潜水服の優等生
フロントガラスの半分まで浸かったと思ったら、あっという間に水が車の天井まで包み込んだ。車内が薄く暗くなる。トンネルに入った時とおなじ感覚だと、俺は思った。
水中の浮遊感をまとったまま、車はゆっくり湖底へ向けて沈んでいく。さして、パニックにはならなかった。俺も真島も、沈みゆく
お世辞にもきれいとは言いがたい、緑色の湖水。
ただ、離れていく水面から日差しが差し込んで、無数の白い帯がゆらめく様は少しばかり幻想的に見えた。
時折、大きな鯉のような魚が、車の横を通り過ぎる。流木の欠片や根の切れた水草も見かけた。眺めているぶんには退屈はしない。しかし、基本は濁った湖水なのであまり遠くは見えなかった。
俺はまっすぐ、正面を向いていた。座席に深々と座り、頭を枕に預けてリラックスしていた。
車は一向に湖底に着地しない。いよいよ日差しの帯も届かなくなり、車のライトが自動的に点灯した。
(けっこう深いとこまでやってきた。このまま、どこまで潜っていくんだろう……)
突然、前方の水中に白いモヤがわいた。しゅわっと、例えるなら栓を開けた瞬間にあふれ出てくる、炭酸水の白くてきめ細かい泡のようだ。
しゅわしゅわ、モヤはフロントガラスを覆い、視界をふさぐ。
コツン。なにかが、フロントガラスにぶつかる音が聞こえた。
「?」
眉を寄せる俺。またコツン、コツンとフロントガラスの震動とともに、奇妙な音が聞こえる。
すると白いモヤから、ぬっと黒いグローブが現れた。
グローブは握りこぶしを作ると、フロントガラスをノックする……コツンっと。
今度はべだっと、フロントガラスに黒い影が張りつく。俺は目を丸くした。白いモヤをまとって水中に現れたのは――潜水服を着た人間であった。
潜水服は白くて固そうな生地に覆われ、なかの人物の体格や輪郭がわからないほど分厚くふくらんでいる。黒光りするヘルメットをのぞき込んでも、反射するばかりで顔も見えやしなかった。
しかし、俺は直観で相手の正体がわかった。
「知っている。真島だろ?」
そう、あの真島賢治だ。
その証拠に、俺がとなりへ目を向けると、すでに運転席はもぬけの殻になっていた。ちゃっかり一人だけ、車から抜け出していたらしい。フロントガラスの向こう、潜水服を着た真島は俺に向かってのんきに手など振っていた。
それから彼は、俺の見ている前で水中を自由に泳ぎまわった。魚の背をなでたり、
「どこまでも自由なやつだ」
車に残された俺はあきれまじりに、ひとりごちる。
「こっちは一歩も動けないっていうのに……」
なんでもできる特権というものを、潜水服の真島は見せつけてくれる。けれど、もはや俺は彼を
(もう、どうでもいいや)
あいつはあいつ、自分は自分と割り切ってしまったほうがずっと気持ちが楽になることを、いまさらながら俺は思い出したのだ。
(……俺、そこまで寛容になれないからな)
淡々と、自分を納得させていると――ゴツンッ! ひときわ大きな音が助手席側の窓から鳴った。
視線を向けると、それは真島がヘルメットをぶつけた音であった。彼は黒々としたヘルメットを助手席の窓……俺のすぐ近くにくっつけて、こっちを見ている。
ヘルメットの黒い光沢はすべてを反射する。なかにいる真島も、彼の表情も、その口の動きすら読むことはできなかった。
俺がしげしげ見ていると真島のやつ、今度は片手のグローブを窓に貼りつけた――手を大きく開いた状態で。
「…………」
彼がなにを訴えているのか、わからない。俺はなんとなしに、片手でピースサインをつくると、それをガラス越しのグローブの手に重ねた。
グローブの形が、握りこぶしへと変わる。
「むっ……」
俺も手の形を変えた。今度は五本指を大きく開かせる。
するとまた彼の手がピースサインへと変わり、それに合わせて俺も握りこぶしを窓へ当てた。
互いに意地を張り合った、無言のジャンケンは延々とくり返されていった。
――だが突然、車が大きく振動する。
真島が、ガバっと前方へ顔を向けた。俺もつられて正面を向けば、思わず「うわっ!」と驚きの声が出た。
目の前に、巨大な影が迫っている!
その大きさは車の何十倍もあり、横長に車の進行をふさぐ壁のように立ちはだかった。
はじめはクジラか、それに似た巨大魚が横断しているのかと思った。ところが、その巨体には無数の目が開いていて――白く光り、水中を照らすサーチライトだ。俺は車の前をふさぐ影の正体が、巨大な潜水艦であると察した。
潜水艦から伸びる無数の光線は、なにかを探すように湖のなかを忙しなく動きまわる。やがて、光は潜水服の真島と俺が乗っている車の姿を捉えた。
(まぶしい!)
強烈な光に、俺は目を細めた。再び、水が大きくゆれる。俺たち二人を捉えたサーチライトのすぐとなりで、ゴゴゴッと泡を吹きながら潜水艦の側面に大きな口が開いた。
潜水艦の大口は、湖の水を吸い込み始める。
「!」
これには真島も慌てたようで、手足をじたばた動かした。呑み込まれまいと彼は必死になって車にしがみついてたが、優等生といえど、さすがに巨大潜水艦には敵わなかった。
洗濯機のなかでまわされる衣類のごとく、真島は哀れに回転しながら潜水艦の大口へと吸い込まれていく。俺は車のなかで、あっけに取られていた。吸い込まれる真島の姿を眺めていることしかできなかった。
真島を飲み込んだ潜水艦は、次のターゲットに切り替える……俺が乗っているこの車だ。
大口の暗がりのなかから、金属のアームが勢いよく伸びてくる。ガシンッ、車体がつかまれると、そのまま大口へと引っぱられた。
車は、潜水艦の暗闇に包まれた。
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