80.静かなる決着







…………お兄ちゃんが受験勉強をし始めてから、私たちはまた、デートをする機会を失った。


遠方に行くことはできず、行くとしても近場のカフェでご飯を食べたりする程度だった。湯水の件が終わったら、遊園地とか水族館とか、たくさん行きたいなと思ってたけど、それももう少し先の話になっちゃいそう。


もちろん、私はお兄ちゃんのそばにいられるだけで、本当に嬉しい。だからちゃんとしたデートができなくても、そこまでしょんぼりはしていなかった。どっちかっていうと、お兄ちゃんの方が落ち込んでいた。


「あーあ……美結とまた遊べると思ったのになあ……」


ご飯を食べる時や、一緒に眠る時なんかに、時々お兄ちゃんはそんな独り言を呟いている。そんな時、私はいつも「気にしなくていいのに」と答えるのがお決まりだった。


「私は、そばにいられるだけで幸せだよ?」


「うーーーー!美結ーーーー!君はなんと健気なのだーーー!」


そう言って、お兄ちゃんはいつも、私を抱き締めてくれた。


受験中のお兄ちゃんをサポートしたりするのも、実は結構楽しかったりする。自分がお兄ちゃんの役に立てているんだってことが目に見えて分かるから、とってもやり甲斐がある。


しばらく一緒にいられなかった期間があるせいか、私はお兄ちゃんとの毎日が、小さな日常のやりとりが、今まで以上に愛おしく思えるようになった。


湯水から身を隠す日々は、辛くて辛くて仕方ないといつも思っていたけど、お兄ちゃんとの毎日をもっと大切に思えるようになったことだけは、嬉しい出来事だったかも知れない。




……夏が過ぎて、秋を越え、冬を迎えた。


お兄ちゃんはどの季節も関係なく、机にいつも向かっていた。参考書がよれよれになり、ところどころページが破れていたりする。


クリスマスの日も、スーパーで買ってきたケーキを食べて終わったし、一緒にテレビを観たのも年末にある赤白歌合戦くらいだった。


でも、それもまたひとつの思い出。後からきっと、この日を「懐かしいな」って思える時が来る。私はそう信じている。



ピンポーン



「あれ?誰だろう?」


新年を迎えてから、しばらくしたある日、珍しく家のインターホンが鳴った。リビングの掃除をしていた私は、掃除機を一旦床に置いて、玄関前に向かう。


インターホンにあるカメラを覗いて、訪ねてきた人が誰か確認する。


「え?」


私は思わず、小さな驚きの声を漏らしてしまった。


そこに映っていたのは、湯水だった。髪はボブヘアだった頃からだいぶ伸びて、今はセミロングになっている。それに、髪は私が初めてあった頃と同じ、黒色だった。



『……………………』



彼女は何やら、そわそわというか、緊張しているような顔つきでそこに立っていた。


「湯水……?」


私が通話ボタンを押し、玄関前にいる彼女へインターホン越しに話しかける。湯水はごくっと息を飲むと、『少し……話があって来たの。中に入れて貰えないかしら?』と、あの湯水にしてはかなり控えめな言葉が出てきた。


