第4話

「ホントは名前かお姉ちゃんって呼んでほしいけど・・・そうだねまだ家族になったばかりだしいつか呼んでくれたらいいな」


 優しさの溢れた言葉だが綾音は残念そうに微笑している。


 郁人はいつか綾音のことをお姉ちゃんましてや下の名前で呼ぶことができる日が来るのか先が見えないほど暗闇に包まれている。遠い遠い存在であった綾音が今では全ての過程を飛ばして友達や恋人より近い関係となってしまった。


(あいつらにバレたらどうなっちまうんだろう。一発殴られるかもな)


 郁人は友人の体型を思いだす。あの体で殴られたらひとたまりもない。


 当たり前のように綾音が家族になっているが郁人にひとつの疑問が浮かぶ。


(センパイは再婚に反対しなかったのだろうか。連れ子に俺がいるのも当然わかってだと思うし、いきなり年頃の男と暮らすのに躊躇とか嫌悪とかないのか・・・)


 学校で1番人気のある綾音は勿論のこと今まで数多の告白をされている。しかし綾音は告白してきた全ての男たちは玉砕している。おかげで裏では難攻不落のおひいさまとも呼ばれている。身なりを整え出陣した男たちは数秒で屍へと変わっていった。最近ではその積み重なった屍を越えて告白する人は減ってきているようだ。


 だがそれも校内のはなしで校外からは未だとどまるとこ知らず、郁人もそこまで仲が良かったわけではない中学の同級生から紹介してくれないかと連絡がくるほどだ。


 そんな綾音が郁人との生活は受け入れたのである。たとえ親の幸せを考えた結果だとしても郁人は喉に小骨が引っかかる感じがする。


「どうしたのそんな浮かない顔して。何か考え事?」


 綾音は机に置かれたコーヒーに砂糖やミルクを入れながら見透かしたかのように郁人に尋ねる。ちなみにシュガースティックは3本目だ。郁人は首を傾げる。なぜわざわざブラックを頼んだのか。それにまるでいつも頼んでるかのように流暢な注文だった。


「センパイってもしかして甘党?」


「正解!よくわかったね」


 褒められ慣れてない郁人はこんなことでも嬉しくなった。


「い、いやそんなに砂糖とミルク入れてたらそう思うのが普通じゃないですかね。ところでなんでブラックコーヒー頼んだんですか?」


「その方がカッコいいじゃん?」


 綾音がウインクをしながら答えた。左手に持つ空のシュガースティックの破られた先端部分は郁人の方を向いている。


(カッコつけてブラック頼む必要なかったじゃん・・・)


 郁人は少し後悔する。


 微糖やラテ、カプチーノなどの苦さなら美味しく飲めるがまだ子供なのだろうかブラックの美味しを感じた事は一度もない。どちらかというと郁人も甘党だ。


 吹っ切れた郁人はシュガースティックを2本取り一度に開けてコーヒーの中に入れた。


 綾音はそれ見て微笑んでいる。


 郁人は苦いのが苦手だとバレてしまい気恥ずかしくなるが臆する事はないと自分に言い聞かせて羞恥心を断つ。


「ケーキとか頼む?」


 綾音が気をかけせたのか尋ねる。よく見てくれてるんだなと郁人は思うが綾音を見るとニヤリと口角を上げている。綾音は優しさではなく皮肉で言ったのだと郁人は理解した。


「だ、大丈夫です」


 郁人は強めの口調で言った。少し悩んだ事は内緒である。


「じゃあ私は頼んじゃおー。すいませーん」


「え?」


「このチョコレートアイスパフェください」


 綾音がメニュー表を指差して言った。


「また変な顔してるんだけど、どうしたの?」


 あんぐりしている郁人は急いで口を閉じた。


(この人遠慮がないな。学校で聞いてた噂と全然違う・・・)


 学校での姿が素だとは限らないなと郁人は納得する。もしかしたらそれは自分自身にも言えることかもしれない。


 だが郁人はいまいち自分の本当の姿を認識できていない。学校での自分なのか家での自分なのか区別がなく表裏一体なのか自分を見失っているわけではないことは確かである。自己同一性を確立できていないのも違う。郁人は自己形成された時期がわからない。


 郁人は中学生のころ保健室の先生に尋ねたことがある。自分はいつから自分なのだと。今思えば答えにくい質問をしてしまったなと感じる。その先生は「そのことを考えている今こそがあなたを作ってるのよ」と答えた。


 中学生というとエリクソンの『青年期』とちょうど同じ時期だ。アイデンティティを確立する時期。自分がどう生きるかどうなりたいのか考える時期。あの先生の答えが最も理にかなっていたのだろう。しかし郁人は腑に落ちなかった。その先生が言っていた言葉が理解できなかったわけではない。郁人は地頭もよく物事をよく理解することができていたし達観して物を見ることができていた。自分でもその自覚はある。あの時はそれ以上質問はせずにそう言うものだと落とし込んでいた。


