少年の旅立ち

 さわやかな風が、乾いた髪をさらった。


 白い地面が広がっている。さらさらとした手触り、真っ平らなコンクリート。地面に両肘と両膝を突いていた俺は、再び風に優しく頭をなでられて顔を上げた。


 まっすぐ伸びる道路ハイウェイが見える。道路は黒い車道と、一段上がって白い歩道に分かれていた。道の先はどこに続いているかわからない、地平線の彼方へとぼやけている。

 

 俺はゆっくり上体を起こしてから、立ち上がった。ふしぎそうな眼差しで辺りを見まわしてみる。

 道の両サイドは地面とおなじ白いコンクリの壁で囲われていた。高さは自分の背丈よりも、頭二つ分くらい高い。なんとなくだが、立体の橋の上のような……高所に建つ道路のようで、壁のほか周囲に建物の影はなかった。


「…………」

 

 見上げた空は薄い紫色に染まっている。日も高く昇っていないことから察するに、きっと朝焼けの空模様なのだと俺は思った。水っ気のない晴れ晴れとした空気の下で、思い切り深呼吸をしてみる……。


(なんだか、気持ちがすっきりしている)


 心の底に閉じ込めていたものを、なにもかも吐き出した。いまようやく、本来の自分の輪郭りんかくが取り戻せたような気分だ。

 

 さっき辺りを見まわした時、すぐ真後ろに噴水があることに気づいた。おもむろに振り向いて、俺はその噴水へと近づく。透明な水がキラキラ、しぶきをまいて光を反射させている。


(どうやら体育館の天井からこの道路まで、この噴水の水路を通ってきたようだな)


 ひとり納得する俺は、透き通った水面に片手をひたした。バシャバシャと音を立てて、無心に水をかきまぜていると……ふいに、誰かがくすりと笑った。

 声のほうへ顔を向ければ、噴水の丸い縁に見慣れた人物が腰掛けていた。


 真島賢治だ。


 彼はもう潜水服のヘルメットなど、かぶってはいなかった。ほがらかな表情を見せ、水をかきまわして遊ぶ俺のとなりでくすくす無邪気に笑っていた。

 俺がけげんに眉を寄せると、真島はついっと顔をそらす。すっと目を細めた横顔は、地平線の彼方に向けられていた。


  俺もつられて、遠へ続く道を見つめる。そして、ぼそりとつぶやいた。


「この道、どこまで続いているんだろうな」


 俺のつぶやきに、真島が応えた。


「それなら、ほらあそこ」と彼は指をさした。「あそこにある、バス停を調べればわかるんじゃないかな」


 真島の言うとおり、白い歩道の少し先に一本のバス停のポールが立っていた。彼は音もなく立ち上がると、バス停のほうへ歩いていく。俺も水から手を引っ込めて、軽くしぶきを飛ばしてから、その後を追った。


 バス停には『中学校前』と表記されていた。俺が時刻表に目を向け、次のバスが来る時間を調べようとしたところ――じつにタイミングよく、タイヤが止まる音が聞こえた。


「バスが来たようだ」


 真島の声の後に、プシューっとバスが空気を吐き出す。開いたなかドアから、俺と真島は一緒にバスに乗り込んだ。 バスのなかは広くきれいであったが、乗客が一人も見当たらない。がらんと、少しさびしい雰囲気が漂っていた。俺がひょいと運転席をのぞいてみても……そこにも人の姿はなかった。


(運転手がいなきゃ、このバスは先に進めないじゃないか)


 どうしたものかと、俺は腕を組んで考える。すると、運転席の内扉がわずかに開いているのが目についた。空を運転席をじぃっと見つめる。


「これ、乗れるかな」


 そう真島に問うと、彼はこくんとうなずいた。


「うん、君なら乗れるよ」


 真島は内扉を押さえて、どうぞと促す。俺はおずおずと狭い隙間に身を滑らせて、バスの運転席へ座った。座席に体重を乗せると同時に中ドアは閉まり、バスはゆるゆると前進しはじめる。


 勝手に進み出すバスに、俺は慌ててその大きなハンドルを握った。道はまっすぐだ。左右に大きく振れないよう、はしっとハンドルをつかむ両手は緊張で震えていた。


(また暴走するかもしれない……)


 一抹の不安にあおられる。となりにいる真島に運転を代わってもらおうと、ちらり視線を向けた。焦ったアイコンタクトに対して、真島の表情は穏やかなままだった。落ち着いた目で、筧井なら大丈夫と目配せする。


 俺は呼吸を整えた。

 椅子にしゃんと座り直す。両手でハンドルをつかみ構えて、片足をブレーキペダルの上に添えた。最初は不安だったが……次第にバスの大きさとゆれの心地よさから、胸の鼓動は安定していった。

 俺はまた、真島のほうへ顔を向けた。「運転、大丈夫そうだ」と控えめにつぶやくと、彼もうなずいてくれた。



 * * *



 道路ハイウェイは、上ったり、下ったり、途中カーブを描いている箇所もあった。そのつど、俺は焦らず落ち着いた運転を心がける。巨体のバスを、自分のペースでうまくコントロールしていった。

 やがて、道に白いコンクリの壁が消える。空と道路だけだった景色に新たな色彩が差し込まれた。


(海だ!)


 きらめく大海原だ。水平線から昇る太陽の淡い金色こんじきが、バスの窓から俺たちを照らしている。


(ん? なんだか、バスの速度が落ちているような……)


 それまで、自然に前に進むバスに頼ってアクセルペダルは踏んでいなかった。しかし、急激な低速を前に俺は――落ち着いて、静かに足元のペダルを傾ける。

 バスが遅くなった原因は、すぐにわかった。俺がバックミラーをのぞいて後方を確認すると――そこには、いつの間にかたくさんの乗客であふれていたのだ。


 わいわい。エネルギッシュな若者たちの声が、バスのなかに満ちる。学生服を着た卒業生たちだ。彼らの胸に白い造花が飾られているのを、俺はバックミラー越しで確認した。

 再び加速しはじめたバスに、若者たちの歓声がわいた。


 ――ピンポーン。


 降車を知らせるチャイム音が響いた。


「次、降りまーす」


 と、乗客の少女が手を上げる。私も、僕もと、続いて数人の卒業生も声を上げた。

 前方、先の歩道にバス停のポールが立っている。俺は上手にバスを停車できるかどうか不安だった。それでもやってみようと、まずアクセルペダルから足を上げて、今度はゆっくりブレーキを踏んだ。


 数十秒後、俺はほっと息をつく。バスの頭は、ちょうどバス停のポールを同じ位置に止まることができた。


 それぞれ別れの言葉を口にして、彼らはバスを降りていった。

 ドアが閉まり、バスは再び発車する。またしばらく道を走っていくと、チャイム音が鳴り響いた。卒業生たちはみな、自分が降りるバス停にて別れを告げていった。


 さようなら、ありがとう。

 またいつの日か。


 別々の道を行く。あいさつをかわし、バスを発車させた後も、サイドミラーには、ずっと手を振り続ける卒業生たちの姿が映った。


 その光景を目に焼きつけて、俺と真島は笑い合った。

 バスは先のない道を前進していく。

 海から昇る朝日は、若者たちの旅立ちを明るく祝福した。


 俺は、アクセルペダルを軽く踏んだ。

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