第2話
2
暗い。
深海のように光が届かない暗い場所だった。
意識に満たない、かつて何者かだった何かが海底に漂着している。
光を失くし、心臓を失くし、意味を失くした。
それが自分。
ただ有ったというだけの記録となって、バラバラな残骸の中に紛れている。
「起きて」
誰かの声がした。けれど、ただの瓦礫の一部に過ぎない自分にとっては関係のない話。
「起きて」
誰かは何度も繰り返す。
何度呼びかけられようとも起きるつもりはなかった。もう───は死んでいるのだから。
「ここは天国だよ」
嘘だ。そんなものは存在しない。そんな甘言に騙されると思っているのだろうか? もう散々裏切られてきたというのに。
「今までの世界が偽物だったんだよ」
そんなわけがない。偽物はお前だ。
話しかけてくるな。起こそうとするな。もうあんな地獄は見たくない。
「天国と地獄とはここのこと。まずは目を開けなさい」
3
頬に冷たい雫が落ちるのを感じた。
はっとして目を覚ます。初めに、ベッドの中で横になっている自分を認識する。
シーツに包まれ、自身の体温に暖められていた。ずっとここに居たい心地よさ。けれど、これ以上寝ていると大事なものまで溶け出していきそうな温かさ。
手を動かして頬に触れる。なぜか、たったそれだけの動作に時間がかかった。関節が錆びついたように固い。腕だけではなく全身がそうなっている。
いったい何が起きているのだろう……?
時間をかけてようやく触れた頬に、水滴の痕跡を見つけることはできなかった。ノロノロと動いているうちに乾いてしまったのかもしれない。
頭を徐々に横に動かしてみると、左側に開け放たれた窓が見えた。窓の外はすっかり夜で、満月が他の星々を圧倒するように浮かんでいる。暗闇の中、自分の目が見えているのはその光のおかげらしい。
窓は開いている。ガラス越しではない月の光には濡れた感触があった。もしかしたら月の雫が頬に落ちたのかもしれない。
柄にもなくそんなことを考えてしまうくらいには見事な月だった。
「目が覚めた?」
窓の反対側から女性の声がした。
すぐに振り向くことができない。
「……だれ?」
視線を向けるより先に喉を震わせる。すると、自分の声とは思えないほどしゃがれた音が響いた。
「わたしはヒメイ」
ゆっくりと声のする方へ首を動かす。
そこには、月光のような白い髪の女が立っていた。
立ち姿が猫のようにすらりとしている。上下が白黒の制服を着て、髪を左右に三つ編みに縛り、眼鏡をかけている。レンズの奥には吊り目がちで薄紅色の瞳があり、こちらを見据えている。
「違う。ワタシは、だれ?」
「ワタシ? わたしって、貴方のこと? 自分のことも忘れちゃったの?」
面白がるように彼女は言った。
忘れた? ……いや、わたしが僕を忘れるはずがない。
「僕は、ディ。ローマ文字の四番目……」
その認識と同時に、周囲の景色が均されていった。
どこか懐かしい部屋。
格子状の木目が浮き出た白壁。イヤリングのように天井から吊るされた華奢な照明。アンティーク調の机や押し入れ。他にも様々な家具が所狭しと置かれている。
ヴァーチャルでしか見たことがない贅沢な空間。
「ここは、どこですか?」
素直に質問する。
死後の世界だと言われても信じられそうだった。それくらい自分の中が空虚に感じられる。
「逆に聞きますが、思い出せませんか? ここがどこなのか」
「思い出せない」
ぎこちなく首を振った。体のあちこちが蝋で固められたみたいに動かしづらい。僕の体はどうなっているのだろう。
「ふーん……。最後に覚えていることはなんですか?」
尋ねられて記憶をたどる。最後に覚えていること。なんだろう。上手く考えがまとまらない。
海底で溺れていた。いや、これは夢の話だ。戦っていた。そうだ。乗り物に乗って、命懸けで戦っていた。
窮屈なカプセルの中。青空と地上を分ける丸みを帯びた地平線。体を締め付けるスーツとヘルメットの重み。
僕は戦闘機のパイロットで、アウルムの兵隊だった。そのことを思い出す。
そして戦場で死んだはず。
