第4話
5
気がつくとテーブルに突っ伏していた。
周囲の明るさが変わっており、青みがかった薄闇に包まれている。目の前の席に赫雷はおらず、テーブルの上にあったはずの皿やコップも無くなっていた。
空は黒色から藍色に変わっている。砂金のように輝く星も、闇よりも主役だった月もない。隠されていた外の景色がぼんやりと浮かび上がり、木が植えられ砂利が敷かれているのがなんとなくわかった。庭があるそこにあるらしい。
昨夜の狂気は形を潜めていた。赫雷の言葉によって引き出された悪魔のような誰か。僕よりも強大な誰か。嵐のようなヤツだった。僕の中で今まで使ってこなかった場所が使われた形跡と気怠さが残っている。
いったい自分に何が起きたのだろう? またもや記憶に空白がある。ただ単純に意識を失っていれば良いのだが……。
赫雷は。彼ならこの空白に何があったのか知っているに違いなかった。
周囲を見渡す。誰の姿も見当たらなかった。
窓の外から小鳥同士のお喋りが聞こえる。楽しげな声。何を言っているのかわからない。
人間が聞いているとは思っていないのだろう。幸せだと鳴けば酷い目に遭う。だから人の耳に入る時には少し低い声で話さなければならない。
何を考えているんだ、僕は?
鳥のことなんてどうでもいい。いい加減、正気に戻れ。
僕は椅子から腰を上げ、食堂を後にした。
人気のない廊下に出る。灯りが消えているので昨晩に通った時よりも暗い。その中で自分の手をかざしてみると輪郭がなかった。
もしかして僕は幽霊なのだろうか。
ふと、誰かが、ここは死後の世界だと言っていたことを思い出す。
言っていたのはウェンズだ。
勘違いしてしまうのも無理もない。だってここは、驚くほど現実味がないのだから。それに加えて僕の記憶は穴だらけで、今に至るまでの重要な場面が抜け落ちている。
地獄のような戦場から華やかな屋敷の中へ。
それでは脈絡がない。夢を見ていると思った方がまだ自然だ。
ああ、では、ここが夢だとするなら、ヒメイもウェンズも僕が作り出した夢の住人なのだろうか?
違う。そんなわけがない。彼女たちにはディティールがある。この屋敷の景観も、僕の想像力では生み出せない緻密さだ。現実が現実である証拠に、ここは僕の内側よりも広大で、うんざりするような物理法則と約束事で溢れかえっている。魔法は使えないし神や悪魔も現れない。いつものように綻びのない堅牢さ。付け入る隙がない。この硬さに比べれば人間なんて卵のように脆い。
それをさっき、実感したのではなかったか。
いつだって狂うのは人間の方。
この世界に比べれば、人間の内側は狂気に満ちている。日頃のニュースや取り巻く社会、目の前の仕事に忙殺されて、真実を見失っている。
狂った人間は自分が狂っていることに気づかない。気の狂い始めた僕だからそれがわかる。みんな同じ穴の狢。それぞれがまともなフリをした狂人で、それを悟られまいと素知らぬ顔を演じている。だから、常に大勢が進む方向へ流されてきたのだろう。本当は狼なのに羊の皮を被って生活をして、そしていつしか自分が狼であることを忘れて、本当は肉食なのに草ばかり食べ続けて。どうやっても満たされない飢えに喘いでいる。
「おなか、へったな……」
あんなに美味しいお粥を食べたばかりなのに。
食べて食べて食べて、本当にどうしようもない。
通路を曲がるとすぐ目の前に人影が立っていた。危うく正面衝突しそうだったので慌てて立ち止まる。
「うわっ。すみません」
咄嗟に謝罪する。
「……」
顔を伏せているので相手の顔を認識できない。思わず後退りすると、目の前の人影は顔を上げた。
「……どこに行っていたんですか? 探したんですよ」
白い髪のおさげの女性。この館で目覚めて初めて出会った人物。ヒメイだった。彼女は薄闇の中、人形のような無表情に見えた。
「部屋に行ったら空っぽですし、ガー先生は何も知らないって言うし……」
「ガー先生?」
「ドクターのことです。あ、特に異常はないそうで、良かったですね」
薄闇の中、ヒメイの笑顔が見えた。それを見て僕はほっとする。良かった、現実だと。
「僕を探していたってことは、何か用事ですか?」
「いえ、特段の用事はありませんけれども。でも記憶喪失の未成年ひとり、放っておけないじゃないですか。ダメですよ。一人で部屋から抜け出すなんて」
