78.それからの事







……湯水は、一命を取り留めた。


入院生活を二週間余儀なくされたが、むしろ二週間で済んだのが幸運だったと言える。一歩間違えれば、刃は心臓に突き刺さり、即死だった可能性もあったという。


中々に悪運強い女だ、しぶとい。でもその悪運強い感じは、なんとなくあいつに似合う。


「ねえ、お兄ちゃん。これから湯水たちは……どうなるのかな?」


隣にならんで歩く美結が、俺にそう語りかける。


「そうだな……。まあまず、100%退学だよな。下手したら、少年院とかに入れられるかも知れない」


「……………………」


「これでようやく、何の気兼ねもなく外を歩けるな。あいつの影に怯えて暮らすことも、引きこもることもなくなる」


「……うん」


美結の顔はイマイチ晴れなかった。どこか切なそうに眼を伏せている。


「どうした?美結」


「え?」


「何か心残りか?」


「……………………」


美結が押し黙っている間に、俺たちは目的地についていた。


それは、俺たち渡辺家の墓だった。湯水の仲間たちに汚された落書きなどが、そのまま残っている。


「さーて美結、キレイにするか」


「うん」


俺と美結は腕を捲り、墓石に水をかけて、買ってきた洗剤をスポンジやぞうきんを使ってごしごし洗う。落書きや汚れを丁寧に落として、前よりも綺麗にするんだ。



かなかなかなかな…………



ひぐらしが鳴いている、午後の四時ごろ。だんだんと夏も終わりが近づき、日が落ちるのが早くなってきた。空が赤いわけじゃないが、もうそろそろお昼も終わるというような、そんな時間だった。


「ふー……暑いなあ」


腕で額の汗を拭うと、目の前にすっとスポーツドリンクのペットボトルが差し出された。


「どーぞお兄ちゃん」


「おー、サンキュー美結」


彼女のくれたそれを受け取り、口をつける。ああ、冷たくて気持ちがいい。喉から腹に伝わっているのが分かる。


「お兄ちゃん、私もちょうだい」


「うん」


俺は彼女へペットボトルを返した。美結が口をつけてそれを飲むと、少しニコッと笑っていた。


「なんだ?やけにご機嫌だな、美結」


「ん……間接キスだなーって思って」


「ははは、確かに」


「それで……その、ちょっと嬉しくなっちゃった」


「くーーーー!やっぱりおいどんの妹はすこぶるめんこいのお!おおきに!おおきに!」


「もう!方言ぐちゃぐちゃだよお兄ちゃん!」


美結がクスクスと笑うのを見て、俺も嬉しくなった。ああ、こういうやり取りも、だいぶ久しぶりだな。


俺たちはずっと、トラブル続きの毎日だった。家出をしたり、美喜子さんが亡くなったり、湯水と戦ったり、ほとんど安らげる時間なんてなかった。のびのびとこうして美結といられる日が、本当に幸せだ。


(……母さん)


墓石についた洗剤を水で洗いながら、俺は自分の母の姿を思い浮かべる。


(俺は…………なんとなく、あなたにずっと負い目を抱いていた気がします。病に苦しみ、若くして亡くなった母さんを差し置いて、自分が幸せになって良いんだろうかって、そんな風に……心のどこかで思っている節がありました。死に際にも会えず、大事な時にそばにいてあげられなかった自分を……ひどく、責めてしまうことがありました)


墓石に書かれていた落書きが、徐々に落ちていく。


(でも、そんな負い目は……もうここで捨てます。俺は、美結と幸せになる。だからどうか……美喜子さんとともに、見守っていてください)


太陽の光が水に反射して、墓石がキラキラと光る。その光の中で、微かに虹を見たような気がした。


「……っし!これでいいかな」


水を乾拭きのぞうきんでキレイに拭き取って、ようやく掃除が完了した。墓石はすっかり、元通り以上に綺麗になった。


「それじゃあ美結、拝んでから帰ろうか」


「うん」


俺と彼女は、並んで墓石の前に立ち、目を瞑って手を合わせた。夕暮れの涼しい風が、俺たちの間を吹き抜けていった。






……それから俺たちは、結喜ちゃんへ会いに行った。預かってくれている慈恵園へと訪問し、彼女のいるところへ案内してもらった。


「結喜ちゃーん!お姉ちゃんとお兄ちゃんだよー!」


ベビーベッドに寝かせられている結喜ちゃんを、職員の方が抱っこして、俺たちを紹介する。


彼女はきょとんとした顔で、俺と美結のことを見つめていた。生後2ヶ月……。まだまだ小さくて喋れもしないけど、こちらのことを目で追ったりしてくれるだけで、彼女の意思を感じて……なんだか嬉しくなる。