「戦闘機に乗っていました。たしか、僕以外にもそこに乗っていて……」
壁に遮られたように次の思考ができない。考えてはいけない。正気に戻れば、絶望的な事実が待ち構えている。
「なるほど。思ったより重症みたい」
彼女はベッドの側にある椅子に座った。
「ここはアウルムですか? それともオリバナですか?」
アウルムは僕が所属している国だ。オリバナはアウルムと敵対している国。後者なら最悪だ。生きた状態で捕獲されたパイロットは洗脳や人格の抹消など、非人道的な処置がされると聞いたことがある。
女性はどちらでもないと首を振った。
「ここはミルラよ」
ミルラ……。ミルラというのは、アウルムと隣接しているもう一つの国のことだ。
AI主義、アンチAI主義のどちらの立場でもない中立国。
「どうして僕はここに? どれくらい僕は眠っていたんですか?」
「あなたが生きているのもここにいるのも偶然かな。寝ていたのは二週間くらい。えっと、ここの施設は、戦争で生き残った人を保護している場所ね。そしてあなたは運良く助かってこの館に保護された。ここまではいいですか?」
「うん」
とりあえず頷く。
「保護されてから数日の間、特に問題なくわたしたちと一緒に生活していたんですけど、墜落の後遺症なんでしょうね。急に起き上がれなくなって、意識もなくなってしまったの。それからずっとここで眠っていたんですよ」
ずっと眠っていた。それは体感的に理解できる。体が動かないし声も出しづらい。しかし……。
「一緒に生活していた? あなたと? 保護されて、いま目覚めたのではなく?」
「ええ。その様子だと、先生が予見していた通り記憶障害を起こしているみたいですね。混乱させるかもしれないけれど、わたしたちはもう知り合いですよ、ディ。友達になれたと思ったけれど、思い出せないならまた自己紹介からやり直しね」
彼女は少し悲しげに笑う。
「本当に僕とあなたは知り合いなんですか?」
「ええ。実感は湧かないかもしれないけれど」
「名前は」
「ヒメイ」
そういえば最初に聞いていた。その音を聞くのは二度目だ。二度しか聞いていない。
「……まったく思い出せない」
彼女の声や姿形。僕の記憶には何も残っていない。完全に初対面の人間だった。
「じゃあ当てて見せましょうか? そうね。好物はカボチャのスープで、肉類はちょっと苦手。味付けは全くないか薄味が好み。それから日光浴と散歩が趣味で、空を飛ぶことが三度の飯より大好き。違う?」
薄紅色の瞳に顔を覗き込まれる。
「それくらいの情報なら寝ている間に表層意識から読み取れる」
「あら、疑い深い。それじゃあ、ここで働いているAIがいるから、彼らに映像を見せてもらうと良いわ。そうそう、赫雷くんがいた。彼のことは覚えています?」
赫雷。僕が乗っていた戦闘機の名前だ。
「アイツがいるの?」
「あなたと一緒に回収されたの。彼ってなんていうか……今どき珍しいタイプのAIですよね。昔の人がイメージしたAIそのもの、みたいな? 人間味の感じられない性格っていうか」
「そう。古風なヤツなんだ」
「……呼んで来ましょうか?」
「いや、いい。もう夜も遅いみたいだし」
部屋の中に時計がなかったので月でだいたいの予測をする。おそらく九時以降ではないかと思われる。
「AIにそんな気遣いが必要? 眠ったりしないでしょう?」
そう言ってヒメイは笑った。よく笑うヒトだ。
彼女のことを見つめる。ヒメイはどちらなのだろう。
「あなたはAI? それとも人間?」
考えていたらいつのまにか口に出していた。
「その質問、前にもされたことがあるなー」
「前にも?」
「そう。あなたにね。たしかその時は、どっちに見える? って答えたんでしたっけ」
「以前の僕はなんて?」
「さあ、どうだったかしら。ねえ。わたしたち、良い友達になれると思うの。だって、一回なれたんだから、気が合うのは間違いないと思わない?」
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