 考えるべきことじゃないと思ったことは数え切れないほどある。だけどどこかひっかる。まるで何かに穴が空き断片的に無くなってるかのように。一本の紐の片方が燃えて無くなってるかのように。


 修復不可能なそれを郁人は再度見い出すことができない。一度失ってしまったものは二度と取り戻す事はできない。母のように。郁人はそれを1番理解している。小さい頃に亡くなった母。全くと言っていいほど覚えていない。わかるのは彼女のにこやかな顔。写真からでも伝わる優しさ。全てを受け止めてくれるような雰囲気が醸し出されていた。


 郁人が生前の母について太閤に尋ねると太閤はあまり話したがらない。悲しそうな顔はせず決まって遠くを見つめる。決まりが悪いのかと郁人は意識的に母の話題は出さないようにしている。1番母と共に過ごし時間を共有したのは太閤だ。やはりどこか思うところがあるのだろうと郁人は思った。そっとしておくのが父太閤のためだと母にどれだけ興味が湧いても中学生から聞いていない。


「大丈夫?」


 近くで声がする。自分の世界に入り込んでいた郁人はその一言で現実に引き戻される。


 ぼーとしていた意識を戻し前を見るが誰もいない。あるのはいつ届いたかも分からないさっき綾音が頼んでいたパフェが置いてある。


「ホントに大丈夫?」


 また近くで声がするご綾音はいない。空耳だろうかと郁人は思う。


(ちょっと考え過ぎてたなおかけで幻聴まで聞こえてるし・・・・・・)


「ねぇ、ねぇ、郁君?どこ見てるのよこっち見て!」


 そう声と同時に少しひんやりとした感覚が顔からしすぐにそこに力が加わり郁人の顔は右を向く。すると視界に綾音が現れた。どうやら席を移動し郁人の隣にきたらしい。


(ちっか・・・・・・)


 10センチあるかないかの位置に綾音の顔がある。少し前にいったら触れてしまいそうだ。綾音は目を大きくして郁人を見ている。思わず郁人は目を逸らした。


「目をそらさない!こっち見て!」


 再び綾音の手に力が加わる。郁人の顔はしっかりとホールドされた。綾音は睨んでるかのように力強い目で見てくる。さっきまでぼんやりとしていた意識が戻り徐々に焦点があっていく。郁人は綾音に応えるようにじっと見つめ返した。すると強張っていた綾音の顔は弛緩して郁人に微笑みかけた。綾音の目と口さらには頬からまでも優しさが伝わってくる。


「ごめんなさい。少し考え事してて」


「ううん謝ることじゃないよ。郁君が大丈夫ならそれでいいの。まぁ少し心配だったけど・・・」


「・・・・・・ありがとうございます」


 綾音の一言一句が郁人を落ち着かせる。まるで精神安定剤かのように郁人を導く。郁人は改めて綾音の優しさを実感した。


 郁人は右手を自分の顔に触れている綾音の手にゆっくりと重ねた。郁人のより少し小さく細い手。白く柔らかく少し冷たく今日の挨拶のためか可愛らしくネイルがされている。


 郁人の手が触れた瞬間、綾音の肩は少し跳ねたがすぐににっこりと笑った。


「あったかいね」


「そうですね」


「郁君って綺麗な肌してるよね赤ちゃんみたい」


 郁人は空いている左手を伸ばして綾音の頬に触れる。


「センパイもですよ。柔らかくてしっとりしててずっと触っていたいくらい綺麗です」


 綾音は何も言わない。郁人の左手は少し暖かくなった。


(まだ触っててもいいんだよな)


 郁人は親指で鼻の横を傷をつけないように優しく撫でる。親指と人差し指の隙間から微なっている綾音の頬が見える。2人は体温を共有しながら触れ合う。


 心地の良い時間を過ごす。今まで感じたことのない温もり。もっと触っていたいと郁人は思ってしまう。手や頬だけでなく体の中から温かくなる。それはやがて全身の細胞や血を通じて全身へと伝達していく。


(人肌ってこんなにも落ち着くんだ・・・)


 郁人はじっくりと綾音の肌を堪能する。郁人は力がかかってないかと心配をするが綾音の表情を見ればそれは杞憂である。


 綾音は郁人に重ねられている方の手はそのままにして右手を郁人の顔から離して上に持っていき郁人の頭を撫で始める。その手は繊細で傷つきやすいものを触ってるみたいに優しい。綾音に触られていると気持ちがいい。全てを肯定してくれている。全てを分かってくれているそんな気がする。綾音は何度も頭を撫でるので郁人は大人しく頭を差し出す。


 お互いに触れ合う時間が少しばかり続いく。2人の体温は先程よりも数度高くなっている。


 冷房のよく効いている店内のはずだが2人には少し暑い。

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