Chapter 2

世界の終わり Ⅰ

 ドンッ!

 ドンドンドンッ!


 激しく、なにかを叩く音が聞こえる。

 俺は、うっすらまぶたを開いた。どうやら自分は、倒した座席の上で横になったまま、すやすや寝入っていたらしい。


「うおっ!」


 叩く音と同時に、ぐわんぐわんと車が左右に大きくゆれた。俺はすぐさま体を起こす。寝起きのせいか、ちょっと感覚がふわふわしていた。


(母さんたちが戻ってきたのかな?)


 外を確認しようと、窓ガラスを見やる。

 ところが……なんということだ。


 さっきまで窓の表面には、ふつふつと雨の水滴がつく程度であったというのに――いつの間にか、滝のような水流に覆われているではないか。

 雨が激しくなったのだろうか……俺は、周囲を見渡す。フロントガラスも、後部のリアガラスまでも水流に覆われて、外の様子はまったく見えなかった。


 ふいに、ぬっと暗く陰る。

 突然の暗さにびくっと驚いて、俺はすぐ手前の窓へ顔を向けた。


「…………」


 窓の外に誰かいる?

 水流の上に、黒い人影が落ちていた。


 ただ、雨水に阻まれ、顔つきまでははっきりしない。もっとよく見てやろうと、俺は額を窓にくっつけた。自身の目を窓ガラスに寄せて……じっと、集中して影を見つめる。

 だんだんと、目が慣れてきたらしい。水のなかで歪んでいた人の顔の形が――目や鼻や口の形が、浮かんできた。


「あっ」


 思わず、俺は窓から飛び退いた。

 てっきり、外にいるのは母かと思った。けれど、水のなかに見えた顔は、母ではなかった。

 ひどく見知った顔であった。窓の向こうから俺のいる車のなかを覗いていた、その人物とは――。


 同級生の、真島賢治だった。


「な、なんで、あいつが……」


 外にいるんだよ。

 嫌悪から、思いっきり顔をしかめた。


 外の様子も確かめたいため、俺は車の窓を開けることにした。怖々とレバーを引けば窓ガラスが下へ引っ込み、同時に水流の壁も消えていった。

 そして俺は、目の前に広がる光景にも驚かされるのであった。


「わっ、わわっ! なんなんだよ、これッ!」


 外は、すさまじい豪雨であった。

 目で十分に追えるほどの大きな雨粒が、ダダダダッっと容赦ようしゃなく地面に打ちつける。まるで雨の散弾銃さんだんじゅうだ。日はいつの間にか落ちていたようで、とっぷり夜の景色に切り替わっていた。


 靴の半分くらいの高さだろうか、すでに地面は雨水に沈んでしまっている。駐車場一面、黒い水面が広がり、ぬらぬらと不気味にゆらめいていた。


「真島……」

「…………」


 俺は地面から視線を上げる。

 数メートル離れた場所に、ウワサの優等生――真島賢治が立っていた。


 雨の散弾に打たれ、真島は頭から全身ずぶ濡れである。彼が着ている学校指定の黒い学ランの制服が、悲惨さを物語っていた。


 真島は口を開かない。

 ただ、こちらをじぃっと見つめていた。


 駐車場の明かりが、スポットライトのように彼を照らす。おかげで水がゆらめく暗い闇夜の世界でも、彼の顔や体の輪郭だけははっきり見ることができた。


 突然、その真島が上半身を大きく反らした。反らした姿勢で、すぅっと大きく息を吸い込んだ。なんだなんだと、車のなかから俺は目をぱちくりさせて成り行きを見守った。


 そして、次の瞬間――。


「世界の終わりだァアアァァアアアァッ!」

「はぁっ!?」


 学年トップの優等生くんは――大絶叫した。

 その爆音声ばくおんせいに、雨粒が一気に吹き飛んだ。変声期を終えた低い声を無理やりまくり上げたような甲高い絶叫だった。もはや奇声に近い。


「世界の終わりだァアアァァアアアァッ!」


 二発目、三発目。

 肺に目いっぱいため込んだ空気の大砲を、真島は次々にぶっ放していく。声帯を破壊する勢いで、彼は何度も何度も……叫び続けた。


 その異様な光景を、俺は車のなかから見つめることしかできなかった。目玉をひんむいて、でも確実に俺に向かってまっすぐ叫んでくる優等生――真島賢治の姿を。


 ぽっかり開いた彼の大口の暗がりから、ヒューヒュー……ノドが鳴っている。シュールを通り越して、もはやこれはホラーであった。

 しかし得体の知れない恐怖心よりも、俺があの優等生に抱いた感情は――変な羞恥心しゅうちしんであった。


「お、おい! やめろって!」


 俺は車の窓から、慌てて顔を出した。真島に向かって、今度はこっちが叫び返す。


「なんだよ、おまえ! いきなりガキみたいに大声上げやがってさ、バッカじゃねぇの! まわりに見られたりでもしたら、どうするんだよ!」


 突然、真島は走り出した。

 ダダッと地面の水を切りながら、俺の乗っている車まで駆けてきた。なんのつもりか、やつは両手を大きく広げて、車をつかむとガッシガッシとゆさぶってきたではないか。


 車をゆさぶりながら、窓から顔を出す俺に向かって「世界の終わりだァアアァァアアアァッ!」と絶叫を浴びせてくる。これは、たまったもんじゃない。

 飛んでくるツバを手ではたき落とし、俺は正面に覆いかぶさる真島の脇から外の様子をうかがった。


(だ、誰かに……見られてはいないだろうな?)


 あの優等生の真島賢治が、じつはこんなイカれたやつだったなんて知られたら――。

 他人事なのに、どうしてか俺は顔が熱くなった。


 幸い、この豪雨だ。雨のなか出歩いている人の姿は見当たらない。念のため、闇夜の奥の奥まで目をこらしてみるが……うん、大丈夫。いまの真島を見て、指をさして笑っているような人はいなかった。

 

 俺はほっと息をつく。

 真島の奇行に、なぜだか自分までもが恥をかいているような気持ちになる。けれど当人は、そんな人の気も知らないで、またも奇声を上げて醜態しゅうたいをさらし続けていた。


 自分勝手な優等生に、俺はイラ立った。「いい加減にしろ」とか「中学生なのに恥ずかしくないのか」と、何度か制止しようと試みるも、俺の言葉に真島が聞く耳を持つはずがなかった。

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