橋にて
ホテルに向かうことに、彼女はまだ気がついていない。
本当に、ただこうして二人で、二本足で歩いて散歩したかったのかもしれない、なんて思い始めているとしたら――やっぱり、彼女は愚かで、……とても可愛い。
池にかかった橋。
向こうから、だれかが来る。
女性の、二人組のようだった。
楽しそうに談笑している。
俺と咲花は左端に寄って、すれ違おうとしたが――。
「無視? 寂しいな――恭くん。咲花ちゃんも」
「おい、止まれよ」
咲花の喉の奥から、ひっと声が漏れた。
俺も立ち止まる。
自分の意志ではない。身体が。ほとんど。反射的に。……従ってしまう。
くすくす、と――黒いワンピースを着た黒髪の女性は、笑った。
「本当に、恭くんと咲花ちゃんだなんて。久しぶり! 元気にしてた?」
カラフルな服装、緑のメッシュを入れた金髪の女性は、気だるそうに、ニヤニヤしている。
「真衣、やるね! マジで恭と咲花だった」
……どうして。
もう、俺の世界から消えたはずのふたりが。
なんで。なんでだよ。いま、目の前に、現実の世界に、――存在している。
俺は。いわゆる男子中学生監禁事件の、いわゆる、被害者で。
彼女たちは。……咲花も含めてだけど。
いわゆる、加害者で――。
……苦しい。呼吸が。できない。
俺は思わずその場にしゃがみ込んだ。
意志に反して涙がぼろぼろぼろぼろ溢れてくる。
「……あ、うわ、あ」
「こんなところで大きな声を出したら迷惑だよ、恭くん? 具合、悪いのかな? ちょっと休まなくちゃいけないね?」
「真衣の家に連れてこうよ」
「やっぱりそれがいいですよね、沙綾先輩! 咲花ちゃん、恭くん支えてあげて? 公園の外に、うちの車、待たせてるから!」
「……な、なんで、真衣ちゃん、沙綾先輩、なんで」
咲花の声と。心の声が。理不尽にも。……被っている。
「咲花ちゃんモデルと動画配信なんてやってるんだね? びっくりしちゃったー」
「ねー。雰囲気、だいぶ思い切って変えたよねえ」
「ですよねえ、沙綾先輩! 昔からああいう、個性的? 変? なファッション、咲花ちゃん好きでしたけどー」
「まあ似合いもしないのに個性的なファッションしたがるやつは、自分に自信がないだけだから」
「芸大生の先輩が言うと、めっちゃ説得力ありますよお! 沙綾先輩は、個性的で、すっごい似合ってますもんねー!」
だめだ。どうして。未来なのに。……ここは。
戻っている。いつのまにか。世界が。……巻き戻されている。
「……それでさ? 咲花ちゃん。モデルとか、動画配信とか。デビューっていうの? 昔、地味で何にもできなかった分さ、憧れるのはわかるんだけどお……バレちゃうよ? あんな、思い切り、大学で、目立ってたら」
「……ま、真衣ちゃん、おな、同じ大学、なの」
「違うけどお。友達が、通ってるの。入学式に有名人いた! って言うからさ……調べたら……うそー、これ咲花ちゃんじゃない? って!」
「……名字、ちがう、ちがうのに」
「そんなんさ、見た目でわかるでしょ。咲花、自分じゃ、変わった! とか思ってんのかもしれんけどさ……」
沙綾が――咲花の太ももを、蹴った。
咲花は、呻く。
「うちらから見たら全然同じだから」
「ですよねー!」
今度は、真衣が、俺の頭を――靴のまま、踏みつけてきた。
ぐりぐり、ぐりぐりと、……足を動かす。
……やめろよ、と。
言えない。こんなにも。俺には。……死にたいほど。
奴隷根性が、染みついている。
ひと気は、ない。
ほとんど、ない。誰も通らない。
それに、こいつらは――ひとが通ればぱっとやめる、ただそれだけの、ことだろう。
「さてさて、行きましょー。大人しく、車に乗ってくれないなら――
――嘘だろ。時雨。誠。
俺を、徹底的に奴隷にしたあいつら――。
「……やめ、し、時雨は、やめ」
やめて、と言葉にすることすらできない。
「……お兄ちゃんと、誠くんと、いまも、つ、付き合いが、あるの」
「もちろん! ずっと仲よしだよ。……まあ葉太くんは途中で抜けちゃったけど?」
「うちら仲良しグループだもんなー」
「ですです!」
どうして。……なんで。
いまさっきまで――俺は。……俺は。
咲花と、夜の散歩をしていた。散歩を。していた。させようとしていた。
ただ、それだけの深夜の時間だった、はずなのに。
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