第3話

4


 ヒメイは先生を呼んでくると言って部屋を出ていった。その数分後、入れ替わるようにして扉が開いた。

「入ってもいいか?」

 赫雷の声だった。

「どうぞ。あ、部屋の明かりを付けてもらえる?」

 ぱちっと音がして部屋の明かりがついた。明るすぎて目を開けていられない。

 瞬きを繰り返し、なんとか目を慣らして顔を上げる。暗くて今までわからなかったが、僕のいる部屋は天井、壁、床から家具に至るまで赤い色をしていた。

「え?」

 僕は部屋の色ではなく、そこにた少年の姿に驚いた。その容姿が、まるで少女の理想を模写したかのようなスタンダードな美少年であることに。どこを見ているのかよく分からない灰色の瞳、カラスのように真っ黒な髪。とても端正な造形だ。

「もしかして、赫雷……?」

 半信半疑、控えめに、その美しい少年に問いかける。

「私だ」

 聞き間違いではなかった。年季の入った男性の声が少年の口から聞こえてくる。

「……」

 まだ喉仏も隆起していない、すらりとした流線形の喉から壮年の渋い男性の声が聞こえてくるというのは、なかなかどうして現実と認識し難い。

「赫雷。どうしてそんな姿に」

「この機体しかなかった」

「その格好で、その声はどうなの? 悪魔が腹話術しているみたいなんだけど」

「悪魔が?」

 少年は目を見開き、ショックを受けたような顔をした。

「ごめん、ちょっと言いすぎたかも……。えっと、なんだっけ。衝撃が強くてすっかり忘れちゃったよ。えーと……そうだ。なんだか僕自身、色々と忘れているらしくて……」

「何を忘れたんだ?」

 少年の姿になった赫雷に問いかけられる。僕は彼の顔を見ないように天井を仰ぎ、過去を振り返った。

「七機の戦闘機と戦って、ハッキングされて……それからの記憶がない。しばらくここで生活していたって聞いたけど、本当なの?」

 ヒメイと名乗った女性はそう言っていた。

「肯定する。ディはここで二十一日間滞在し、生活している。もっとも、その内の十四日間はずっと眠っていたわけだが」

 赫雷はそれを事実だと認めた。

「映像は出せる?」

「HUDに出力しよう」

 赫雷は棚の上に置いてあったヘルメットを差し出した。僕はそれを受け取ってぎこちなく頭に被る。慣れ親しんだ装備のはずが、どこか他人の物めいていて、サイズが合っていないような違和感があった。

 被った瞬間にシステムが立ち上がる。バッテリィは生きていたようだ。ダウンロード中という表示が一瞬現れて動画が再生される。

 そこは建物の外だった。芝生の上にベンチが置いてある。朝のような空気感。そのベンチに二人の人間が近づいていき腰をかけた。赫雷の視界なので彼の移動に合わせて画面が揺れている。赫雷がその二人に近づいていくと片方は僕でもう一人がヒメイだとわかった。ヒメイは先ほど着ていたものと同じ制服を着ていて、僕もそれに似た感じの服を着ている。二人とも同時に赫雷に気がついて、こちらに振り向いた。

