Chapter 5
卒業式 Ⅰ
俺はむくりと起き上がった。
場所は打って変わって、再び教室へ戻ってきたようだった。
教室の席はすべて窓側に寄せられていて、空いた床をせっせと三角巾を頭につけたおばさんがモップがけしている。寄せられた机の上で横になっていた俺は、教室を見まわして眉をひそめた。
「みんな……どこに行ったんだ?」
卒業生の姿が誰一人と見当たらない。こつぜんと消えてしまったようで、教室のなかにいるのは俺とおばさんの二人だけだ。
とりあえず俺は机から下りることにして、床に足をつけようとした。――その時、黒板の上のスピーカーからブツブツとノイズが響いた。
「この曲は……!」
穏やかなピアノの伴奏に、俺は体をぴたりと止めた。見上げたスピーカーから続いて流れてきた歌声は――間違いない、卒業式で俺たちが歌う予定の合唱曲だ。
「卒業式、もうはじまっているわよ」
「!」
掃除のおばさんがぽつりとつぶやく。
やばい、遅刻じゃないか! 俺は顔を青くして、大慌てで教室を飛び出した。
廊下に出てみれば、しんとした嫌な静寂が迎える。あんなににぎやかだった廊下にも生徒の影はまったくない。自分だけが騒がしく手足をばたつかせて、
卒業式は体育館で執り行われる。見つけた階段を一気に下りて、下駄箱が並ぶ校舎口を通り過ぎ、幅の広いL字の渡り廊下を抜ければ――体育館の入口が見えてくることだろう。
(早く、早く……!)
気が焦るほど、ふしぎとうまく走れない。
まるで体にスローモーションがかかっているかのように、全身の動きが鈍くなっている。体育館の入口まであと少しなのだ……あとは、渡り廊下の角を曲がるだけでいいのに。
俺は機転を利かせて、数歩後ずさった。
そこから助走をつけて、前へ勢いよくジャンプする。すると体の動きがゆっくりなせいなのか、一歩のジャンプでなんと数メートルもの飛距離で進むことができた。
これならいけるぞ。曲がり角で一旦、進行方向を切り替えると、俺は
「おりゃあぁあ!」
――が、ジャンプしてから、俺は目の前の光景に気づく。
渡り廊下の角を曲がり、すでに体育館の入口が見えているのだが……その手前に長蛇の列が並んでいた。その列は幅の広い渡り廊下を埋めつくすほどの、大きな人だかりであった。
「う、うわぁ!」
威勢のよい声は、すぐに悲鳴へと変わる。強くジャンプした俺の体は、勢いのままに人だかりのなかへ突っ込んでしまった。
運よく、人と人とのわずかな隙間に体をすべり込ませたため、大惨事には至らなかった。しかし、着地もままならず、中途半端な体勢で人波にもみくちゃにされる。
体育館前は、ロッカールームの時と比にならない超過密状態であった。押し合いへし合い……周りの人たちの足の動きに踏みつけられないよう前のめりにかがんで、俺は進んでいった。
(と、とにかく壁の端に移動しなくちゃ……)
もはや方向感覚は機能していなかったが、がむしゃらに人の合間を進んでいったかいもあって、頭が壁とぶつかった。
やったぞ。と俺は顔を上げる。
そこはちょうど、体育館入口の扉の前であった。この際、なんでもいい。背中の向きを無理やりに引っくり返し、俺は扉にもたれかかって、ふぅと安堵の息を吐いた。
ここへきて、俺はようやく辺りを見まわすことができた。
見れば、体育館前にわんさか集まっているのは、胸に造花のある卒業生をはじめ、在校生、保護者、はたまた教師までもがごちゃまぜに入り乱れていた。みな顔を青くして、焦燥し、嘆いているようであった。
いったいどうしたことか。
卒業式はまだはじまっていないのだろうか。
「なかでね、暴れている生徒がいるんですよ」
俺の疑問に答えたのは、すぐとなりに立っていたスーツ姿の男であった。あの、港で出会った人である。男は困り果てた表情で、体育館の鉄の扉を指さした。
両開きの扉には、少しばかり隙間ができていた。のぞいてみろと、男は俺に促す。言うとおりにしてまた体の向きを変えると、俺はそっと隙間に顔を近づけた。
ビュオッ!
「!」
目の前――なにかが、ものすごい勢いで通り過ぎた。
思わず顔を引くと、またも扉の向こうで黒い影が過ぎ去っていった。
「…………」
ええい、ままよ!
と、俺は扉の隙間に手を入れて、思いっきし左右に押し開いてみた。体育館の扉は重く、目いっぱい力を込めても肩幅にも達しない。しびれを切らした俺は、無謀にも途中まで開いた隙間に頭を突っ込ませた。
ゴボォ……口から大きな空気の塊が吐き出た。
(――水だ)
体育館のなかは、天井まで水に満ちていた。もはや体育館自体が水のなかに沈んでいる、といったほうが的確な表現なのかもしれない。
さらに最悪なことに……体育館のなかは荒れ狂う巨大な水の渦が巻いていた。まるで洗濯機のように、水流がグルグル回転している。
「わっ!」
ビュオッ。
と、また俺の目の前をかすめていったのは――鉄パイプの椅子であった。在校生がこの日のために一生懸命に並べた椅子は、魚の群れのように渦の流れに乗って泳いでいる。ほかにも紅白の垂れ幕に、花や花瓶、卒業証書でさえも渦の水流に巻き込まれて体育館の内をまわっていた。
(これじゃ、誰も近づけないな……)
「れれ、冷静に! 冷静になるのです! 大人の対応をしましょうっ!」
教頭が必死になってなだめようとしている相手――それは荒れ狂う渦の中心にいた。俺はそいつへと視線を向ける。
その人物は宙に浮くように、水の世界の中心にいた。胸に造花を被り、自分とおなじく学生服を着ているが、頭には卒業式にはまるで場違いな潜水服のヘルメットを着用している。
彼はひとり、指揮棒を振っていた。
「真島か!」
俺は水中で叫んだ。
顔は見えないが、自分にはわかる。卒業式で暴れているのは憎たらしい優等生こと、真島賢治本人であった。
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