第8話 モリアーティの恋

 その中に親切な客が一人いてさ。時々お菓子とか、絵本なんか買ってくれて、おかげで字が読める様になった。

 女を待ってる間、退屈すると煙草で輪っか作ってくれた。

 天使の輪っかだって思った。 


 でもその男は女に入れあげたせいで無一文になり、女はそいつを捨てた。

 怒った男は女をナイフで刺し殺し、警察に連れてかれてお終い。

 殺された女の死体と、男の後ろ姿を見て『ああこれが負け犬か』って思った。

 ああはなりたくないってね。


 一人になった俺は、食ってく為ならなんでもやった。盗み、万引き、スリ、かっぱらい。すっかり手癖が悪くなった。

 でも本が読みたくて、ゴミ箱の新聞とか万引きした本を夢中で読んでたよ。

 十歳になった時、とうとう警察に捕まった。

 そしたら警官の一人が、俺の腕と足の傷に気がついて、『お宅の息子さんじゃありませんか』って家に連絡してくれたんだ。

 皮肉だよな、あんなに痛かった傷が今度は俺を助けてくれたんだから。

 まるで、オリバー・ツイスト(*注1)みたいなハッピーが俺に降ってきたのさ。


 家に帰って、泣いて喜ぶ両親、姉達、小さい二人の弟。たくさんの親戚たち。

 もっとも、その喜びの言葉の一つ一つに、裏があるのが俺には見えたけどね。

『これで食いっぱぐれないで済む』

 そう思って、俺は周りの期待通りのいい子を演じた。

 騙し方は、散々あの女を見て学んでたから簡単だった。 


 困ったのは、父親が俺のことを死んだと思って、次に生まれた弟に、俺と同じ“ジェームズ”って名前をつけちゃってたんだ。(*注2)

 今更名前を変えるわけにいかなくて、ジェームズ・Oオルダー(兄)ジェームズ・ヤンガー(弟)って呼ばれて、しまいには略してOとY。


 腹減らさなくて良いんだからって思って我慢したけどなんか傷つくよね、そういう呼び名は。無かったことにしたい昔のことを思い出させてさ」



 喋るのに忙しいのか、指に挟んだタバコが短くなった。さっきから全然吸っていない。


「イギリスでは、爵位や館の継承は嫡男の総取りで、次男以下は雀の涙。良家のお嬢さんをもらって対面を保って養うには少なすぎる。牧師とか、軍人、官僚、職を得て生計を立てなくてはならない。