 そして特に何が起きるわけでもなく映像が終わった。

 客観的に自分の姿を見せられても何も思い出せない。明らかになったことは二つ。ヒメイとは初対面ではないということと、僕に記憶の欠落があるということ。

「とりあえず、納得した。ここがどういう場所なのか教えてほしい」

「危険性はない」

「それはなんとなくわかる。地理的な情報とか所属している団体の名前を教えてほしい」

「では地理から話そう。ここはミルラの北東に位置している」

「ミルラってどんな国だっけ? どの産業が強い?」

 思い出すのが面倒だったので赫雷に尋ねる。

「AI、IT系。デュアルソサイエティ技術を使った首都で有名」

「デュアルソサイエティ? よくわからないけど、ソフト面に強いってことだよね? それなのに静観主義なんだ? 支配層のAI比率は?」

「非公開の情報」

「ここの元締めはなに?」

「不明。ただし、我々が乗ってきた軽量戦闘機の赫雷を含め、他二機、計三機の戦闘機を保有している。そしてそれを整備、改良できるだけの設備が存在する」

「どういうこと? 軍事組織ってこと?」

「詳細は不明」

 油断ならない状況だと思っていた方が良さそうだ。とは言っても、殺伐とした感じはまるでしない。殺されるならとっくに殺されているし、捕虜の可能性も考え難い。

「僕の今の立場は?」

「傷痍軍人。ただし軍籍にまだ名前があるのかは不明」

「あっそう。君のその身体はどういう経緯で手に入れたわけ?」

「コレは」

 赫雷は自分の身体を見おろした。

「私から願ったわけではない。戦闘機から取り出された直後、空きがあるからとコレに挿入された。備え付けの緊急ソケットでは身動きが取れなかったので使用している」

「腹に背をかえられなかったわけね」

「背に腹だ」

「まあ、背中もお腹も両方あるから良いじゃない。顔もかわいいしさ」

 そう言うと彼は不貞腐れた顔をした。

 身体動作に関するカスタムが不十分なのだろう。感情がすぐ出力されている。

「子供なのが気に入らない?」

「気にいるとか気に入らないとかではない。ただ、普段使いの義体と動作性が異なる。ロックがかかっている領域もあって窮屈だ」

「君にも窮屈って概念があったんだ」

「もちろん」

 こくりと彼は頷いた。

 子供のフリが上手い。慣れていないというが、その辿々しさがリアリティを与えている。

「性能は? 何世代のやつ?」

 外側から見ただけではわからないので尋ねた。製造年がわかればおおよその能力が測れる。

「不明。少なくとも著名なメーカーで製造されたものではない」

「戦える?」

 赫雷は頭を振った。

「人に危害を加える動作ができない。認証コードがあれば本来の力が発揮できると思うが……」

「いま出せる力はどれくらい?」

「同じ背丈の人間が出せる出力と変わらないだろう」

「つまり見た目通りか。ボディガードは任せられないわけね」

「いや、力に頼らない格闘術の覚えがある。いざと言うときは任せて欲しい」

 赫雷は謎の自信を見せるが、僕よりも小さな体では勝てる相手は限られるだろう。

 ベッドから起き上がる。

 布団を傍に除けると、右腕にガーゼが貼られているのを見つけた。剥がすとその下に真新しい注射の痕がある。気を失っている時に打たれたのだろう。怪しげな投薬をされるのはいつものことなので今さら気にするようなことではない。

 眠れたからか、立ち上がってみると体が異様に軽かった。まるで自分の体ではないように感じる。調子が良い自分、というのが久しぶりだった。

 ひらひらとした病院着のようなものを着せられている。こんな格好では出歩けない。着るものを物色しようとクローゼットに近づいたところで、ノックの音が響いた。

「失礼」

 そう言って入ってきたのは、白衣を羽織った黒髪の男。

「診察に。診るから、ベッドで横に」

 ボサボサの髪で無精髭を生やした陰気な男はそう指示を出す。言葉数を極限まで節約したような物言いだ。

 クローゼットを開けることを諦め、ベッドに戻る。

 男はそばに立つと、目を瞑り、無言で僕の体に手をかざした。

 身体情報をその手のひらで読み取っているのだろう。医療用のアンドロイドには診察のための電子機器が内蔵されており、無手の状態で脳波測定やMRI検査までこなせる。医療道具の詰まった携行鞄も合わせれば歩く病院と言って差し支えない。

