第52話 告白

 人は誰でも嘘をつくものだ、いろんな嘘を。


 終わった思い出を滅びさせまいとして、いつも心の中に過去を生かしておくのは間違っている。なぜなら過去がいつまでも生きていれば、間違った遠近法で今を歪めてしまうからだ。重要なのはいつでも現在、過去は忘れるのが賢明だ。


 なのにずっと心に刺さった棘が「おかしい」と囁き続けている。

 こればっかりは、国王陛下の馬や兵隊を総がかりでも、問題は片付きそうもない。


 母さんは、私の眼の前で父さんに撃ち殺される寸前まで、泣きながら、『違います』と言い続けていたのだ。

 母さんは本当に、私のバイオリンの家庭教師ドミトリーと浮気をしてたのだろうか?オセロの妻ディスディモーナが死んだのは、イアゴーの陰謀(*注)だった。


 父さんと母さんが死んだ年のクリスマス、寄宿学校から帰った私に、マイクロフトがストラディバリウスを渡して、こう言った。

「屋敷と土地を売って、その半分でこれを買った。お前は次男だから、生前贈与だ。僕たちの学費と生活費は残してあるから大丈夫だ。どうか母さんの夢だったバイオリンをやめないでくれ」


 イギリスでは、土地・家屋は長男の総取りとなり、次男以下は何ももらえない。

 そのため、価値ある美術品や土地などを、生前贈与として下の子供に与える事はよくある事だ。あの時はまだ小さくて意味がわからなかった。

 だが、財産の半分――余りにも多すぎる。



  “氷の上をゆっくり、慎重に歩く つまずいて倒れないように”



「兄さん、聞きたかったことがある。実はここに越す前にストラディバリウスを修理に出そうとした。いつもの修理屋がたまたま病気で、親方筋の店を紹介された。

 修理屋は、ストラディバリウスの管理番号を見て、『シャーロット・マクシミリアンの親族の方か』と聞いた。演奏家時代の母を知っていたのだ。


 四十五年前、見習いだった彼は、当時のことをよく覚えていたよ。

 シャーロット・マクシミリアンが、息子さんのためにストラディバリウスを欲しがっていると知って、格安で斡旋したのは彼の親方だったそうだ。

 その時、ストラディバリウスを探していると言う話を持って来た男の名が、ドミトリー。そしてその一月後に、現金取引で間違いなくストラディバリウスを彼に渡したと。


 私は考えた。ドミトリーは本当は母と浮気なんかしてなかったのではないか。

 母さんはあの時、父さんにストラディバリウスに関わるのを強く止められた。

 あのヒソヒソ話は本当は、父に内緒でストラディバリウスを手に入れる為の相談で、あの抱擁と笑顔は、やっとストラディバリウスが手に入ると知った、喜びからのものだったのではないか――。


 母さんの死んだ後で、兄さんは、真実に気づき、ドミトリーと連絡をとり、家を売った金でストラディヴァリウスを買った。

 そうして今、私の所にこのストラディヴァリウスがある。

 これで合ってるか、マイクロフト・ホームズ。なぜ黙っていたんだ!」


 私の目は半眼に閉じて、全神経が針のように鋭くなっていた。


「シャーロック、そんな母さん似の目で見ないでくれ……」

 マイクロフトの大きな両手が顔を覆う。泣いていた。



   “突然滑って倒れ込んだ“



「お前のいうとおりだ、母さんは浮気なんてしてなかった。

 あの日、私は母さんが許せなくて、父さんに告げ口した。

 母さんがお前のバイオリン教師と浮気していると。

 ――まさかあんなことになるなんて思わなかったんだ。


 その後で逃げたバイオリン教師のドミトリーから、手紙が届いた。

 母さんは、お前のためにストラディバリウスを手に入れるため、売ってくれる人を探すよう頼んでいたのだ。

 やっと安く譲ってくれる人が見つかって、喜びのあまりしがみついたのがあの時の姿だった。母さんが嫁入り道具を売ったり、借金をしていたのは、その頭金の費用だったんた」



  “すぐに立ち上がり、氷が割れていないのを見て、先を急ぐ”



「私のせいで、お前から両親を奪った。償いようもない。せめて私にできるだけのことはしてきたつもりだ。一生黙っている気だった。だが肝臓をやられて私はもう長くは無い。最後にお前に会って謝りたかった。だけど……どうしても言い出せなかった」 



   “これが冬だ それでもなお――冬だけの喜びがある”



 深呼吸を一つした。

「知ってたよ兄さん。確かめたくて鎌をかけた。ごめんよ、辛い告白をさせて」


「さすがだな、シャーロック。感服するよ」


「僕を誰だと思ってるんだい? あなたの弟は、世界一の探偵シャーロック・ホームズなんだよ」


「……私を許してくれるか?」


「忘れちゃダメだよ、今はクリスマス。平和と赦しの季節だ。さあ今度は、兄さんの好きな、バッハのG線上のアリアを弾こう」




 ――うわーえらいこと聞いちゃった。

 ――聞かなかった、私は何も聞かなかった。

 ――出るに出られない。

 ――でもこんな時だからこそ、ホームズさんを慰めなきゃ。

 ――パリ……。(ちょっと音が控えめ)



 ◇



 ロンドンに帰る夜行列車に間に合うよう、迎えの馬車が来た。

 ドアの外で最後の握手をする。

 アザラシのヒレのように平たくて幅の広い、昔と変わらないマイクロフトの手。


「さよなら、マイクロフト」

「さよなら、シャーロック」


 ふりやんだ雪の中、声だけで答えると振り向くことなく、馬車に乗り込んだ。

 雪の上に馬車の轍を2本だけ残し、マイクロフトは遠ざかっていった。


 多分もう二度と会うことはないだろう。




 ――知ってたよ――

 本当は知らなかった、私のプライドが言わせた嘘だ。


 私たちはもう十分歳をとった。裁きの時代はもう通り過ぎたと思う。

 マイクロフトが私にしてくれたこと、その裏にあった償いの日々。


 どうかマイクロフトの残りの時間が冬の暖炉のように温かいものでありますように。


 私は家に入り、後ろ手にドアを閉めた。その途端――


「「「「「「「「「「メリークリスマス!」」」」」」」」」」

 大歓声と共に後ろのドアが開き、私はドアに弾き飛ばされた。

 パンパンとクラッカーがなり、紙吹雪が舞う。


「ホームズさーん、新年のカウントダウンしにきたよー。あ、あれ?どうしたの」

 モリアーティの弾んだ声。しかし私は倒れたまま動けなかった。


 今ので久しぶりにぎっくり腰をやってしまったのだ。


 *******

(*注)オセロ。シェイクスピア四大悲劇の一つ。イアゴーはオセロが妻のディスディモ―ナに送ったハンカチを盗み、キャシオーの部屋に置いて、オセロにキャシオーとディスディモーナが密通していると告げる。イアゴーの話を信じたオセロは、嫉妬のあまり妻を自分の手で殺してしまう。やがて全ては、オセロを陥れるための陰謀だったことがわかり、オセロは妻の後を追い、自ら命を断つ。




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