「……………………」


何が何やら分からなかったけど、とりあえず私は勉強中のお兄ちゃんを呼ぶことにした。部屋の扉を開け、机に向かっているお兄ちゃんの背中に声をかける。


「お兄ちゃーん、勉強中にごめん」


「ん?どしたー?」


背中を向けたまま、お兄ちゃんは私へそう聞き返す。


「あの……湯水が今、訪ねに来てるんだけど……」


「……え?」


その時、さすがのお兄ちゃんもびっくりしたのか、持っていたシャーペンを机に置くと、怪訝な顔をしてこちらに振り向いた。


「どうしよう?中に入れて欲しいって言ってるんだよね」


「……えーと、湯水だけ?他には?」


「ううん、誰もいない……と思う。隠れてたりするかな?」


「……………………」


「どう思う?お兄ちゃん」


「……そうだな、とりあえず話を聞いてみるか」


お兄ちゃんは席を立ち、インターホンの前までやって来ると、私と同じようにインターホン越しで会話をし出した。


「湯水。俺だ、明だ」


『アキラ……久しぶりね』


「今日は何の用だ?突然家を訪ねて来るなんて」


『……………………』


「また何か企んでいるのか?」


『いえ、もう……そんなつもりはないわ。これ以上……罪を重ねるつもりはない』


「証拠は出せるか?もう何もしないという証拠を」


『……証拠は、具体的には出せない。だからもし疑うのであれば、今ここで、警察に通報してくれていいわ』


「……………………」


……お兄ちゃんと私は顔を見合わせた。そして、湯水に聞かれないよう小声で話し合った。


「美結、俺は一応……開けてみようと思う。警察に通報してもいいっていうのは、中々強気な言葉だ。もし本当に何か企んでいたとするなら……そんな豪語はできないと思う。まあ、それを逆手に取ってわざとそう言っている可能性もあるけどな……」


「うん」


「だから、もしものために……一応、すぐに通報できるようにはしておこうか」


「わかった。ポケットの中にスマホを入れておくね」


「よし、じゃあ……開けるぞ」


お兄ちゃんは恐る恐る、玄関の扉を開いた。そこには、白い紙袋を片手に持った湯水が立っていた。


「……アキラ」


緊張気味に強張った表情をしていた湯水だったが、お兄ちゃんの顔を見た瞬間、少しだけ嬉しそうにに頬が緩んでいた。


「久しぶりだな、湯水」


「……………………」


「今日は何か、話があるらしいな」


「……そう、ね。正確には、お願いがあって来たの」


「お願い?」


「……………………」


「……それは、長くなる話か?」


「長く……なると思うし、あんまり……あなたたち二人以外には、聞かれたくない話」


「……わかった。まあ上がれよ」


「ありがとう」


珍しく湯水は礼を言うと、靴を脱ぎ、私たちの家へ上がった。










……湯水は、じっと貝のように押し黙っていた。


座布団の上に正座をして、かれこれ十分ほどうつむいたまま静止している。


私とお兄ちゃんは、そんな湯水をただ傍観するしかなかった。お願いをしたいと言っていたけど……あの湯水が私たちに依頼したいお願い事なんて、まるで検討がつかなかった。


「……あの、ミ、ミユ」


「え?」


「あ、ミユと呼んでいいかしら?」


「う、うん。渡辺だとお兄ちゃんと被るし……別に構わないけど」


「わかった。えーと……ミユに、お願いがあって来たの」


「は、はあ……」


湯水は、自分が持ってきていた紙袋に手を入れて、ある物を取り出した。それはバリカンであった。


「バリカン……?」


お兄ちゃんが眉をしかめてそう呟く。


湯水はそのバリカンを私の前に置いた。そして、頭を深く下げて……こう言った。


「ミユ……。そのバリカンで私の髪を、丸坊主にしてちょうだい」


「……え?」


「私は、かつてあなたの髪をそうしたから。目には目を、歯には歯を……」


「……………………」


……もしかして、と私は思った。


もしかして彼女は、罪を償いに来たのだろうか。自分のやったことを悔やんで、そのために頭を……?


(まさか、あの湯水が?)