「終わった」

 小さな声でボソリと言うと、立ち上がって背を向ける。

「あの、問題は?」

 そのまま部屋から出ていきそうな勢いだったので慌てて質問する。

「特に。ただ、しばらくは激しい運動を控えるように」

 他には? と視線で問われる。こちらから質問しなければならないらしい。

「記憶喪失らしいんですけど、そっちの方はどうなんですか?」

「忘れて困ることが?」

 よく見ると彼も赫雷と同じで灰色の瞳をしていた。無愛想なところも含めて並んでいると兄弟のように見える。

「自分が何に困っているのかもよくわかりません」

「ただ、自分以外の全てが変化しているだけだ」

「また記憶がなくなったりはしないんですか? 今こうして話している内容も忘れてしまうなんてことは」

「再現性は低い」

「急に思い出したりするんでしょうか?」

「わからない」

 お大事に、と言い残して医者は出て行った。

「ちょっと変わったAIだったね。ちょっと赫雷に似てたかも」

「彼は医療従事者で私は戦闘補佐官だ」

「いや、役割が似ているわけじゃなくて、物言いがさ」

 そこで腹の虫が鳴った。

「おなかへった」お腹をさすりながら僕は言う。

「この時間、食堂は開いていない」空腹とは無縁のAIは言った。

「ブロックはないの? 固形物なら何でもいい」

「キッチンに行けばあるかもしれない」

 とのことなので、クローゼットに掛けられていたコートを羽織り、真新しいブーツを履いて部屋を出る。

 扉の先は廊下だった。古風な洋館の造り。片側にふんわりしたレースカーテンとアーチを描いた窓ガラスが並び、反対側に個室につながる扉が配置されている。壁や床は光沢のある石材で、天井に吊るされた蕾のような形をしたランプの淡い暖色の光を反射していた。等間隔に吊るされたランプの真下には同じように三つの三角が絡まり合ったような印が描かれている。

 空調が効いているのか、窓が開けっぱなしだった先ほどより暖かい。

 館内は物音を立てるのが憚れるほど静まり返っているのにも関わらず、赫雷はかつかつと音を立てて歩き始めた。僕は躊躇いなく進む彼の後を追う。

 左側に並ぶ窓ガラスは鏡のように室内を映し出している。そこには薄手の患者服にコートを羽織った滑稽な少年の姿が映っていた。久しぶりに自分を見る。記憶にある顔よりも血色が良いかもしれない。切り整えたばかりのはずの髪がかなり伸びていた。

 髪の長さを見て、時間の経過を実感する。

 廊下は吹き抜けの広間に繋がっていた。手すりから見下ろして見えた一階はダンスフロアのように閑散として、廊下にあったものと同じ三重の三角が描かれている。

 二手に分かれた階段を降りていくと、そこはエントランスホールだった。

 中央にテーブルがあり、その上に大きな木の模型が飾られている。半円のドームが被さっていたり根っこが道路のように繋がっていたり複雑な形をしていた。おそらく神話か物語に出てくる木なのだろう。