 それができないから、一生実家で独身のまま、スモーキングルームで、煙草吸って、憂さ晴らしをする独身男は多い。ホームズさんは次男だろ、その口かい?」


「まあそんなところだ。だが、私は兄のマイクロフトを好きだし、尊敬してる」


「そっか。俺の弟達も、突然死んだはずの兄が現れて嫡男の権利を全て失ったのに、遊んで欲しくて俺にまとわりついて来るんだ。

 さすがに不憫でさ、だから弟達とは結構仲は良かった。なんだかんだ言っても、兄弟ってそんなもんかもね。ごめん、もう一本もらえる?」


 指先を焦がし出した煙草を捨てて、モリアーティは言った。


「エジプト産の最高級品なのにごめんね、いつもこんないいの吸ってるんだ」


「いつもはもっと安物の手巻きシャグ煙草だ。これはワトソン君からのプレゼント。今日誕生日だったんでね」


「いくつになったの?」


「五十」


「うわー、スゲェおっさん」


「もう一人の君は、もっとヨボヨボだ。早く元に戻らないと老衰で死んでしまうぞ」


「そしたら僕は、若いままで逃げればいい」


「さっきの説明聞かなかったのか、二人は繋がってる。片方が死んだらもう片方も死ぬかもしれんのだ」


「まるで、『ドリアン・グレイの肖像』(*注3)だね。

 一方を殺せば、もう一方も死ぬ。悪徳に満ちた生活を反映する醜悪な顔のジジイ。そして、若く美しい青年は、醜い自分が大嫌い。今の俺そのまんまだ」


 若いモリアーティの吐く煙草の煙が、特大のため息に見えてくる。


「だが、それが本当の君だ。嘘は結局身を滅ぼす」


「身を滅ぼすか。あのさ、モリアーティ教授が死んだ後、ホームズさんあいつのこと思い出したりした?」


「したよ。彼の死以来、ロンドンは奇妙に退屈な街になってしまったからね。

 ここにきたのだって、モリアーティの名を聞いたからだ。

 またあいつとやりあえると思うと、正直、武者振るいがした。

 だが、そのせいで、ワトソン君を巻き添えにしてしまった。

 今は来るんじゃなかったと後悔してる」


「へえー。じゃあ、あいつの片想いじゃなかったんだ。

 あいつさ、ホームズさんの存在に気づいてから、凄く気にしてたんだよ。

 だって自分に匹敵する頭脳を持つ奴になんて、今まで一度も会ったことなかったんだから。まるで恋でもしてるみたいに夢中になってた。

 昔、一回だけ本気で女に惚れたのに叶わなかった時に似てたな」


「モリアーティが恋! それはまた……いったいどんな女性だっだんだ」


「それが汚れたところなんか一つもない様な可愛い女でさ。あいつ変に純粋なとこあるんだよ。結局彼女は、他の男を選んだ。

 あの時、あの女が俺に振り向いてくれてたら、俺にも別の人生があった気がするんだけどな」


 目の前にあるのは、ワトソン君とは別のタイプの女受けする顔だ。

“女を利用して生きてきた”そんな人間が女に捨てられたのに、不思議と恨みはないようだ。余程良い思い出なのだろう。


「四月二十四日の朝、あいつがあんたにわざわざ会いに行ったのは、警告だけでなく、あんたを自分のものにしたかったからなんだ。でもホームズさんは突っぱねた。まあ、当然だけど」


 あの朝、ベイカー街221-Bに突然現れたモリアーティの姿が蘇る。好奇心をいっぱいに漲らせてじっと私を見つめていた。

『手を引くように』という警告以外に、私を自分のものにしたかった? 

 確かに私の才能はそのまま犯罪に使える。

 私が犯罪者になれば、大変なことになっていただろう。

 家宅侵入や、色々警察には言えないことをよくやるから、「今度やったら、逮捕しますぞ」とレストレード警部にも何度か釘を刺されたっけ。


「その後凄く荒れてね。じぶんの思い通りにならない相手を、どうやって破滅させるか考え続けて、悪魔みたいな顔になってた。挙句があの滝での転落死、自業自得だよ」


 *******

(*注1)オリバー・ツイスト(1837〜1839年)ディケンズの長編小説。

 孤児、オリバーがいろいろな苦難に遭いながらも、純粋な心と幸運に恵まれ、立派に成長する。典型的なハッピーエンド物語。ディケンズの出世作。


(*注2)ホームズの宿敵の名は“ジェームズ・モリアーティ”と言われていますが、実は原典には、モリアーティ教授のファーストネームが出て来ません。常に“モリアーティ教授”なのです。「最後の事件」の冒頭に「ジェームズ・モリアーティ大佐が、死んだ兄を弁護する、あのような手記を発表し……」とあるのですが、これだと弟の名がジェームズなのであり、兄弟が、同じ名前だったことになります。シャーロキアンの中でも問題になっていましたので、私なりに辻褄を合わせてみました。原典の『恐怖の谷』の中で、弟がもう一人いて駅長をやっていると書かれています。


(*注3)ドリアン・グレイの肖像(1880年7月雑誌発表。1881年出版)オスカー・ワイルドの長編小説。

 絵のモデルになった、美青年ドリアン・グレイは、「僕ではなく肖像画の方が歳を取ればいい」という。それ以来ドリアンは歳を取らず、代わりに肖像画の中のドリアンが歳を取り出す。悪徳を重ね、醜く老いた肖像画が、自分の良心だと気づいたドリアンは、その姿を憎み、絵にナイフを突き立てる。響き渡る悲鳴。後には美しい青年の肖像画と、年老いた醜いドリアン・グレイの死体が転がっていた。




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