潜水艦の学校 Ⅱ
すっと、正面をふさぐ人影が視界に入った。
俺は前に出そうとしていた右足を、すんでのところで止める。見れば、とても背の低い女子生徒――おそらく下級生の女の子が目の前に立っていた。
「どうぞ、どうぞー」
にこやかな顔で、彼女は手招きしてくる。近くにある教室の入口へ俺を誘導しているらしい。
「卒業生の方は、こちらで控えていてください」
「はぁ……」
そう言われて、俺は彼女に案内されるままに教室へ入った。
何年何組の教室だかは、確認し忘れてしまった。椅子と机が並ぶごく普通の教室で、室内には十人ほどの生徒がいた。
みな胸元に造花を飾っているから、俺とおなじ卒業生であることはすぐにわかった。けれど、大事な卒業式の日だというのに、行儀よく着席している生徒など誰一人としていなかった。
俺が教室へ足を踏み入れた瞬間、パーンッとボールの弾む音が耳に入った。教室の後方、数人の卒業生が輪をつくってバレーボールのトスの練習をしているではないか。さらに教室を見まわせば、休み時間のようにまったり自由気ままに過ごしている生徒ばかり目についた。
(……本当に、今日が卒業式で間違いないんだろうか)
急に不安になる。一応、黒板には『卒業式おめでとう!』とカラフルなチョークを使ったメッセージは添えてあるから……合っているとは思うが。
一人だからこそ、心細い。
とにかく、席に着くとするか。と考えて、俺はそそくさと席の合間を進む。どこか適当な場所を見つけて――とその時であった。
「おう、田中じゃん」
同級生で、おなじ男子テニス部の田中の姿があった。
後ろ向きの椅子にまたがって座っていたから、ぱっと見ただけでは田中だと気づかなかった。
さらに彼の足元――教室の床に座っている数人の生徒も、なじみ深いテニス部員の顔ぶれであった。
「なんだ、全員そろってたんだな。……というか、なんで卒業式なのに、おまえら遊んでいるんだよ?」
俺がけげんな顔で一同を見下ろした。というのも、田中たちは教室にいるほかの生徒と同様、のんきにトランプをしていたからだ。
「もうちょっと緊張感を持てよな。卒業式、もうすぐはじまっちゃうんだぞ? 何時からか、わかんないけれど……」
試しに田中に卒業式の開始時間をたずねる。俺の問いかけに「さあね」と田中は答える。彼は手札を見たまま、しゃべり続けた。
「たぶん、放送で呼ばれるんだと思う」
田中は手札から二枚組のカードを抜き取る。ひとり椅子に座った高い位置から、床に積み上げられたカードの捨て山へ引き抜いた二枚を落とした。
「今年は他校と合同で、卒業式をやるらしいんよ。んで、俺らはその順番待ちってこと」
田中の言葉に、なるほどと納得した。どうりで知らない顔ぶればかりが集まっているわけだ。
田中たちはみんなトランプに集中している。俺のほうを見向きもしない。トランプは途中参加のできないゲームだ。しかたなく俺は脇に突っ立って、彼らの遊びを見ていることにした。
床の上にあるカードの捨て山は、次第にこんもり大きくなる。どんどん手札のカードが積まれていって、なだらかな三角の形をつくっていった。
と、そこへ。
ふいに俺の背後から、なにかが飛んできた。ヒュンッ、と空を切る音が耳元をかすめる。
「あ!」
やや反応が遅れて、俺は驚いた声を上げる。飛んできたもの、それはバレーボールであった。
次の瞬間、ボールはカードの捨て山を直撃する。床に勢いよく叩きつけられたボールは、おなじ力を保って跳ね上がった。その力の運動に引き寄せられて、トランプのカードたちも空高く舞い上がる。バラバラと教室内に散らばっていった。
教室の天井すれすれまで弾んだボールは、俺の頭上に落下する。そこは運動部の筧井頼人さまだ、持ち前の反射神経を生かして両腕をさっと上げ、すんでのところでボールを挟むようにキャッチした。
後ろから「ごめんなさーい」と女子の声が聞こえた。キャッチしたバレーボールを華麗に投げ返してやろうと、俺はボールを持った手を自身の顔の前に下ろした。
だが、俺はギョッと顔をこわばらせた。
なぜなら、俺が両手でつかんだソレはバレーボールではなかったからだ。
「真島……」
黒の光沢が目の前に広がる。
それは、潜水服のヘルメットであった。
あの優等生、真島賢治が身につけていたヘルメットなのである。
(なんで、こんなところに……?)
俺はヘルメットに顔を近づける。
黒の光沢の奥へ目をこらそうとしても、見えるのは反射した自分の顔だけだ。ヘルメットがここにあるということは、中身は……当の真島はどこへ行ってしまったというのか。
「ん?」
ヘルメットと俺の顔の間をさえぎるように、ぱらぱらとなにかが降ってきた。
トランプのカードである。俺はヘルメットから顔をそらすと、なんと、田中を含めテニス部員たちが教室内で暴れまわっているではないか。
彼らはカードをばらまいていた。床に散らばったカードをしゃがんで腕いっぱいに拾うやいなや、それを再び天高く放り投げて辺りにまき散らしていった。
乱暴に拾っては投げてをくり返す。まわりの卒業生たちはすっかり怯えているようで、みな教室の端に寄り添っていた。
「おいっ! やめろよ、おまえら!」
田中たちを止めようと、俺は声を張り上げる。だが、彼らは言うことを聞かなかった。一見するとふざけているだけのように思えるが――俺にはわかっていた。ボールをぶつけられたことに、田中たちが非常に怒っていることを。
「やめろってば!」
ざばざば雨のように降ってくるカードを払いのけながら、俺は徐々に語気を強めていった。
「怒ってもしかたがないだろ! 相手だって悪気があってやったんじゃないんだから!」
事情があったのだ。
言葉を重ねてなだめようとしても、田中たちの怒りが収まる気配はなかった。彼らの子どもっぽい怒り方も相まって、さすがの俺も我慢の限界を迎える。
「いい加減にしろって言ってんだろッ!」
叫ぶままに、手にしていたヘルメットは床に叩きつけた。
最初は割れるかと思った。ところが、叩きつけられたヘルメットはボールのようにバウンドした。バウンドして……教室内を跳ね飛びまわる。
女子の甲高い悲鳴が上がった。
教室の卒業生たちはみなパニックになって、でたらめに飛んでくるヘルメットから逃げようとぐちゃぐちゃに駆けまわった。机も、電灯も、掲示板も、黒板にもヘルメットが容赦なく襲いかかる。田中たちもカードをばらまく手を止めて、暴れる弾丸から逃げた。
真島の潜水服のヘルメットは、男子テニス部員らの頭をかすめた後――まっすぐ、俺のほうへ飛んできた。そして、俺の顔面に直撃する。
「!」
音もなし、衝撃もなし。
直撃する瞬間、俺の視界はヘルメットの黒い光沢に包まれた。
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