「あの……抱っこしてもいいですか?」


美結がそう尋ねると、職員の方は「もちろん!どうぞ~」と言って、そっと結喜ちゃんを美結へ預けた。恐る恐る、ぎこちない手つきで結喜ちゃんを抱っこする美結の姿は、お姉ちゃんというよりは若いママって感じだった。


「結喜……」


美結が彼女の顔を覗き込み、名を呼んでみる。すると、結喜ちゃんはにこ~っと、天使のような微笑みを浮かべた。


「あらー!結喜ちゃんご機嫌ねー!」


職員の方が声を上げる。


「結喜ちゃんは結構な人見知りで、苦手な人だとすぐ愚図っちゃうんですけど、お姉ちゃんのことは大好きみたいですね~」


それを聴いた美結は、心底嬉しそうな表情を浮かべた。若干照れ臭そうにもしてたけど、それもまた可愛かった。


「結喜…………私、あなたのお姉ちゃんだよ」


慈愛のこもった眼差しで、美結は結喜ちゃんを見つめている。


「……お兄ちゃんも、抱っこしてみる?」


「おお!」


俺は美結から彼女をそっと受け取り、自分の胸に抱き寄せた。


「やあ初めまして!俺は君のお兄ちゃんだぜ!ナイストゥミートゥー!」


彼女に向かって、俺は精一杯の変顔をしてみた。頬を膨らませたり、目を大きく見開いてみたり。しかし、結喜ちゃんは特にそれで笑うことはなく、きょとんとした顔で俺を見つめるばかりだった。


「ありゃ、しまったな。結喜ちゃんの笑いのお好みじゃなかったですか」


「ふふふ」


「しっかし!んー!ベイビーの香りって良いなあ。一生嗅いでられるよ」


結喜ちゃんの頭を、くんかくんかと嗅ぎ回すと、彼女はにこっと笑ってくれた。


「おー!そっかそっか!変顔よりこっちの方が面白いか!」


赤ちゃんが笑う瞬間って、どうしてこんなにも嬉しくなるんだろう。ずっと笑わせてあげたくなる。


「なあ結喜ちゃん、いつかさー、俺と美結が君を迎えに来るから、それまで待っててな」


そう言って語りかけると、また彼女は笑ってくれた。


もちろん、彼女はまだ生後2ヶ月だ、言葉を理解してくれてるわけではないと思う。だけど、それでもなんだか……彼女は俺たちを待っててくれてるような気がして、嬉しかった。



