第3話 彼の話(1)
自分の権利は自分で守る、ということは大切だと思う。
「彼」は自身が人を殴るとは想像だにしていなかった。遂行の魅力に囚われたのがいつ頃だったか、「彼」は分からなかった。判然としない。でも、確かに殴った。
人を殴る前の「彼」の生活・思考をここに記すのが私の「自分の権利」だと思う。記したいという私の欲求の発露。初舞台でハッスルする役者氏のような気持ちだ。
「彼」の左の乳首から生えている一本の長い毛が今、輝いているような、迸っているような。
「彼」の青春は明るかった。すべての幸福は、約束されたかのように訪れてきた。
早起きすると、なぜか、目の前一メートルほど前からブラジャーが飛んでくる、という認識を持っていた。あくまで認識であるので、実際にそのようなことはなかったのだが。他人はそれを「幻覚」と呼ぶ。「彼」は、その意見については全く異存はなかった。「彼」の認識は幻覚を伴う場合がよくあるようだ。
ガムをかじりつつ「彼」は主張した。……自分は女の下着に対してフェティシズムを全く感じない、と。前述した「ブラジャーが飛んでくる」という観念は、彼の性的嗜好とは関連がないように思われる。
雨。冬の冷たい小雨がそぼ降る歌舞伎町。街のエナジーが、いつもより二~三割少ない。その上空を「彼」は飛びたいと思った。自伝が書けると思った。売れると思った。「彼」は……きっと洋酒を飲むに違いなかろう。
ややこしい文明論を「彼」は好まない。身体と、そして精神の休養は、誠にもって重要なことであり、うまくすると、綿棒が脳に祝福される感が強いのである。
ヨモギ、青い海、ギター。これらの三つ揃えは、人間が生活する上で必要条件とされるものであるが、十分条件ではない。
「ヘイ! ミスターポストマン!」
「彼」がそう呼びかけると、ポストマンは「彼」のほうを見遣った。ポストマンと回覧板の関係性がないのを確かめると「彼」は砂利道を思いっきり走った。ポストマンは逆方向に走り去ってしまった。
恥辱。
統合を失った「彼」は夜の寒い町内を悄然と歩いた。人間の限界を忘れるために。
「彼」は、サングラスをかけて世を儚み、卑しい音楽を聴いて日がな一日、朝刊のチェッキングをする。記事は「彼」にとって大変興味深いようだ。アーティストを自称する女の画材使用量やポストマンの信書取扱量を「彼」に知らせてくれるのだ。某国首相の連続殺人事件報道、厚生事務次官の連続夢精事件報道、エトセトラ、エトセトラ……。
老師が「彼」の家の前に立っていた。
「唇は……赤ければ赤いほど赤い!」
言って、老師のくせに敏捷に去った。
「彼」は、抑えがたい怒りを感じた。これでは、まるで「彼」が社会通念に照らしてズレているのは明白である、と言っているようなものだ。義烈が彼の脳内を走った。底籠もりしたダンプカーのエンジン音が「彼」を掻き立てた。近所では何らかの工事が行われている風だった……。
保護に値する個人情報は保護するべきだと思う。ある日「彼」は見知らぬ高校生風の少年に声をかけられた。
「道すがらですが……Mさんですね?」
少年は体つきが大で「彼」は少なからぬ威圧感を受けると同時に、見知らぬ人間に声をかけられた(しかも名を呼ばれ!)事実に、おぞましさを感じた。
「彼」に声をかけてきた不気味たる少年は、右手を使って左手に墨汁をかけていた。ますます不気味な心持ちになった「彼」は、帰宅。自室に引きこもった。
空腹を感じた「彼」はぬるい缶ビールを飲んだ。
……思えば、その頃が「彼」の人生において幸多き時期だったのかもしれない。
夕食には必ず豆腐を食べた。筆ペンで上手に字を書く練習を始めたのもこの時期。息が臭くなった。単三電池の消費量が夥しいオフィスガールに憧れた。
東シナ海の女に恋をするようになってから「彼」の人生のシナリオは破綻が始まった。十三年に一度のチャンスさえ、視界に入らなくなった。
老師は「彼」に対して「夜は寝るな」と言った。「彼」が納得して、夜は起きていて、午睡をしていると、老師は「昼も寝るな」と言った。朝も夕も駄目だった。駄目だった。
東シナ海の女がすべての目くらましであった。
「彼」は、その後も人生を続ける気でいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます