深層と真相

 空には一面、灰色の雲が重たくのしかかっていた。

 ドアごと後ろ向きに倒れた俺は、仰向けのまま、その悲しい空模様を眺めていた。胸は上下に動き、吐息は白くけぶる。


 起き上がる気力はなかった。大勢に詰め寄られた恐怖から、俺の精神はすっかり滅入ってしまっていた。


 空を眺めていると、なにかがちりちり降ってきた。

 雨だろうか。ぼんやり考えていると、頬につんと冷たい感触が走る。

 雪だ。一ミリほどの小さな雪の粒が、空から舞い降りてきたのだった。


(そういえば、あの日も……)


 まぶたをそっと閉じて、俺はいつかの記憶を探る。

 あの日――去年の冬の出来事だ。男子テニス部の副部長を務める真島賢治の退部を知らされた時も、こんなふうに静かに小雪こゆきが降る日であった。


 寝耳に水だった。あの日、部活中に顧問の先生に呼び出され、職員室に通された。テニス部の部長である俺を迎えたのは……教頭先生だった。


『僕は、ずるいと思います』


 ノド奥から懸命に絞り出した声は、か細かった。


『ずるい、とは?』


 すっとぼけたような声が返ってくる。


『君の言う、ずるいとはなんなんだね。筧井頼人かけいよりとくん』


 教頭は俺に聞き返してきた。丁寧な口調であるが、いまひとつ声にトゲが隠し切れていなかった。


 職員室の一角――教師たちのデスクと切り離された場所に、ソファとテーブルが設けられた小スペースがあった。俺はいまでも、その時のことを鮮明に思い出すことができる。


 黒いソファに、教頭と顧問の両先生が並んで座っている。足を広げている教頭に対し、顧問はやや狭そうに肩を寄せていた。その二人の大人と向かい合って、低い卓を挟んだついのソファに座るのは――中学二年生の筧井頼人、自分自身だ。


『真島くんの退部の件だが……いきなり話を聞かされて、君もさぞかし驚いていることだろう』


 白髪をなでながら、教頭は言った。めったに対面しない相手に、俺の緊張も高まっていた。それを知ってか、教頭はずけずけと自分の言い分を重ねてくる。


『だけどね、真島くんのことを卑怯者ひきょうもの扱いするのは、少しちがうのではないかな? 部活動を辞めてでも、叶えたい夢がある。進学校への受験勉強に専念したいという、立派な目標が彼にはあるんだよ』


『…………』

『それを逃げただのと、やいのやいの非難するのは――君、稚拙ちせつだと私は思う』


 チセツ、という聞き慣れない言葉の意味はわからなかった。だが、ほめられた意味ではないことくらい察しはつく。


『ましてや君は、部長じゃないか』


 教頭は自分の演説を続ける。


『人をまとめる責任ある立場につく者ならばね……なおさら『ずるい』だなんて、子どもじみた考えを持つものではないよ。

 彼が部活を辞めるに当たって、波風が立たないよう周囲へのフォローにまわるのが、部長としての君の役目なんじゃないかな?』


 でも、だって……。

 言いたいことは、胸の内でグルグル渦を巻いている。しかし、感情を吐き出す勇気がわいてこなかった。


(なにを言ったって、整った正しい言葉に反論される)


 恐れと無力感がノドを圧迫した。俺はうつむいて押し黙り、膝に置いた拳をぎゅっと握りしめることしかできなかった。


『――いやしかし、私も思うんですが……』


 助け船か、それとも単なる同情心からか。ここでやっと顧問の先生が口を開いたのも覚えている。


『やはり、真島くんの口からも一度、部員たちに説明する必要があるかと……』

『なんですか、彼を見せしめにでもしようと言うのですか?』


 教頭の冷たい声に、顧問は舌を引っ込める。体育教師ゆえにガタイはいい。しかし、どうにも権威を前にすると、とたんに気の弱さが目立つのがこの先生に残念なところである。


『ぶ、部活動以外の学校生活でも、生徒間で顔を合わせることを考えますとですね……ここはきちんと部内で話を通しまして……ええ、それこそ真島自身がけじめをつけて――』


 教頭が『けじめ』と復唱する。長ったらしいため息を吐いた後、教頭はじぃっと顧問の顔を見つめた。


『――先生、いまは『けじめをつける』だなんて、がさつなことを口にする時代じゃありませんよ』

『いえ、別に私は乱暴な意味合いで言ったわけじゃ……』


 ヘビににらまれたカエル、とはこのことか。しどろもどろの顧問に対して、教頭はさらに言葉で詰めていった。


『真島くんの親御さん自ら、直接学校のほうに相談に来られたのですよ。成績優秀な彼が部活動を辞めるに当たって、生徒間で変な摩擦まさつが起きないよう気をつけてほしいとね』


『ええ、ええ……わかっていますとも。ですが、部員たちにも気持ちというものがありますから……』

『だから、こうして! 我々で話し合いをしているのではありませんか!』


 語気を強めて顧問の意見をぴしゃりと封じると、教頭は少し平静を装ってから、また俺のほうへ顔を向けた。少し前のめりの姿勢で重ねた両手を口元に当てると、静かに、思わしげな口調でこう言った。


『真島くんもねぇ、本当は副部長になりたくなかったらしいんだ』


 教頭の口から小さな嘆息がこぼれる。


『これも親御さんから聞いた話なんだが……どうも、まわりから強く押されて断り切れなかったとか』

『そうですか……』


 力なく返事をしたことも覚えている。その後、ベラベラしゃべり続ける教頭の言葉などは、もう耳には入ってこなかった。


『わかってくれたかな』 


 いつの間にか終わっていた教頭の話に、俺は『はい』と気の抜けた返答をした。


(…………)


 ――俺はまぶたを開ける。


 校庭の上空には、いまだ灰色の空が隙間なく敷き詰められていた。ちりちり降る雪は地上に積もることなく、肌に触れて、溶けて……冷たい痛みの跡だけを残していった。


(真島賢治は、たしかに優等生だ)


 彼は大人からの要望に、きれいに応えることができる――学年に数人はいる、器用な子どもの部類に入った。



(俺はテニス部の部長だ……)


 教頭の言うとおり、真島は逃げたわけではない。

 感情的になって、大事おおごとにするのはよくないことだ。寛容な気持ちをもって、許してやるべきなのである。


(そもそも、俺が怒ってもしかたのないことじゃないか)


 ねぇ?

 だって、彼は優等生なのだから。


『彼にも事情があるのだ。それを汲んであげるのが――』


 灰色の空の下、校庭に教頭の声が響き渡った。


『友達というものだよ』


 灰色の雲のなかに、一点の赤い光を見た。

 雪とはちがう。はじめこそ雪のおなじ小さな粒であったが、光の点は徐々に形を大きくしていった。


 地鳴りが校庭にとどろく。赤い光が地上に近づくにつれて、周囲も赤々と燃えるように明るくなる。


「……それはどうでしょうか」


 俺がつぶやいた直後、巨大な隕石は校庭に直撃した。

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