真っ先に頭に浮かんだ疑問は、それだった。湯水という人間が、自分のしたことを悔やんで、罪を償おうとするなんて、本当に……。


「……………………」


だが、湯水は真剣だ。ごくりと生唾を飲んで、頭を垂れている。


「……湯水、顔を上げてよ。私別に……あなたを丸坊主にしても、嬉しくないよ」


「……!」


「無理やり丸坊主にされる苦しみを知ってるから、他人にそんな想いをさせたくない」


「……………………」


湯水は眼をぎゅっと閉じて、さらに押し黙ってしまった。なんだか今にも泣きそうな雰囲気で、私はちょっとそわそわした。


「……やっぱり、“チアキ”の言う通りだったわね」


「チアキ……?」


「柊 千秋よ。探偵の」


「え?柊さんのことを……なんで湯水が知ってるの?」


「あら?チアキから聞いてない?私今は、チアキと一緒に住んでるのよ」


「えーーー!?」


これには、さすがに大声を出さなきゃ気が済まなかった。あれからそこそこの時間が経ったけど、そんなことになってたなんて……。


「な、なあ湯水、お前今までどうしてたんだ?」


お兄ちゃんもここは口を出したいと思ったみたいで、「なんでそういう経緯になったのか?」を教えてほしいと、そう言った。


湯水は軽く頷いてから「かいつまんで話すわね」と、そう前置きを入れた。


私とお兄ちゃんが黙って頷いたのを確認した彼女は、ぽつりぽつりと、こう語り始めた。


「私は刺された傷が癒えてから、学校を退学した。そして4ヶ月間……鑑別所に入っていた」


「……………………」


「この前ようやく出所して……家に帰された。そこでパパとママから、絶縁された」


「絶っ……!?」


「『お前のような出来損ないは、もう“いらない”』って、そう言われた。それが最後の会話だった」


「……………………」


「同情する必要はないわ。私の親って、元からそんな人たちだったし……そこまで驚かなかったわ。むしろ、どこかすっきりしたのよ。『ああ、これでようやく自由になれる』って」


「……………………」


「それから私は宛がなくなって……どうしようか迷っていたところで、チアキに拾われた」


「そこで柊さんが……」


「どうやら彼女は、もともと私の行方を探していたみたい。私が親から絶縁された情報をどこかからか入手してね」


「な、なんで柊さんは湯水を……?」


「もともと、澪や喜楽里と共に私を事務所へ連れて来たかったみたい。『罪を償うんだったら、檻の中で自責するよりも何か行動に移す方がずっと良い』って、そう言ってた」


「……………………」


「だから今は、チアキの事務所で寝泊まりしながら、仕事の手伝いをしている」


……なるほど、あらかたの経緯はわかった。


ということは、ここへ謝りに来たのも、柊さんからの勧めというか……『ちゃんと謝ってきなさい』的なことを言われたのかな?たぶん。


ただ、はっきりそう言ってしまうとなんとなく角が立っちゃう気がするので、一旦そこは触れず、他に気になるところから確認することにした。


「えーと、湯水がさっき言ってた……『チアキの言う通りだった』っていうのは、どういう意味なの?」


「あれは……その、つまり、私がチアキに……『罪を償うなら、目には目を歯には歯をが一番じゃないか?私がミユの頭を坊主にしたのなら、私が坊主にされるべきなのでは?』って話をしてて……。それに対してチアキはこう言ったの」




『人は理不尽に傷つけられた時、反応が三種類のパターンに別れる。一つ目は、自分だけ苦しむのは許せない!他の奴も苦しめ!と他人を巻き込むパターン。二つ目は、その苦しみに耐えかねて、何も行動ができなくなり、フリーズしてしまうパターン。そして三つ目が、自分が受けた苦しみにきちんと向き合い、昇華した上で、その苦しみと同じものを持っている人を助けようとするパターン。明氏と美結氏は、間違いなくこの三つ目のパターンになる。だからたぶん、坊主にしてほしいというお願いは拒否されるはず』




「……言われた時はよく分からなかったけど、ミユが……『無理やり丸坊主にされる苦しみを知ってるから、他人にそんな想いをさせたくない』って言った時……ああ、チアキの言ってたことはこれかと、今しがたようやく理解できたのよ」


「……………………」


「ミユ、アキラ……。私はどうしたらいいの?」


「どうしたらって……」


私は湯水の問いかけに困惑してしまい、救いを求めるようにしてお兄ちゃんを見た。


お兄ちゃんはお兄ちゃんで、渋い顔をしながら後頭部を掻いていた。


「なあ湯水、お前はそもそも、俺たちにどうしてほしいんだ?今までの件を許してほしいのか?」


「……………………」


「まあ別に、許してほしいなら許してほしいと、そう言ってくれて構わない。俺らが実際に許すかどうかはともかく、お前の本音をまず聞きたい」


「……………………」


湯水はしばらく逡巡していたけど、ふうっと一度息を吐いた後に、私たちの首から下……胸の辺りを見つめながら「分かったわ、話す」と、そう前置きして語り始めた。


「……許してほしい、っていうのは……正直、虫が良すぎるって思ってる」


「……………………」


「ただ…………私は、その…………縁を、切ってほしくなくて」


「縁?」


湯水がぎこちなく頷く。垂れた前髪を耳にかけ、ごくりと息を飲む。


「……私は、あなたたちの、近くにいたい」


「……………………」


「も、もちろん、いくらでも私をこき使って良い。パシリだってなんだってするし、召し使いみたいな扱いだって……そう、殴ったり蹴ったりして八つ当たりの道具にしてくれたっていい。そうしたら、あなたたちにもメリットがあるでしょ?」