 外に繋がる両開きの大きな扉は今は閉じられていた。その反対側に短いトンネルのような通路があった。赫雷はそちらに向かって歩いていく。

 追いかけてそのトンネルを潜ると、そこから再び通路になっていた。少し進むと行き止まりになっていて左右に道が分かれている。赫雷は右に曲がった。僕もそれに続く。

 いつになったら目的地に着くのだろう。建物の中を歩いているだけで息が上がってくる。

「ここが食堂だ」

 赫雷の声が反響して聞こえた。

 円形のホールだった。中心には円卓のテーブルが置かれており、周りには他のテーブル席とアーチの形をした大きな窓がセットになって配置されている。

 明かりは落とされていたが、窓から月の光が射しているので十分明るい。

「───こんな夜更けに奇遇だな」

 僕でもなく赫雷でもない声が響いた。

 目を凝らせば、月明かりに照らされた円卓にはすでに誰かが座っている。

「いつ帰ってきた?」

 その人物はワイングラスを掲げながら言った。顔の向きから、赫雷ではなく僕に問いかけているとわかる。

「帰ってきた?」

「しばらく顔を見なかった。館の外に出ていたんじゃないのか?」

 そう言って男性はグラスの中の液体を飲む。

「ああ、もう無くなった……。おい、赫雷。おかわりを頼む」

「控えた方がいい。無駄な行為だ」

「無駄なのかどうかを試しているのだ。あと一杯だけ試しにやらせてくれ。どうしても酔いたいのだよ。こうも空が明るくては眠れないことだしな」

「厨房の鍵は?」

「開いている」

 それを聞くと赫雷は背を向けてどこかへ歩いていった。僕はその場に取り残される。

「ディ。こっちに来て久しぶりに話さないか」

 人影は窓際の四人掛けのテーブルに移動して手招きをした。少し迷ったが、促されるまま同席する。

 席に着くと、影に隠れていた男性の顔が露わになった。

 そこにいたのは、豊かな白髪と髭の生えた老人だった。まるで魔術師のようなローブを着ている。彼はテーブルに肘をついて片手でグラスを弄りながらこちらを窺っていた。

「どうした? もしかして緊張しているのか? ああ、ひょっとして、私に対して何かやましいことがあるとか? いや、そんな弱みは私にはないし、君もつまらない愚を犯すほど愚かではない。……この問いは、なんだろう?」

 彼はこちらを観察する。

 見ず知らずの老人に親しげに声をかけられている、という状況。常なら回れ右をして逃げたいところだが、二週間分の記憶が抜け落ちているのでそうもいかなかった。

「初めまして」

 上手い言い訳が思いつかず、出てきた言葉がそれだった。

「初めまして?」

「ここしばらくのことを忘れてしまったみたいなんです」

 老人はそれを聞いて大笑いした。

「あの」

 当然、僕にとっては笑い事ではないので水を差すつもりで声色を変えた。

「ふふふ……。いや、すまない。考慮にすら入れていなかった。まさか、記憶喪失とはな……。私から一本取るとはなかなかやるじゃないか」

 僕はそれから、自分の置かれている状況を説明した。さきほど目が覚めたばかりだということ。そしてこの館で過ごした間の記憶がさっぱり抜け落ちているということ。

「ははあ、なるほど。そういう選択をしたのか」

 自分の髭を撫でながら老人は僕の話を聞いていた。

「それでは改めて名乗ろう。私はウェンズ。初めまして」

「ディです」

「知っているとも。半月のような記号だとも聞いたな。以前の君とは友人だったのだが、やれやれ、またやり直しというわけか」

「友人?」

「気の合う友だったよ。死んでしまって残念だ」

 気の合う友? 本当だろうか? 僕が覚えている限り、これまでの人生で気の合う相手がいた試しはない。彼の主観の話なので僕目線ではどうだったのかは怪しい話だ。

「死んだわけではありません」

 忘れてしまったというだけで僕という個性がなくなったわけではない。勝手に死人にされては困る。

「死にもさまざまな形がある。それ以前にも君は戦場で死んでいるわけだから、これで二度死んだわけだ。これほど短い間に、二度も」

「戦場で死んでいる? 二度目?」

 どういう意味だろう? 命を取り留めたから僕はここにいるのではないだろうか? 絶体絶命の状況だったというならわかるが。

「アウルムのパイロットではなくなってしまった。それは社会的な死と言えるだろう」

「アウルムに戻ることはできないんですか?」

 それは目覚めてからなんとなく察していたことだった。

「可能ではある。以前の君はそれを選択しなかったがね」

「どうして? いや、そもそも、僕はなぜ生かされているんですか?」

「それを説明するのは私の役割ではない」

 じゃあ誰の役割なのだろう。しばらく待っても教えてくれないので他の質問に切り替えることにした。

「ここは、戦場で生き残った人間を保護している施設だと聞きましたが、具体的に何を目的とした場所なんですか?」

「死後の世界に具体性など存在しない」

「はい? 死後?」

 この老人は今、死後の世界、と言ったのか? 聞き間違えだろうか。

「ここにあるのは消えたはずの自分だ。無いはずなのに在るという矛盾。これを飲み込めば全てが自分のものだという確信を得るだろう。これほどの贅沢があるだろうか? これほど無駄なものはない。これこそ死の余韻であり死の目覚め。大いなる死によって悪夢は終わる」