ヒメイは手を腰に当てて人差し指を向けてくる。
「一人じゃなくて、赫雷も」
いたのだが、今はいない。
「赫雷くんですか? どこにいるんですか?」
どこにいるのだろう。こちらが聞きたい。
「慣れないうちは一人で行動しないでくださいね。わかりましたか?」
子供扱いだと思いつつ、頷いた。
「はい、よろしい。ではこれを」
と、ヒメイは金属の輪っかを差し出してきた。
「これは?」
手に取る。それはアクセサリーのような華奢でか細い腕輪だった。
「バイタルを監視するための器具です。普段は腕時計として使ってください。それと電源がついていると他人に現在地が伝わるようになっています」
プライベートを監視する、という意味に聞こえた。
「捕虜として監視下に置くということですか?」
「ああ、他の人も同じ反応をするんですよね。そんな物々しいモノに見えます? これが? もちろん外しても爆発しませんし、腕に嵌めるのも内懐に入れておくのも任意です。どうしても嫌なら付けなくてもいいです」
「管理チップなら背中に埋め込まれているけど」
それを読み取れば僕の現在地の他に、過去数年分の生体情報や業務履歴などの情報も手に入るだろう。
「知っています。だけれどそれはアウルムでしか機能しないので」
僕はその輪っかを右手に嵌めた。
「以前の僕も、これを?」
「いえ、それが」
していなかったとヒメイは首を振る。
「どうして?」
「邪魔だとか、付けたり外したりするのが面倒だとか」
「ああ」
たしかにそうなる予感がする。一度外したらもう二度と付けないだろう。
「通話とか他人の居場所がわかる機能もついていて便利なんですけどねー」
「赫雷の居場所もわかりますか?」
「はい、もちろん。腕を出してください。えっと、ここを押して、こう操作してもらえば……」
ヒメイが腕輪を触ると非物体液晶が現れた。そこに描かれているのは館内の見取り図だ。その中を青い点と赤い点が動いていたり止まっていたりしている。
「この館にいるAIは青い点で表示されます。赤い点が人間です。名前を表示する設定にすれば点の下に文字が出るようになります。名前を指で触れれば通話もできます」
なるほど。便利といえば便利だが、自前のデバイスであればこれくらいの機能はすぐにインストールできる。この腕輪をわざわざ配布するのはそれを持たせないようにするためではないだろうか。
確認すると、僕は赤い点で、ヒメイは青い点で表記されている。
「ネットには繋げない?」
「この館の敷地内でネット接続することはできません。情報収集する際は館内にある図書館にアクセスできるのでそれを使ってください。文字だけの本だけではなくコミックや映画も見れますよ。流行りのものはありませんが、音楽も聴けます」
ヒメイはまた僕の腕をとり腕輪を操作した。画面が切り替わり、liberaryと表示されて本が開く映像と共に索引が出る。
「自動生成は?」
「AIが創る作品のことなら所蔵されていません」
おそらく違法なのだろう。アウルムでは普通のことだが、多くの国ではAIが主体となって芸術関連の作品を作ることが禁止されている。しかし、現代のクリエーターの多くはAIを利用しており、商業化している作品のほとんどにAIが関わっているとされている。
僕は腕輪を操作して地図を呼び出し、試しに赫雷を検索してみた。
地図の一点が青く点滅する。彼はここから400メートルほど離れた場所にいた。仕事中らしい。タップすると今の作業が完了するのが8時間後と表示される。
「通話も不可か……。赫雷はここで何をしているんですか?」
「何って、お仕事だと思いますけど。体を借りるために労働契約を結んだって聞きました」
「労働契約? それじゃあ僕にも何か仕事が……」
「病人の仕事は安静にすることです。ほら、部屋に戻りますよ」
手を取られて誘導される。
エントランスに戻り、二階へ。そして元いた部屋の前に戻ってきた。
「もう少ししたら朝食の時間になるので、それまでここで大人しくしていてください。朝食の後にリハビリとかあなたの今後について話し合いましょう」
部屋の中に押し込められ、扉が閉められる。
