72.話をしようぜ






「……………………」


虚無感と虚脱感、そして、罪悪感……。


今の俺に襲いかかっている感情は、その三つだ。


「…………ふう………」


湯水は高揚した笑みを浮かべて、俺の腹の上に座って、こちらを見下ろしている。


俺も湯水も、何も着ていなかった。湯水に全て剥ぎ取られて、ベッドの脇に放り投げられている。


ベッドのそばにあるライトスタンドが、ぼんやりと橙色に光っている。その光が、俺と彼女の裸を仄かに暗闇の中から浮かび上がらせている。


ぽたりと、彼女の顎先から汗が落ち、それが俺の胸へと着く。彼女の全身は汗の光がキラキラと光っていて、腹が立つほどに綺麗だった。


「ふふふ……」


湯水が俺の胸を、指先でなぞるようにして触れていく。


胸から首筋にかけて、奴がつけたおびただしいほどのキスマークと、歯の後がびっしりついている。


「……………………」


俺は、乾いた唇を舌で濡らした。微かに血の味がした。


「……もう満足しただろ、湯水。いい加減どいてくれ」


「あら、何を言ってるのアキラ?まだ“八回”しかシてないじゃない。このくらいでヘバらないでよね」


「……………………」


「ふふふ、お腹がじんじんする。妊娠しちゃうかも知れないわね」


「……………………」


「ねえ、アキラ。今どんな気持ち?大嫌いな女に犯されるのは、最低で、気持ち悪くて、殺したくなる?」


「……そうだな、心底、お前のことを軽蔑したくなるよ」


「ふふふふ……」


湯水は、前髪を左耳にかけた。彼女の鋭い眼差しは、交尾した後にオスを殺す蜘蛛のことを思い出させた。


むせ返るほどにキツイ汗の臭いで、思考回路がぼやけてくる。今起きていることが、まるで他人事のように思えた。現実に実際起きているはずなのに、どこか心はここになくて……映画のワンシーンを撮影しているかのような、そんな気持ちにさせられた。


「好きよ、アキラ」


湯水が顔を近づけて、俺にキスをしてきた。一体、これで何回目だろう?途中で数えるのも面倒になって、もう覚えていない。


(…………美結………………)


ああ、湯水に痛めつけられる度に、君のことが頭によぎるよ。


それは、俺が汚れてしまった罪悪感だったり、君を恋しく思う切望だったり、いろいろだけれど……。


「またあの女のことを思い出してるのね?アキラ」


……湯水が俺の眼の奥を覗き込むようにして、そう告げる。俺はごくりと唾を飲んで、眼を閉じる。


「今は、私を憎むことに集中してよ。あの女のことは、今はいいでしょう?」


「……………………」


「ふう……ま、仕方ないわね。さっさとあの女の居所をつきとめなきゃ。拘束して、何人もの男たちに襲わせて……泣き叫ぶ様を、いつかあなたに見せてあげるから、楽しみにしてて?」


「………それだけは、許さない。もしそんなことをしたら……絶対にお前を殺す」


「本当!?それは嬉しいわ。ぜひお願いしたいところね」


「……………………」


……この堂々巡りなやり取りも、どれだけ繰り返されたことか。もう辟易し尽くしているし、この女の異常さに憤りばかりが募って、いよいよ頭がおかしくなりそうだ。


「さて、アキラ。そろそろ続き、始めましょう」


そう言って、湯水は俺の胸にキスをした。


「……………………」


もう、いっそ殺してしまうか?この女。


美結への被害が及ぶ前に、この女を殺してしまえば……美結を守ることができる。


そうさ、正当防衛だよ。この女がイカれてるから、殺してやった。この女も、俺に殺されることを望んでる。迷うことなくWin-Winさ……。


「……………………」


……だが、俺はそれでも……「殺してやる」と言えなかった。


この女に、何か同情でもしているんだろうか?俺にここまで執着してしまうほど、孤独な女だったということに……俺は、奇妙な憐憫を抱いている。


可哀想な女だという思いを……消すことができない。


(……客観的に考えると、俺はもしかしら……ストックホルム症候群なのかもしれない)


ストックホルム症候群とは、自分に危害を加えようとしている人間に対して親密な気持ちを抱いてしまう、パニック障害の一種。誘拐された人が、誘拐犯に恋をしてしまったりするのも、このストックホルム症候群が原因と言われる。