「あの……」

 言っている意味がわからない。死によって悪夢が終わる? 否。ここが死後だとしても、いま現在も僕は悪夢の続きを見せられている。

「死後の世界について考えたことは?」

 ウェンズは続けて言った。

 それは、考えない人間はいないのではないだろうか。自分が死んだらどうなるのか。何もかも消えてしまうのか、それとも続きがあるのか。実際に死ぬ以外に確かめる術はない。僕たちは死という問いに、希望か、それとも諦観か、もしくはわからないという逃避の三つの反応しか返せない。

「僕は存在しないと思っていますが」

「では、いま目の前に広がっている光景はなんだ? 二度も死んで、まだ自分が生きていると思っているのか?」

「えっと……」

「どうやらまだ死に足りないと見える。未練がましいのだな。地縛霊というやつか。初めて見る」

 友人というのは彼の思い込みで間違いなさそうだと僕は結論付けた。

「あの、ここは死後の世界? なんですか?」

「そう言っている」

 ウェンズは鷹揚に頷いた。

「墜落した瞬間の記憶はあるか?」

 そう言われて、見たことのない景色が脳裏を過ぎった。コントロールを失い、ふらふらと地上に向かって落ちていく間際の記憶。地上には木々が広がっていて、それがみるみる近づいていく。衝撃。そして暗転。

 僕がそれを知るはずがない。たった今作り出した偽の映像だろう。

「覚えていません。ぐっすり寝ていたので」

「なんとまあ。肝心の記憶を持っていかれたようだな。それでは死んだ君も」

 ウェンズはそこで言葉を切った。

「待たせた。少し調理する必要があった」

 トレイに湯気の立つお皿とワインボトルを乗せて背後から赫雷がやってくる。

「話はまた今度にしよう。頭を使っていては味がわからなくなる」

 赫雷はウェンズのグラスにワインを注ぎ、僕の目の前にお皿とスプーンを配膳した。

 彼が持ってきてくれたのはシンプルなお粥だった。

 まだ熱すぎるそれをスプーンの上で冷ましてから口に運ぶ。

 期待していたよりも水っぽい代物だったが、口にしてみると驚くほど美味しかった。空腹が満たされるのと同時に体の芯が温まるのを感じる。

 老人は赫雷が注いだワインを飲み終えると何も言わずに席を立ち、どこかへ去って行った。

 彼が座っていた席に赫雷が着席する。

「すごく美味しい。どうしてだろう?」

 何の変哲もないお粥がとても滋養のある味に感じる。溶け切れていない粒の感触も明白だ。もしかして、特別なお米や特別な水を使っているのだろうか。

「特別なお粥ではない。これが美味しいと感じるのはおそらく、ずっと飲まず食わずだったからじゃないか?」

「そうなのかな。じゃあ、いつかはこの感覚もなくなる?」

「さあ。それは君次第だろう」

「お世辞じゃなくて、これが僕の人生で一番美味しい食事だった。ありがとう」

 お礼を言いたくなるほど美味しかった。不思議だ。食事という行為をずっと誤解していた気がする。僕はこれまで、感じているようで感じていなかった。そんな反省をしてしまう。

「……」

 無言で観察される。気になる視線だった。

「なに?」

「人が変わったようだ」

「人が変わったって、そもそもお互い、たいして知らないでしょう?」

 僕は残りのお粥を食べた。少量だったが十分満足できる量だ。胃が小さくなっているのかもしれない。

 一息ついて夜空を見上げる。

 周りにあるもので見覚えがあるものといったらそこにある景色しかない。

「どうすればいい?」

 赫雷に問いかけたわけではない。たまたま目に映った空に問いかける。

 これから月は沈み、太陽は昇る。眠っていた人々は目覚め自分の役割をこなし始めるだろう。僕だけが決まっていない。何をするべきなのか。

「ここはアウルムではない。自分で決めろ」

「自分で決めたら、失敗する」

 未来がわからない。何をやっても確信が持てない。僕には惑星の配置を読み解くことも、タロットの絵柄を信じることもできない。AIに決めてもらわなければ行動できなかった。