……慈恵園を出た頃には、もうだいぶ日も暮れて、空は綺麗な夕暮れのグラデーションを彩っていた。


「さて、美結!そろそろ家へ帰るかい?それとも、どこかでご飯食べてく?」


「……………………」


俺がそう声をかけるが、美結はじっと黙ってうつむいていた。


「……?どうかした美結?具合でも悪いか?どっかで休もうか?」


「ううん、そうじゃなくてね……?」


「………………?」


「……あの、お兄ちゃん」


美結はふいに顔を上げて、俺のことを見つめた。


「もう1ヵ所だけ、寄りたいところがあるんだけど……いい?」


「ん?おお、いいけど……それはどこだい?」


「……………………」


美結は少しだけ間を開けてから、こう答えた。


「湯水の……病院。お見舞いに行きたいの」













……私は、性懲りもなくまだ生きている。


とある病院の個室にあるベッドに寝かされて、点滴を打っている。お腹には包帯が巻かれていて、なんとなくその感触が分かる。


立花に刺された時は、もういよいよ終わりかなと思っていたから、こうして生きているとなると、若干肩透かしな気分になる。


「……………………」


病室って、本当にどこもかしこも白くてつまんない。壁もベッドもカーテンさえも白い。こんな場所で二週間も寝てなきゃいけないなんて、退屈すぎる。


「……はあ」


顔を左に向けると、そこには窓がある。夕暮れの赤い空が広がっていて、妙な寂寥感を覚える。


……これから私は、どうなるのだろう?まあまず間違いないのは、学校にはもう行けないでしょうね。そして……パパやママからも失望されて……見捨てられるかも知れない。


「……ふふ」


私は、自分で自分の発言に嗤った。


「もともと、見捨てられてるようなものじゃない」


……夕焼けの空に、黒々としたカラスが二匹飛んでいった。バサバサと羽ばたくその姿を、私はぼんやりと眺めていた。



からららら……



その時、この病室の引き戸が開かれる。そちらの方を見るため、今度は顔を右に切る。


「え?」


そこに立っていた者を見た瞬間、私は思わず声が漏れた。それは、平田 恵実だった。


「……………………」


平田は私が起きているのを理解すると、少しだけ頭を下げて、おどおどと部屋に入ってきた。


「……ひ、平田?」


まさかの人物が訪ねてきたので、さすがの私も呆気に取られてしまった。


平田は緊張した顔つきで、私のベッドの横までやって来た。その緊張が私にも伝播したのか、私も妙にそわそわする気持ちになる。


「…………な、何よ?平田」


「……………………」


「恨み言でも言いに来たの?死ねば良かったのにって」


「……別に、そんなつもりじゃない」


「じゃあ何よ?なんのために来たのよ?」


「……………………」


平田は顔をうつむかせて、「わかんない……」と、蚊の鳴くような小さい声で告げた。


「……ふん、だったら帰れば?自己満足的な同情ほど鬱陶しいものもないから」


私がトゲのありまくる言葉を平田にぶつけると、さすがの彼女もむっと顔をしかめた。


「……なんでそんな言い方するの」


「事実を言ったまでよ。文句ある?」


「……あなたって、本当に素直じゃない。いい加減そんなこと止めなよ。明さんや美結にも言われたじゃない」


「……………………」


「はあ……明さんと美結にお礼を言ってた時は、もっと素直だったのに」


「!?」


私は、あの瞬間のことを思い出して、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。


「うっさいわねーーー!あ、あんなの演技よ演技!」


「えー……?あの土壇場で?」


「土壇場でも演技できるのが私なの!平田みたいな凡人には、一生できない芸当でしょうけど!」


「ちょっ……!またそんな言い方!確かに私、凡人だけど……私だって一生懸命生きてるんだから、そんな言い方止めてよ!これなんか前も言った気がする!」


「もう忘れたわよ!そんな話!」


「いーや!絶対忘れてない!あなたあの時、私のことぶったもん!あれ、私に言い負かされたと思ってぶったんでしょ?ああいうのは絶対に、遺伝子に刻むレベルで根に持つタイプでしょ?あなたって!」


