぼんやりとしている。

 その後も過呼吸が収まらず、左胸の肋骨、心臓のあるあたりの痛みがひどくなった。「胸が痛いです!」と訴えると、A先生ともう一人の先生が来られて、対応を相談されている様子だった。その時はすでに目を開けている余裕がなく、ほとんど目を閉じていた。すると脳裏に、自分のらしき肋骨とその中で動いている心臓なのか肺なのか、臓器が揺れている映像が鮮明に浮かんできた。なぜこんな映像が見えるのか、考える余裕もなく呆気にとられる。痛む左胸を手で強く押さえながら、試しにずっと仰向けだった体を横に傾けると少し痛みが和らいだ。そうか、先生に頼っているだけではこの状況は解決しない。自分で何とかしないと! 朝からどうにもならない状況が続き、突如として自立心に目覚める。上向きだった体勢を変え、横向きで体を丸めて小さくなり、呼吸を整えることに意識を集中する。A先生が「血中の酸素飽和度は100%」と看護師さんに言っていたのを思い出し、ICUからずっと鼻に装着していた酸素の管をそっと外す。酸素はもう十分のはず。

 横向きに寝た状態で目を開け、ベッドを見ると、ベッドがゆっくりと揺れていた。ゆらゆらするベッドに横たわりながら目を閉じると、瞼の裏に幻覚が見えた。ベッドの掛布団の上に、長野の実家から持ってきたオレンジのブランケットが掛かっている。誰かが掛けてくれたんだろうか? 上を見上げると、紫がかった粒子の雲のようなものが見える。よく見ると、その粒子の中に亡くなった父や母が笑っている顔が浮かんでいるような気がしてきた。あ、私を守りに来てくれている! ホッとしてうれしくなったが、もしかしてこれってお迎え?私死んじゃうの?と疑問も湧いてくる。ま、なるようにしかならん! その後も意識はありながら、不思議な幻覚を見ていた。病室の天井に満点の星空が現れ、そこに浮かぶ星座が回転しながら動いていく、という壮大なパノラマ。星座だけでなく、古代の神殿や百人一首に出てくる十二単のお姫様のようなモチーフも現れる。幻覚を見ているという自覚がありつつも、自分の想像力を超えた精巧な映像に感動すら覚え、うわー、すごいな!と唖然としながら眺めていた。その他にも、ベッドの周りがなぜか深紅のビロードのカーテンで囲まれているので、あれ?おかしいなと思って手を伸ばすと、ビロードのカーテンは消えて、現実世界の病院のカーテンに戻っている、とか。夢と現実が入り混じったふわふわした状態で過ごしているうちに、胸の痛みもなくなり、いつしか体も温まって眠りに落ちていた。

 意識がもどった時は、布団の中で汗ばんでいた。若い看護師さんに「寒いので温めて!」と訴えていた時に、「暖房をつけましょうか?」と提案してくれていたが、その暖房が効いているようだった。掛布団を取ると、身体に付けられていた電子機器が目に入り、全て身体から取ってしまいたい衝動に駆られる。悩んだ末、周りに誰もいないことを幸いに、体のあちこちに貼られていた心電図の磁石を全てはがすことにした。手術後ずっと履いていた着圧の強いハイソックスも、思い切って脱いだらすっきりした。看護師さんに怒られるかもしれないが、その時はその時!ともう開き直っていた。

 あらためて病室を見回すと、来たときは倉庫のような広い場所と思っていたが、実際は6人ほど入れそうな病室で、廊下を挟んで反対側が病院の医師や看護師さん達の作業するスタッフルームになっていた。そのスタッフルームからカメラで病室の様子を確認できるらしく、遠くから私の状態を観察しているような声が聞き取れた。気心の知れた仲間内の会話らしく、冗談や笑い声など病室では聞いたことのないフランクな会話が聞こえてくる。私の聴覚が異常に過敏になっていたから聞き取れたのかもしれないが、スタッフさんたちは、まさか私が会話を聞いているとは思っていない様子だった。というのは私の中の記憶であって、スタッフルームから聞こえてきた会話が実際の声だったのか、私の脳が勝手に想像して聴いていたものなのかは、今もよくわからない。

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