第2話 片方だけの赤い靴
「新聞の尋ね人の広告は出してみましたか?」
「出しました、いろんなとこに。でも、返事ありません。
どこからも捜索願い出てないと、警察の人言ってました」
「広告を見ても、誰も連絡してこなかったし、新しい手がかりも発見されない。それで、コベントリー巡査部長の奴、ホームズに丸投げしたわけだ」
僕は、合点がいった。
「私、一生懸命やりました。みんな、働き者だといってくれました。
夏になり、奥様の息子さん、大学から帰てきました。ホテル手伝うしました。
私たち仲良くなりました。プロポーズされました。
でも奥様、私のこと誰かわからない馬の骨いいました。つり合わないから、ダメだと。
二人、喧嘩しました。ホテルのみんなも、嫌な目で私見ます。私どしたら良いですか」
ミス・メアリーは、とうとう泣き出してしまった。
「同じ屋根の下にいて、ほかに頼るものが無い女性を追い詰めるとはひどいな」
「しっかりして、貴女は何も悪くない。結婚は当人同士の問題です。
お互いの気持ちさえ本物なら…」
僕は、励まそうと一生懸命だった。
「違うです、奥さんの息子さんとても良い人。
でも私、他に好きな人います」
ミス・メアリーは、言い切った。
「それは誰です?」
ホームズが聞いた。
「階段で、私追いかけてきた人」
「でも、何も覚えてないんでしょう?」
「名前思い出せません。でも本当です。
あの夜、二人で踊りました。心が一つになりました。
でも時計が鳴って、帰る約束の時間を思い出して、私慌てて家に帰ろうとした。
あの人は私を追ってきて、私、階段で何かに足をとられて、滑って落ちたです。
気がついたら、ホテルの階段のとこで倒れてました。覚えてるのそれだけです。
でも私、嘘つく嫌です。プロポーズ断りました。
でも息子さん諦めてくれません。クリスマス、息子さんまた帰ってきます。
どうすれば良いですか」
きつく握った手が震えていた。
彼女のつらい立場は、容易に想像がついた。僕は言葉を無くした。
「私のせいで、奥様も、ホテルも、変な感じなりました。
私、自分が不幸の原因になるような所、いたくないです。でも、どこ行けばいいですか? 本当の名前知らない。私、自分をどやって探すですか?」
女はまた泣き出した。
ホームズは、長い腕を差し伸べて女の手を優しくたたいた。
ホームズが同情に溢れた態度を取るのは、めったに見た事がない。
「絶望の淵にある淑女に助けを求められたら、紳士たるもの、全力を尽くすのみですよ。良かったら、その靴を預からせてもらえますか?
あいにく、他にも事件を抱えてまして、すぐというわけにはいかないかも知れませんが、心当たりを当たってみます。待っていて下さい」
ミス・メアリーは、なんども御礼を言って、サウサンプトンへ帰って行った。
◇
「あんな若くてきれいな娘さんが、気の毒に。なんとか助けてやりたいねえ」
「ワトソン君は、相変わらず、美人に弱いな」
「だって、せっかく運命の相手に出会えたのに、門限を守ろうと焦って、階段でころんで、なにもかも忘れちまうなんて、ついてないにもほどがあるよ。
しかし、なぜ捜索願が出てないのかなぁ。君には見当がついてるのか、ホームズ」
「うん。僕は何通りもの場合を考えている。
その一つは、この靴底についてるコールタールだ。
その前に踊っていたと言ってたから、その時はついてなかったはず。
となると、転んだ階段に塗られていたんだと思う」
「それじゃ彼女は、命を狙われてたって言うのかい?」
「可能性は高いな。それに彼女を追ってきた男が、彼女の思い人でない違う男なら、そいつに突き飛ばされたのかもしれない」
「おい、それじゃまた、いつ何時狙われるかも知れないじゃないか!
すぐ、コベントリー巡査部長に、彼女をガードするように言わなきゃ」
ホームズは椅子の中で体を丸めると、体をゆすり出した。
機嫌のいい時の癖だった。
「なんだよ、からかったのか!」
「ゴメン、君があんまり心配するから、つい。
大丈夫、イースターから八ヶ月も経つのに、彼女は無事だろう? 安心していいよ。
ただ可能性の一つとして、私は彼女の落ちた階段はそのホテルの階段ではなく、別の階段で、その後誰かにそこから運ばれて来たんじゃないかと思ってる。
コベントリーの手紙にも、階段にコールタールの痕跡はどこにも無かったと、書いてあったからね」
「しかし、なんでそんな事する必要があるんだい?」
「それは、調べてみないとわからない。
だから、可能性の一つ、何通りもの場合があると言ったんだよ。
私の考えが全部間違ってることもある。
完全に推理を組み立てるにはあと一つ、二つ、手がかりになる新しい情報が必要だ。
取りあえずは、この靴の出所を当たってみるつもりだ」
「こんな靴片方だけで、なにがわかるって言うんだい?」
「ワトソン君、靴一つからどれだけ素晴らしい推理が出来るか、君にはわからないだろうね。
見てごらん、つま先とヒールの、この独特のカーマイン・レッドは、コチニールという染料で染めてある。
これは、エンジムシと呼ばれる、特殊なサボテンに寄生する虫から取れる染料で、産地はメキシコのオクサカ地方にかぎられている、大変高価な物だ。
そして、アーミン模様の白貂の毛皮(*注1)が、縁取りに使われている。王家の式典などによく使われる、高価なものだ」
「すると、あのお嬢さんは名家の出身なのかい?
なのに、誰も探してないなんて。ますます訳アリだね」
*******
(*注1) 白貂はイタチの仲間。冬の白い毛をベースに、尻尾の先の黒い毛を、飛び出たドットにあしらった模様。
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