第4話 コミック・ジャガー

「ロックの神様」って誰だ? ていうかなんだ?


 東京都内港区のマンションの一室で、コミック・ジャガーは酩酊した脳で考えていた。部屋の中は彼一人であった。


 コミック・ジャガーは、世間から高級と呼ばれるこのマンションに一人住まいの、ロックンローラーと呼ばれる人種だ。十年前、当時の盟友、ポルノ・マカロニとの二人を中心にしたバンド「メタルミッキー」が世に出したCDアルバムが全世界で二千万枚以上の売りを上げ「二十一世紀ロックの神」と崇められた男である。


「神? 何それ?」

 呂律の回らぬ口で自問自答。薄暗い部屋で杯を重ねる。飲んでいるのはホームセンターの目立たぬ所にて販売されている一升三百九十八円の合成酒だった。マンションの店賃は一年近く滞納していた。


 あれだけ有り余るほどあった資産はどこに消えた? 俺も随分無茶なカネの使い方をしたようだが今一つ記憶が明確じゃねえな。ハッパは若気の至りで少々は手を付けたが、アルコールはもう何年も体から抜けていない気がする。今日、自分が何をしていたか分からぬ始末だからな(どうせ酔いに任せて猫を苛めていたくらいだろう)。FUCK! シガーの煙が目に沁み入りやがる。最近じゃ目も耳も弱ってきている。御自慢の耳でさえだぜ! ……あれ? 今、何思い出そうとしていたんだっけか? ああそうだ、カネが無くなっていった原因は……。ポルノの糞野郎が楽曲の権利をマエケン・ジャクソンに売り払っちまって……確かにその時はいい金額になったんだ。ポルノも「また原点に戻ってアルバム制作、そしてもう一発でかい花火が打ち上がるんだ!」なんてホザいていたっけ。馬鹿馬鹿しい! あの時はすでに皆ラリっていてレコーディングどころか曲を作るのも儘ならぬ状態だった。それから代理人のマインドネスが……いや、違うな。誰だっけ? あの野郎は? 畜生! もういい! 気分が落ち着かなくなってきた。


 コミック・ジャガーは、大量のメジャートランキライザーを頬張った。それを合成酒で胃に流し込んだ。彼は、今夜はもう何もしたくなかったし、何も考えたくなくなっていた。できることなら、このまま眠りについて二度と現に目覚めたくなかった。実際、元相棒のポルノ・マカロニは、アルコールと薬物を大量に摂取した後に入浴して浴槽の中で嘔吐、窒息をして非業の死を遂げた。二年前の八月二十七日だった。非業の死、とはいえポルノ・マカロニは無意識のうちに死への希求を持っていたことは否めないだろう。惰性で飲む酒、トランキライザーの大量摂取、日がな一日ドーナツの大食い……。世では「志半ばにして急死した悲劇の男」と思われたが、ポルノは志などとうに失っていた。推察するに、コミック・ジャガーもポルノ・マカロニも古いタイプの、二十世紀型ミュージシャンだったのではなかろうか……。


 コミック・ジャガーは、布団の一枚もかけずにフローリングの上で深い眠りに落ちていた。猛烈な鼾と共に。明らかに薬の飲み過ぎである。彼は、目覚めた時にはもはや覚えていないが、就寝中によく夢を見る。それは大抵、悪夢であり起床した際に全身が汗で濡れてしまっている。今夜もジャガーは条理無き夢に苦しめられていた。麻雀の四喜牌が、東・南・西・北の順に視界の右側から並んでい、傾いたかと思うと、高速で回転し出す。赤や青の原色がそれを波状に囲っている。バンド全盛期のドラマー、林檎・スッタが「ワンツースリー」のカウントを繰り返している。しかしスッタの姿は見えない。差し迫った雰囲気がするが、ジャガー自身はどうすることもできない。息苦しさが襲ってくる。「ワンツースリー、ワンツースリー……」。麻雀牌がぐるぐるまわって……。


 ……。


 翌日、ジャガーは酔った身体を揺らしながらネオンで彩られている繁華街を歩いていた。過去のスーパースターの存在に気づくものはいなかった。それはその筈で、往年のジャガーの力強く逆立った頭髪は、今は垂れ下がり乱れていた。色眼鏡も最近は昔のものと全く違うひどく大人しいデザインにしていた。無精髭も、顔面の増えた皺もジャガーが世界の音楽界を席巻した当時の片鱗を消失せしめていた。あまつさえなぜか蠅がまとわり付いていた。


