79.幸せな毎日







……それからの俺たちは、びっくりするほど平穏な日々を送った。


「ただいまー、美結」


「お兄ちゃんお帰りー」


誰のことも気にする必要がなく、毎日が無事でいられることに幸せを感じた。家に帰れば美結が待っていてくれて、俺を出迎えてくれる。手垢のついた表現だが、当たり前の日常がかけがえのない幸せの風景だった。


いよいよ夏休みも終わり、二学期が始まった頃から、俺は進路を決めるよう先生から言われた。


「俺は……児童相談所の職員になりたいです」


先生との二者面談で、そう答えた。


児童相談所職員になりたい理由は、二つある。ひとつは当然、虐待だったりいじめだったり、理不尽で残酷な目に遭ってしまった子どもたちを、微力でも良いから支えになりたいからだ。


そしてもうひとつは、児童相談所が地方公務員だからだ。


地方公務員には高卒枠と大卒枠があり、俺が高校卒業してすぐに就職することが可能だ。そうすれば、結喜ちゃんを引き取る時期が早まる。そして働きながら通える大学に通い、心理学を学ぶ。資格がなくとも児童相談所職員にはなれるらしいが、資格があるとよりいいだろう。卒業してから大卒枠に切り替えることもできる。


それに何より、地方公務員ならば転勤がそこまで遠方にならない。採用されるのは県や市町なので、転勤があるとしてもあくまでその中だけだ。それなら、美結と結喜ちゃんのそばにいつもいられる。単身赴任で寂しい想いをさせることもない。


美結や柊さん、そして城谷さんに相談しながら決めた。これが今のところ、最善だと思う。


「じゃあ……一年浪人しなきゃね」


「え?」


城谷さんのその一言で、俺の平穏な日々はあっさり終わった。


なんと地方公務員は、9月に試験があるのだ。夏休み明けで、1ミリも勉強していない俺にはもう完全に無理だ。ユニフォームを着る前に試合終了していた。


「ろ、浪人ってことは……父さんから一年分の家賃を、また援助してもらわなきゃいけないってことか……?」


正社員として働くのが一年遅れるということは、そういうことだ。


俺は美結と共に、もう帰ることもないだろうと思われていた実家に行った。


そこで、むちゃくちゃ恥ずかしい想いをしながら、父さんに事情を洗いざらい話し、土下座した。


「ごめん!めちゃくちゃ自分勝手なんだけど……!あと一年だけ、家賃の援助をしてほしい!すんげーダサいことしてるのは分かってるんだけど……どうしてもそこに勤めたいんだ!」


「明……」


「借りた金は必ず返す!だから……」


父さんは最初びっくりしていたけど、「頭を上げなさい明」と言って、こう語った。


「美喜子さんの子ども……結喜ちゃんだったか?あの子をお前たちが引き取るんだろう?なら、そのための養育費もいる。家賃と一緒に、それも援助しよう」


「……!」


「心配するな。ほら……結喜ちゃんの実父の蛭田から、不倫の慰謝料を貰っているからな。それをお前たちに渡すだけだ。そこまで俺の懐は痛まないよ」


「……父さん」


「大人になったな、明。ここにはさぞ来にくかったろう。お前は意外と頑固だからな、一度家を出てたとなれば、俺から援助を受けるなんて、本当はしたくなかったはずだ。だけど……美結ちゃんや結喜ちゃんのために、恥ずかしい想いをしてでも俺へ頭を下げに来たのは、立派だよ」


「……………………」


「なに、俺へ頭を下げる必要なんかないさ。美結ちゃんたちを、大事にしてくれ。俺にはできなかったことだからな……」


そう言って、父さんは苦々しく笑った。







……それからの俺は、毎日勉強漬けの日を送ることになった。


公務員試験の出題範囲は、一般企業の就職試験で出される一般常識を問う試験よりも、数段レベルが高い。


「ちくしょー!中国の歴史とか知るかっつーの!分かるかこんなもん!」


愚痴を垂れまくりながら、手にペンタコを作る勢いで勉強をし続けた。過去問を解いては、間違ったところを何回も勉強し直した。


「お兄ちゃん、夜食におにぎりを握ったけど、食べる?」


「いるーーー!いるいる!おくれー!」


美結にいろいろと支えられながら、俺は死に物狂いで勉強した。今まで湯水とのことに気を取られすぎて、全然勉強してこなかったツケがここに来て払われることになった。


「遊んでたわけじゃねーのになー……。世知辛い世の中だよ」


「大丈夫だよお兄ちゃんなら!試験が終わったら、いっぱい遊ぼう?旅行とか行ったりしてみたいな」


「旅行いいな!じゃあ美結、行きたいところをピックアップしててくれ!それを頑張る糧にする!」


「ふふふ、うん!」


そうさ、自分たちのために勉強できるってことは、きっと幸せなことなんだろう。


今まで、美喜子さんから逃げるためだったり、湯水から身を守るためだったり、ずーっと何かと戦っているような毎日だった。自分のしたいことを叶えるために勉強をすることはできなかった。


それが今、ようやく……自分達の幸せのために、前を向けるようになった。それだけで十分かも知れない。


「よし!ご馳走様!ありがとな美結!また勉強始めるよ!」


「うん!」


俺は美結からもらったおにぎりを平らげて、また勉強机に向かった。


「えーと、ソクラテス、アリストテレス、アレクサンドロス……。んがーーーー!なーんでこの辺の時代の人間はどいつもこいつも名前似てるんだよーーー!流行りか!?流行りなのか!?このミーハーどもめ!」


分かるかこんなもーん!と、俺の絶叫が響く。その後ろで、美結が「お兄ちゃんがんばれー!」と叫ぶ。


そんな幸せな毎日の姿があった。







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