「……………………」


「とにかく、どんな形でもいいから、そばにいさせてほしい……です」


「……なぜ、そこまで俺たちに拘る?」


「……………………」


湯水は、お兄ちゃんの言葉を耳にした瞬間……頬が赤く紅潮した。


「………………やっぱり私は……………アキラが、好きだから……………」


「……………………」


「いや、もう、その……自分のものにしたいとか、そういう気持ちはない。どう足掻いてもミユには敵わないし、恋人なんて望めないと分かってるけど……。でも、できることなら、好きな人のそばにいたい」


「……………………」


「だから、そのためにはまず……過去に自分がしてきたことを精算しなきゃいけないと思って……。まず始めに、ここへ訪ねに来た。二人が私のこと、大嫌いなことは分かってる。でも、私………私…………」


「……………………」


弱々しく背中を丸める湯水を、私とお兄ちゃんは静かに見つめていた。


ここで『分かった、許す』と一言で終わらせられたら、きっと立派な大人なんだろうけど……さすがに私も、そんな一言でおしまいにできるわけじゃない。


私一人が迷惑を被っただけならまだしも……お兄ちゃんやメグ、他のいろんな人たちを巻き込んだ。それに、湯水のみならず……澪や喜楽里たちも散々に人を振り回した。それを考えると、とても軽々しく許せるわけない。それをきっと、湯水も分かっている。


「……………………」


私はちらりと、横目でお兄ちゃんを見た。お兄ちゃんは腕を組んで口をすぼめ、じっと考え込んでいる。


……とりあえず私は、まず自分が思っていることを湯水に伝えることにした。


「「ゆみ……」」


……この時、私とお兄ちゃんの言葉がハモった。私たちは顔を見合わせて、どっちが先に話すかアイコンタクトしあった。


お兄ちゃんは軽く頷いて、『美結から先にいいよ』と、眼でそう訴えていた。


私はお兄ちゃんへ「ありがとう」と言ってから、湯水の方へ向き、仕切り直した。


「湯水……私はまず、あなたに謝ってほしい」


「……………………」


「あなたを坊主にする気もないし、召し使いにしたいわけでもない。それをやったからって、私の心は晴れないし……結局それは、あなたを苦しめることにしかならないから。だからまず一言、ごめんなさいを聞きたい。それが最初にほしい」


隣でお兄ちゃんが頷いていた。たぶん、お兄ちゃんも同じことを話そうと思っていたのだろう。


「それから湯水、あなたが今までに迷惑をかけてきた人たちにも……その言葉をかけてあげてほしい。私たちのそばにいたいって気持ちは……好きなだけ持ってもらってもいい。だけど、やっぱり今までやってきたことには、責任を持ってほしい。もちろんこれは、私の身勝手なお願いだけど……」


「……………………」


「……そういう意味では、私もあなたたちにいじめられてた頃は……無意味な仕返しをしちゃってた。今にして思えば……ちょっと大人気ないことだったかなと、そう思う。だから、それに関しては私もごめん」


「……………………」


湯水は、シワがよるくらいに眼をぎゅっと瞑った。そこからじわっ……と、涙が溢れ始める。


長い睫毛の先が少し濡れて、そこから雫が頬に垂れる。


「ご、ごめ…………」


湯水はぶるぶると小刻みに震えていた。口許はへの字に閉じられていて、何回も鼻をすすっている。




「ごめんな…………さ…………い……………」




「「……………………」」


……私たちは、一言も湯水へ声をかけなかった。というより、かけられなかった。


何か気の効いたことが言えたらベストなんだけど……こういう場でぱっと思い浮かべられないのが、やきもきする。


「……………………」


そんなことを考えていた矢先、私は湯水の髪が黒に戻っていることを思い出した。


「……“舞”、その髪の毛……」


「……え?」


「元の黒髪に、戻したんだね」


「……まあ、その…………ミユに、そのままでいいって、言われたから」


「……そっか。うん、似合ってるよ」


「……………………」


湯水は、その言葉を受けてから……もっと涙をこぼした。床にポタポタと、その雫が落ちる。


静粛が包むこの部屋の中で、彼女の小さな嗚咽だけが木霊していた。










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