52.困惑、そして沈黙の夜



……教卓の前でごちゃごちゃと授業をする教師の言葉など少しも聞かずに、私は窓の外を眺めていた。


アキラとのデートから、既に二週間近くが経っていた。


6月に入り、鬱陶しい梅雨が訪れた。しとしと降る雨のせいで、教室全体が蒸れている。


「……………………」


あの日以来、私はなぜか、アキラと会うことが怖くなってしまった。今までそんな気持ちになったことなど、一度たりともなかったのに。


廊下ですれ違っても、眼を合わすことができず、そのまま無言で終わるだけ。こんなのってある?


この私が……湯水 舞が、男を前にして、いそいそと縮こまってしまうなんて。


「……それじゃあ、次のところを~湯水さん!読んでくれる?」


アキラのことが、私はもう……よく分からない。嫌いだと言っているのに、私を水族館へ誘ってくれたり、体調を気にしたり……。


あのアキラに限って、嫌いだと言う言葉が嘘だとは思えない。本心から絶対にそう言っているんだと、感覚的にそう理解できる。でも、だからこそ分からない。


「湯水さん?ちょっと?」


でも、アキラのこともだけど、自分の気持ちもよく分からない。何をどうしたいのか、意味が分からなくてぐちゃぐちゃする。自分のことすら把握できていないなんて、腹が立って仕方ない。


「湯水さん!」


「え?あ、はい」


教師から呼ばれてたことに気づいた私は、思わず席を立ってしまった。


「大丈夫湯水さん?ぼーっとしてたようだけど」


「……すみません」


「次のところ、読んでくれる?『彼の瞳は~』から先のところ」


「はい……」


私は着席の後、教科書を持って、教師から言われた箇所を読み進めた。


「……『彼の瞳は真っ直ぐに私を見つめる。その瞳から思わず逃げたくなったのは、私があんまりに臆病なせいだからです。』」


何よ、これ……前の授業の時に読んだところと、全く一緒じゃない。なんでこうも、アホな教師は非生産的なことをさせるのかしら。何回も同じことさせる授業なんて、この世から滅びてしまえ。


私は今、アキラのことで忙しいのよ。私の時間を取らないでよ。


「『私には何も愛される理由はない。愛される価値のある人間ではない。けれども、彼は私に好意を向けている。そんなことあっていいのだろうか。』」


…………。


あれ、こんな文章だったかしら?


前に読んだ時と、まるで印象が違うように思える。前は、どこにでもある三文小説だって思ってたのに。


「『私は彼に言った。なぜ私なんかを愛するの?すると彼は答えた。愛することに理由はないさ』」


……この文章を読んでいると、不思議なことに、登場人物がアキラと私で想像させられる。境遇はまるで違うはずなのに、なぜだか妙にしっくりきてしまう。


アキラは……私のこと、嫌いなはず。私だって、アキラのこと嫌いなはず。


……いや、分からない。私は本当に、アキラのこと嫌いなの?アキラは本当に、私のこと嫌いなの?


分からない。分からない。分からない。


でも、ひとつだけ言えるのは……アキラは、私が本音を話せる、ただ一人の男だってこと。


「『私は困惑した。なぜ愛されるのか分からないのに、愛をむけられることに恐怖した。止めて!私を愛さないで!』」


アキラ……私………………。


「『私を、愛で支配しないで!そう叫んでから、私は逃げ出した』」


どうしたらいいの?










……私とお兄ちゃんは、二人でベッドに仰向けになって寝転がりながら、夜の暗い天井を見上げていた

月明かりがカーテンの隙間から漏れて、一筋の光が暗い天井を斜めに切っている。


私もお兄ちゃんも、どちらも服をきていない。素肌がそのまま触れ合う状態で、上布団の中に胸まで潜っている。私の頭の下にはお兄ちゃんの左胸があって、少し頭を傾けると、こつんとお兄ちゃんの顔にぶつかる。


「……………………」


しんとした静粛な空気が、部屋全体を包んでいた。世界中の誰も彼もが、私たちのために喋るのを止めているかのような、そんな静けさだった。


「……お兄ちゃん」


そんな中、私がお兄ちゃんに声をかけた。それは囁くように小さく、静かな声だった。お兄ちゃんは天井を見上げたまま、「どうした?」と、私と同じくらい小さな声で返事をした。


「お兄ちゃん、辛くない?」


「辛いって……なにが?」


「湯水とのこと」


「……?あいつが……なんだって?」


「その……湯水の恋心を利用してること、やっぱり……辛い?」


「……別に、なにも辛くなんかないさ。美結のいじめを認めさせるためなんだ、これくらいへっちゃらだっ……」


「本当に?」


「……………………」


私は、顔を斜め上に傾けて、お兄ちゃんの横顔を見た。お兄ちゃんは寂しそうな瞳で、天井を黙って見上げているばかりだった。


「お兄ちゃん、最近なんだか……とっても苦しそうにしてる。ご飯食べてる時も、一緒にお出かけしてる時も、何かじっと考え込んでる。私、それを見てね?もしかしたら……湯水のことで、ずっと悩んでるんじゃないか?って思って……」