「くっ……!黙って聴いておけばこの女!なによ!アキラのニセ彼女だったクセに!」


「あなただって!明さんから盛大にフラれたクセに!何人もの見物人がいる中でハッキリと大嫌いて言われたクセに!」


私と平田は、目から火花でも出ているのかというほど、互いに睨みあった。


その時、また病室の戸が開かれた。私と平田はハッとして、同時に扉の方へと目を向けた。


「「!」」


私も平田も、その来訪者たちに驚いていた。それは、アキラとその妹……ミユだった。


「あれ?メグ?」


ミユが平田の存在に気がつき、「奇遇だね」と言ってそばに駆け寄った。


「メグもお見舞いに来たの?」


「え?ま、まあ……そんなとこ」


平田が彼女の問いかけに対して、ぎこちなく笑う。


「ふん、お見舞いねえ……。この私にそんなことしたって、何も返ってきやしないというのに」


「湯水、またそんなこと言って!不貞腐れてないでさ、もっと素直に喜びなよ!」


「うっさいわね!平田、あなたさっきから何なのよ!部外者のクセに!」


「部外者なもんか!あなたとあなたの部下に、SNS炎上させられて大迷惑を被った、めちゃくちゃ当事者ですけど!」


「まあまあ、メグちゃんも湯水も、そこまでにしようや」


アキラが止めに入ってきたので、私たちはピタッと、同時に話すのを止めた。


平田の顔を見ると、なんだか恥ずかしそうに頬を赤く染めている。全く……お互い、惚れた相手には弱いってことね。


「……どうだ?湯水。腹の具合は」


アキラにそう訊かれたので、私はちょっとすました顔で、「大したことないわ」と、そう答えてやった。


でも、内心……嬉しかった。もう二度と会えないとさえ思っていたアキラに、また会うことができた。大嫌いだって言われたけど、でも……こうして声をかけに来てくれたことが、私は……嬉しくて仕方なかった。


「……ねえ、湯水」


今度は、ミユの方から声をかけられた。そちらに視線を向けてみると、彼女は真剣な眼差しで……こう言った。


「ありがとう、助けてくれて」


……一瞬、何を言われているのか分からず、私はぽかんとしてしまった。そして、自分のお腹がズキッと痛んだ時、ようやくあの瞬間のことを思い出した。


「湯水にちゃんと……お礼を言わなきゃと思って、今日はここに来たの。あの時は庇ってくれて、ありがとう」


「……そう、義理堅いことね。でも言っておくけど、別にあなたを助けたかったわけじゃないから」


「そうなの?」


「そうよ」


私はぷいっと、彼女から顔を背けた。


「たぶん立花は、私があなたを殺したいことを知ってたのよ。それで、あそこに隠れて……機会を伺ってた。だって本来、私はあなたを殺して、そのせいでアキラから心底憎まれて、殺されるつもりだったんだから」


「……そっか」


「……………………」


「じゃあなおさら、どうして助けたの?庇わなければ、あなたの計画通りになっていたのに」


「……さあ、分からない」


「……………………」


「この一連の出来事で、私はイヤと言うほど学んだわ。人は思ったより、合理的じゃないってね」


「……そうだね」


……私は、背けていた視線を、もう一度戻した。アキラとミユが、並んでそこに立っている。


「お似合いよ、あなたたち」


私はそれだけを一言告げて、また視線を窓際の方へ背けた。


「「……………………」」


しばらくの間、病室の中は静かだった。夕焼けの赤い光が部屋の中に入ってきて、白い壁やカーテンを赤色に染めていた。


「……じゃあ、美結。そろそろ……」


「うん、お兄ちゃん」


二人の会話が、片耳にだけ届く。


「じゃあメグちゃん、俺たちはお先するよ」


「はい、また学校で」


「またねメグ」


「うん、またね美結」


私抜きの挨拶が交わされた後、二人が部屋の出口へと向かっていく足音が聞こえた。もう……アキラもミユも、出ていってしまうのね。



からららら……



戸が開かれる音がした。そして……。




「じゃあ、またな湯水」


「湯水、またね」




……と、二人から私に向かって告げられた。


私はなんだか、変な焦燥感が生まれた。彼らが……彼らがくれたその言葉に応えなきゃと思って、顔をまた二人の方へ向けた。


彼らは出口に立って、こちらを見ていた。


「……また、ね」


そう言って私がぎこちなく返すと、二人は少しだけ微笑を浮かべて、そのまま出ていった。


「……………………」


その様子を隣で見ていた平田が、私に向かって問いかける。


「あの二人が、優しい人たちで良かったね、湯水」


「……………………」


「普通、こんなに優しくしてくれないよ。絶対に……」


「わかってるわよ、平田。そんなこと、言われなくてもわかってる」


「……………………」


……ズキズキと痛むお腹に、手を置いた。


「……私は」


誰に言うつもりでもない、小さな独り言が……私の口から飛び出した。


「私は…………今まで、生きてて良かったと思ったことは、一度もなかった」


「……………………」


「でも…………でも、今……ちょっとだけ、そう思えたわ」


「……そっか」


平田は囁くように小さく、ひそめるような声で「良かったね」と言った。


窓の外に見える夕焼けが、びっくりするくらいに綺麗だった。視界の先がじわっと滲んで……鮮明ではなかったけれど、でも……胸に焼き付くくらいに、美しかった。












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