世界線を越えた日

平中なごん

一 異世界転移した男

 それは七月の、俺達にとっては別段なんということはない、とあるありふれた夜のことだった……。


「──今度始まった深夜アニメ、また異世界転生モノだろ?」


「ああ。今やラノベも漫画もアニメも、どっちを向いても異世界モノばっかだよなあ」


 この日も俺は、友人と行きつけの居酒屋でいつものように他愛のないヲタ話に花を咲かせていた。


「一過性のブームかと思いきや、けっこう長いことこの傾向続いてるよな」


「いつまで続くんだろうな? この異世界モノブーム……いや、もう流行から基層文化にクラスチェンジしたってことか?」


 店はいつもより混んでいて、俺達はカウンター席に通されたが、常連なので遠慮することもまるでなく、焼き鳥を肴にビールを煽りながら、昨今のサブカル事情について大いに盛り上がりをみせる。


「ま、わからなくもないがな。現実世界じゃ長年不景気続きだし、まさかのパンデミックや戦争起きちまうし、その上、俺達みたいなノンリア充な人間にはプライベートでもいいことないし、そりゃあ、どっか違う世界に行って人生やり直したくもなるってもんだぜ」


「だな。そうじゃない作品も稀にはあるが、だいたいがどんなクズ野郎でも異世界行きゃあ無敵でモテモテだからな。即ち、この異世界ブームはリア充じゃない者達の内に秘めた願望の表出というわけだ」


 そうして、なんだかちょっと社会派な学者やコラムニストのような高尚なノリで、昨今の異世界モノブームについて白熱した議論を交わしていた時のこと。


「異世界転生か……」


 不意に、友人がいるのとは反対の席から、そんな呟きが聞こえてきた。


「……?」


 思わず振り向くと、そこにいたのはサラリーマン風の中年男性だった。


 歳は40代くらいだろうか? 中肉中背で特になんの変哲もない、いたって普通のサラリーマンであるが、俺達の顔見知りというわけでもない。この店の常連客の中でも見覚えのない顔だ。


「おじさんも異世界モノに興味あるんすか?」


 やはり男性の方へと視線を向けていた我が友人が、酒が入っていたこともあってか若干馴れ馴れしく、俺の頭越しにそう尋ねてみる。


「ああ。興味がある…といえば興味はあるのだが、おそらくそれは君達のいう〝興味〟とはちょっと違う、また別の意味でのものなのだろうな……」


 するとその男性は握ったハイボールのグラスに眼を落としたまま、そんなよくわからない答えを口にする。


「君達も、やっぱり異世界転生したいと思うかい?」


 そして、ようやく顔を上げてこちらを覗うと、今度は向こうからそう質問を投げかけてきた。


「そりゃあまあ、できることなら…ああ、ただし、その世界で最弱の存在になるとかは嫌ですよ? チート能力ありでおいしい思いができるの必須条件です」


「右に同じです」


 その問いかけには友人が即座に返答し、続いて俺もすぐさま首を縦に振る。


「おいしい思い……か。実際の転生はそんなおいしい思いなどできるものではなかったな。強いて言えば〝まだ生きている〟ということぐらいか……だが、その喜びも感じられなくなるくらいに、あるのはただただ永遠の孤独感だけだ……」


 対して男性は、再び視線をグラスに落とすとなんだか見て来たような口ぶりで、本当に淋しげな表情を浮かべながら、僕らにというよりは独り言のようにそう呟く。


「おじさん、まるで実際に異世界転生したみたいな口ぶりだね」


 やはり俺と同じことを思ったらしく、その意味深な言葉にそう返す我が友であったが。


「ああ。したのさ。本当に異世界転生ってやつを……」 


 男性は、思いもよらないようなことを大真面目な顔をして言ったのだった。


「……ま、まあたまたご冗談をぉ〜…」


 俺とともに一瞬固まった後、友人は苦笑いを浮かべながら、手をひらひらと振って場を和ませようとする。


「まあ、正確にいえば異世界というより並行世界・・・・へ転生したというべきか……あの時、私は死んだとしか思えないから、転移ではなくやはり転生なのだろうな……」


 だが、男性は友人のことなど意に介さず、その異世界転生…いや、並行世界・・・・転生か? とにかくその転生したという特異な体験の話を、グラスを見つめたまま訥々とつとつと話し続けた。

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