自分の命を守るために、危害を加えようとする者にすり寄って、生存率をあげようとする……わりと合理的な、生命本能のなせる技なのだろう。


「……なあ、湯水」


俺は暗い天井を仰ぎながら、やつに向かって話しかけた。


「なに?アキラ」


湯水が俺の首筋を舐めながら、そう答える。


「お前は……どうして死にたいんだ?」


「別に、死にたいわけじゃないわ。ただあなたに殺されたいだけ」


「……俺への憎悪を一心に受けたいと、そういうことか」


「そう、あなたの憎悪を全部、私にちょうだい?」


そう言って、湯水は肩と首のつながるところに、甘く噛みついた。


ちくっと刺す皮膚の痛みに、思わず顔をしかめる。


「……なあ、湯水。俺と話をしようぜ」


俺がそう話しかけると、湯水は噛むのを止めた。そして、噛み跡にキスをして、「話って?」と、そう訊き返す。


「……俺とお前は、本当に憎しみでしか繋がれないのだろうか?もっと上手に繋がることができるんじゃないか?」


「……………………」


「お前だって、俺から憎まれるために、こんな危険なことを犯す必要なんて、非合理的だと思っているだろ?」


「……ふふふ、なるほどね」


湯水は身体を起こして、俺の顔を覗き込んだ。鼻先が触れ合うほどの距離から、彼女は俺を見つめている。


「守りたいのね、渡辺 美結のことを」


「……………………」


「私と憎悪以外で繋がる方法を示して、私がそれに合意すれば、渡辺 美結への被害を無くせると……そう思っているのね。あなたのことを怒らせて、私を憎ませる必要がなくなるから」


「……ちぇ、バレてたか」


「舐めてもらっちゃ困るわよ、アキラ。私は天才なんだから」


「……………………」


「先に言っておくけど、たとえあなたと憎悪以外で繋がれるとわかったとしても、あの女をつけ狙うことは止めないから。あの女は、あなたの心を奪った。ナイフでメッタ刺しにして殺したいくらい、罪深い女よ」


……時間が経つにつれて、湯水の俺への想いがどんどん強くなっている気がする。湯水が美結の名を語る度に、隠れた怒気が口から漏れ出ているように感じる。


(俺へ嫌われたいだけなら、まだ美結を助ける手だてもあったが……単純に美結への嫉妬なのだとしたら、もう……止めるのは難しいかも知れない。美結、なんとか……ずっと隠れていてくれ…………)


湯水の視線を真っ直ぐに受けながら、俺は美結の身を案じていた。


「アキラ、私はね……悔しくて悔しくて仕方ないのよ」


「……………………」


「渡辺 美結とあなたが出会う前に、私があなたに出会えていたら……きっと、きっと、私は絶対に幸せだった」


「!」


「あなたと二回したデートを思い出す度に、胸がきゅっと苦しくなる。あんなに楽しかったことなんて、今まで一度だってなかった。私があなたとのデートを、頭の中で何回反芻したと思う?最初に待ち合わせした時から別れ際の挨拶まで、細かく細かく、味の薄れたガムを噛むように、楽しかった記憶を身に染みさせていったのよ」


「……………………」


「ああ、アキラ。いっそのこと、あなたと出会いたくなんかなかったわ。出会わずに居られたら、こんなに……こんなに苦しい想いをせずに済んだのに」


……眉をひそめて、己の本心を語る湯水は……本当に寂しそうだった。


あんなデート二回を、何度も思い出していたなんて……知らなかった。そんなにお前は……楽しかったのか。


「……………………」


ちくしょう、まただ。また俺は湯水に同情してる。


この八方美人め、いい加減にしろ。この女は、俺のことをレ◯プして、あまつさえ美結のことを殺したいと言った女だぞ。それなのに……。


「……湯水」


俺は……自分の想いとはまるで真逆の言葉を、いつの間にか口走っていた。


「デートを、しよう」


「……え?」


「あと二回、デートをする約束があっただろ。それを……しよう」


「……ふふふ、バカなこと言わないでよ。あなたを外に出せるわけないじゃない。隙を見て逃げ出して……私を警察に通報する。その魂胆が見え見えよ」


「いや、そんなことしないよ。きちんとデートする。約束した回数以上はできないが……約束の範囲内でなら、許容する」


「なにを言って……」


「俺のことが、信じられないか?」


「……………………」


彼女は、俺から眼を逸らした。かなり狼狽えているのだろう、視線が泳いでいるし、瞬きも多い。


「なあ湯水、なんでお前は……俺を好きになったんだ?」


「……なんでって……」


「今さら恥ずかしがるなよ。ゆっくりでいいから、話してみろよ」


「……………………」


湯水は、口をへの字にして閉じた。頬を赤らめて、チラチラと俺を見る。俺をガッツリ犯したくせに、なんでこういうところはウブなんだか……。本当に変な女だ。


「……上手く言えないけど、いい?」


「いいよ、言ってみな」


「………………あなたの前だと、自然体でいられるから。本当の私をさらけ出したら、それに対して……全力で答えてくれる気がするから」


「全力で……か」


「私の嫌なところは、嫌だと言ってくれる。本当に本心からそう言ってくれるから、なぜか……安心するの」


「なるほどな。じゃあ、“本当の私”ってなんだ?」


「……………………」


「お前……まだ俺に隠してるんじゃないか?」


「……………………」


「それをきちんと、俺に見せてみろよ。俺から嫌われようとしてるのは……本当の自分を見せることから逃げてるからじゃないか?」


「!」


湯水の顔が強張った。図星だったようだな。


……なぜ、俺はこんなことを口走っているのだろう?頭で考えるより先に、言葉が喉を通って出てきてるみたいだ。


「……………………」


湯水は、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。


その瞳には、恐れと迷い……そして微かな切望が、込められているような気がした。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る