 ジャガーは「脳下垂体」と入り口に小さく看板のあるバーに入った。ツケで彼に酒を飲ませてくれる店は、ここ以外なかった。彼はブラックカードはとうの昔に失っていたし、現金も随意に使えない程に身を持ち崩していた。


 店内は暗い照明の下、六坪ばかりの広さであった。客は他に二人がカウンターの前に並んで座っていた。見慣れぬ顔であった。そういえば、彼がこの店に行く度に、毎回見慣れぬ客が鎮座して居る。馴染みの客はいないのだろうかとジャガーは少し考えたが、詮無い事だと思い直し、カウンター席に腰掛けた。


 マスター唯一人がこの店のすべてを司っていた。マスターは六十代半ばに見える。右目が左のそれに比して倍くらいの大きさで、これ以上ないというくらい充血しきっていた。蝶ネクタイをし、薄い白髪を前に垂らしている。マスターの背後にはニッカウヰスキーが大量に並んでいた。無論、コミック・ジャガーは、ニッカを注文した。ストレートを。彼は一気にグラスの茶色い液体を飲み干した。胃の内側が熱く焼けるようだった。マスターはジャガーに静かに尋ねた。

「ジャガーさん最近眠れてる?」

 胃液とウヰスキーの臭いが混ざったた息を吐きながらジャガーは答える。

「相変わらず薬ばかり飲んでいる毎日だ」


 ジャガーの不眠症は、メタルミッキー解散前から、関係者の間では有名だった。彼のとった策はといえば、前述したように、アルコールとトランキライザーの併用。しかしこれは、確実に彼の精神不安定を誘発した。実際、ジャガーは、腰掛けたばかりの座席を、もう立って後にしたい思いに駆られた。妙に落ち着かない。

「帰るぞ! いくらになる?」

 ジーンズのポケットに両の手を入れたまま彼は立ち上がった。マスターは五百……いや、二千円になります」言った。ジャガーは二千円を払うとしたが財布の中には六百五十七円しか現金がなかった。


「今回もツケで頼む」

 ジャガーはそう言うなり、マスターを背にして出口のドアを開けた。


 しかし、俺も自分で驚いた。まさか財布に紙幣が一枚もないとはな。畜生め! シガーをカートンで買わなくなってだいぶ経つな……。ああっ! 六百……五十七円しか持っていないってことは……!

 シガーは、あと一箱しか買えねえってわけか? ファッキン! マンションの部屋に大量に残してあるシケモクを吸う生活になるのか……。しかしそれも直ぐになくなるだろうな。……さて、重度のニコチン依存症たる俺が、シガーの存在しない生活などできるのか? 禁煙?同僚が肺癌で死んで、慌ててタバコを止める中年サラリーマンみてえだな。まあ、俺もだいぶ前に禁煙らしきことは一度だけしたがな。あまりの気分の変調に屈して一日ももたなかったぜ。あんな気分に人々は耐えて禁煙をしてるのかね? 解せん。しかし現実を直視すれば、どうやら俺は禁煙を今度こそはしなければならないようだ……。ヤニの無い人生など考えられるか? 考えられない。しかし、この困難な局面を乗り越えなければならぬのか。「負けないこと、投げ出さないこと……」なんて歌ったロックンローラーがいたな、昔。実に大した「ロックンローラー」だぜ! 今の俺の心の奥にこんなフレーズが響いてきてるんだからな! 面白え! 三百六十五日面白れえよ! 神なんてくだらねえ奴がいるのかどうか知らねえが、あんたのその話、乗ったよ! 明日からはシガー無しだ!


 新しい朝が来た。絶望の朝だ。


 ジャガーは起床後早くも禁煙による離脱症状に苦しめられていた。昨晩は、寝る前にタバコ一箱を吸い尽くし、半狂乱じみた奇声を上げてシケモクを口にした。シケモクは二時間ほどで無くなった。そしてジャガーは昏倒したのである。


 今日は風が強い。


 林檎・スッタの「ワンツースリー」のカウントが、コミック・ジャガーの頭から離れない……。

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