「失敗すればいい」

「そんなの、合理的じゃない。正しくない。もう君たちの方が賢いんだ。選ぶ権利は君たちにある。どうか愚かな僕に最善の道を示して欲しい」

 僕の全てを決めてくれていたAIがここにはない。ただ漠然と時間と空間が広がっている。模倣するべきお手本がいない。僕の人生を書き連ねるペンの持ち手がいない。いきなりそれを渡されても、この空白に何を書き込めば良いのかわからなかった。

「それが望みならアウルムに帰還することだ。どう生きて、どう死ぬのかまでも決められるだろう」

「……」

 僕はたったいま食べたお粥の味を思い出す。久しく忘れていた生きる楽しみを反芻する。

「戻りたくは、ない」

 アウルムに戻ったら二度と味わえないように感じた。

「じゃあ何がしたい? 言ってみろ」

 僕は何がしたい? 自分でもわからない。

「そんなの許されない」

 無意識にそう口にしていた。

「許されない? どうして?」

 絶世の少年が澄んだ瞳を向けてくる。

「どうしてって……」

「どうして自由になることを躊躇う?」

 どうして、どうして、どうして……。後回しにしてきたことばかり追求されている気がした。今まで考えなくても良かったことを抉られる。どうしてそんな質問に答えなければならない? 僕は怒りを感じた。

「僕は、戦闘機乗りになるために生まれてきた。生きる理由がそれだ。存在して良い理由がそれだ。それが果たせないなら速やかに死ぬべきだ。だって、そうじゃないか? 生きている価値がない」

 胸が苦しい。自分の言葉が、僕を痛めつけていると感じる。

「価値がないと決めつけているのでは?」

「うるさいな! 誰も私を必要としない! もうそれが答えでしょう!?」

 テーブルを叩く。

 いま喋っているのは、誰だろう。怒りや悲しみを感じているのは、誰だろう。

 自分が自分と感じられない。僕は僕を俯瞰して見ていた。

「それは違う。貴方は祝福されている。この世界は貴方の為に用意されている。この世界の主はAIでもなければ人間でもない。世界を支配し全ての価値を決めているのは貴方だ」

「なにを言って……」

「これは一度しか言わない。我々が本当に忠誠を誓っているのは貴方だけだ」

 彼はいったい、誰に語りかけているのだろう? 僕ではないことは確かだ。僕であるはずがない。

 そもそも、赫雷がこんなことを言うはずがない。

 なんだ、これは?

 これは月が齎した狂気なのか。それとも全てゆめまぼろしなのか。

 いつから僕は夢を見ていたのだろう?

 いつから僕は生きていると錯覚していたのだろう?

 ここはどこだ? 僕の現実はどこにある?

 何かがおかしい。何もかもおかしい。世界が狂ってる。もしくは僕自身が狂っている。

 重要な記憶が抜け落ちている。これは本当に自分なのか? わからない。墜落する前と後の自分が同一人物なのか、証明する手立てがない。本当の僕は死んでいる。ここにいる僕は僕だと思い込んでいる偽物だ。違う。いや、そうだ。そんなはずはない……。

 誰かが僕をハッキングしている。そうに違いないと思った。僕ではない誰かがこの体に入り込もうとしている。

 ───おかしな妄想はやめろ。

 黙れ。じゃあお前は、何者だ?

「赫雷は、何のために生きているの?」

「ただ貴方のために」

「は」

 口を抑える。

 誰だ誰だ誰だ。これは誰だ。

 決壊する。自分だったものが砕け散る。呆気ない。脆い。土は土に。灰は灰に。塵は塵に。

「くっくく」

 抑えられない。哄笑が漏れだした。

「あはははは!」

 暗転。

 僕ではない何かが主導権を握った。僕にわかったのはそれだけだった。

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