仕方がないので言われるがまま休むことにした。
考えてみればこんなふかふかなベッドで寝られるなんてアウルムでは考えられない贅沢だ。堪能できるうちに堪能しておこうと布団をはぐ。
そこで僕は頭がまっしろになった。
布団を捲ったそこには、薄着の女性が二人、手を握りながら左右対称に横たわっている。
覆いが無くなったことで二人のうち一人が身じろぎをする。
「うーん……。あれ?」
片割れの、髪がショートカットの女性が先に目を覚ました。
「ムニンちゃん、ムニンちゃん……。起きて。起きて……」
目を覚ました彼女はゆさゆさと長髪の方を揺さぶった。
「んー! 嫌っ!」
長髪の女性はその手を振り払う。
「起きてぇ……」
起こそうとした女性は力が抜けた様子で、寝ている女性の上に折り重なった。
「ぐえ」
「ムニンちゃん。起きて……」
「起きるから……! ちょっと、邪魔……! どきなさいよ!」
下敷きになった女性は抜け出そうともがいている。
「あの」
その段になってようやく、僕は恐る恐る声をかけた。
「ディ! 助けて!」
名前を呼ばれた。ということは、この人は僕のことを知っているのだな、と思いながら伸ばされた手を掴む。
長髪の女性を起こした。
「……で、なに?」
寝癖のついた彼女は手を払って服のシワを伸ばすと腕を組んでこちらを睨みつけた。
気の強そうなヒトだった。服装は寝巻きではなく、ボリュームのあるスカートとレースが付いた上着で、民族衣装のようにも見える。
「いえ、別に用事は……。あの、なぜベッドの中に?」
そう尋ねるとぎろりと睨みつけられる。聞いてはいけないコトだったのかもしれない。
「あの、実は僕、記憶喪失で」
「そんなの知ってるから」
彼女はぴしゃりと言う。
「館内のAIは情報共有しているから。ああ、そっか。それも忘れてしまったのね。かわいそ。じゃあ初めまして。あたしはムニン。そっちの寝てるヤツはフギン。二人ともAI。理解した?」
AI? 僕は驚いて二人を見る。
ムニンというのは目の前の彼女。フギンというらしいもう一方は起床に失敗して二度寝に突入している。
なんともAIらしくない怠惰ぶり。アウルムのAIにはない人間らしさだった。
「どうしてここに?」
「目を覚ましたって聞いたから見にきただけよ。留守だったから待っていようってフギンが言い出して……。そんなことよりディ。記憶喪失だなんて困るのだけれど」
圧力を感じる眼差しで見上げられる。より困っているのはどう考えても僕の方なのだが、彼女がそう言うと、申し訳ないという引け目を感じてしまう。
「はあ……」
「ヴァルキリーが不在だなんて由々しきことだわ。ここ一ヶ月間、一度も出撃できていない。これが本国に知られたら、あたしたちの天国はパーよ」
彼女は一旦グーを作ってからパーを出す。僕がチョキを出すと彼女は冷たい視線を向けてきた。
天国とは。
「ここは天国なんですか?」
死後の世界。おそらく僕が行かない方。なんだかずっとこういう話ばかりを聞いている気がする。
「ヴァルハラよ。ま、似たようなものよね。それで、いつごろ出撃できそうなの?」
「出撃……」
その言葉を聞くとなぜだか気分が悪くなる。
「三日後、大きな戦闘が予定されているわ。その時までにどうにかならないの?」
「あの、僕に期待されている内容がよくわかりません。もしかして、戦闘機に乗れ、ということですか?」
「そう」
彼女は顎を引いて頷いた。
「僕が乗れる機体があるんですか?」
そういえば三機の戦闘機を保有している、とか赫雷が言っていたような気がする。
「なんだか話にならないわね。忘れたのだとしても契約は絶対よ。あなたにはあなたの仕事をしてもらいます。そうね……。じゃあ六時間後。また会いに来てあげるからその時までに状況を整理しておくこと。いいわね?」
そう言って人差し指を突きつけられる。
「はあ……」
なんだかよくわからないうちに僕は了承させられた。
「これで用事は済んだわ。フギン! いつまでも寝てないで行くわよ!」
「……」
ムニンは反応しないフギンの両脇を抱えると、そのままずりずりと引きずりながら退出していった。
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