「……………………」


私がさらに問いかけると、お兄ちゃんは深く息を吸った。お兄ちゃんの胸が膨らんで、私の頭も少し持ち上がる。


「……美結、ごめんな。頼りないお兄ちゃんで」


「え?」


「上手くできない俺で……ごめんな」


お兄ちゃんは未だに、物悲しい瞳で天井をじっと見続けている。私もお兄ちゃんと同じ目線になりたくて、顔を真正面へ向き直し、天井を見上げた。


「確かに、美結の言うとおり……罪悪感を抱いてしまってる節はある。あんな奴のことなんて少しも気をつかう必要なんかないのに……俺の彼女がメグちゃんであると嘘をつき、その上であいつが俺に好意を寄せてくることが……どうしようもなく、申し訳ないと思う時がある」


「……………………」


「前回のデートの時、俺を……信頼しているようなことを言ってきただろ?」




『兄貴さんってね?中学時代に三股してたり、セフレをたくさんつくってたり、とにかく女癖が悪いみたいで……』


『アキラはそんな人じゃない!』




「……あれを聴いてしまって以来、どうも俺は……湯水に対して後ろめたい気持ちを抱えてしまうんだ」


「……………………」


「もちろん、湯水自身が他人に対してたくさん嘘をついてて、今回湯水がこんな風にされることも、自業自得だと言って割り切ることが可能なはずなんだ。でも、心が理屈に追いついてこない」


「…………ごめんね、お兄ちゃん」


「……?なんで美結が謝るんだ?」


「いや、私のせいで……辛い想いさせちゃってるから」


「……バカ、いいんだよそんなこと。君が何も気にすることじゃない」


お兄ちゃんの左手が私の肩を掴み、ぎゅっと抱き寄せた。


「悪いのは俺だ、俺が……」


「……………………」


「半端な覚悟で、半端な気持ちでいるせいなんだ」


「半端な……気持ち?」


「美結のためなら、なんだってする。そういう覚悟ができているはずだったのに……見てよこのザマ……」


「……………………」


「つくづく自分に嫌気がさすよ。柊さんやメグちゃん、そして城谷さんや藤田くんたち……。いろんな人を巻き込んでおきながら、湯水に対して同情なんて……」


「……でも、それはお兄ちゃんが優しいからだと思う。みんなに優しい気持ちがあるから、湯水であっても、後ろめたくなっちゃう。私はそれが……とっても、お兄ちゃんらしいなって思うよ?」


「……………………」


私がそう言うと、お兄ちゃんは黙ってしまった。良くない答えだったろうか?


「ごめんな、美結」


「え?」


「気を使わせて……ごめんな」


「そんな……いいのに。そんなところまで気にしないで?ね?」


「……………………」


お兄ちゃんは、さらに私のことをぎゅっと抱き締めて……おでこにキスをした。


私はそのお返しに……お兄ちゃんの左胸に、キスをした。


「「……………………」」


私たちは、またしばらく無言になった。寄り添いあって天井を見つめて、その沈黙を聴いていた。


今、果たして何時なのだろう?感覚的には、おそらく夜中の一時とかだと思う。窓の外からも音はないし、隣の部屋の人の音もない。草木も眠る丑三つ時なんて言葉があるけれど、まさしくその通りだなと思った。


「……俺さ」


その沈黙を破ったのは、お兄ちゃんだった。


「とりあえず、このままあと二回……あいつと、デートをしてみる」


「……うん」


「その後……その後は…………」


「……ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「私、湯水に会うよ」


「え?」


私がお兄ちゃんに顔を向けると、お兄ちゃんの方もこちらを観ていた。心配そうに眉をひそめているのが、暗闇の中でもはっきりと見えた。


「最後のデートまで終わったら、私とお兄ちゃんのことを、明かしてほしい。そして……私が、湯水の前に出る」


「…………何をするの?」


「……分からない。でも、私が出ないといけない気がする。みんなが勇気を持って湯水と接してるのに、当事者の私が……何もしないなんて……」


「……………………」


お兄ちゃんはぐっと、真一文字に口をつぐんだ。そして、私の頭を左手で撫でながら、眼を細めた。


「……無理しなくていいんだよ?美結。俺たちはみんな、美結を守るためにやってるんだ。だから……」


「……………………」


だけど、私の顔をじっと見つめていたお兄ちゃんは、そこで一度言葉を止めた。たぶん……私の気持ちを汲み取ってくれたんだと思う。だから次の言葉は、こんな風に繋げられた。


「……でも、まあ、そうだな。今度柊さんたちに相談してみよう。みんなでこれからどうするか……考えてみようか」


「うん……」


……私は、お兄ちゃんのことがたまらなく愛おしくなって……眼を瞑り、頭をお兄ちゃんに傾けた。お兄ちゃんの頬が、私の髪に触れるのが分かる。


「……お兄ちゃん」


「なんだい?」


「大好き」


「……………………」


「愛してる……」


私の眼から、ふいに涙がこぼれた。なぜなのか分からない。それは、悲しみだったり苦しみだったり……あるいは、喜びだったり愛だったり……。分からない、とにかくいろいろな感情が、その涙の粒に込められている気がした。


「お兄ちゃん、私と一緒に、幸せになろうね」


「……………………」


お兄ちゃんが、自分の頬を私の頭にすり寄せながら、「そうだな」と、小さく呟いた。その声は、少しだけ震えているように思えた。


「二人で一緒に、ここまで来たんだもんな。きっと幸せになれるさ」


「うん……」


「ずっと……そばにいるよ。美結」


「うん、私も……お兄ちゃんのそばにいる。ずっとずっと、一緒にいる」


「うん」


……私たちは、その言葉を最後に、二人とも眠りについた。


静かな夜は、さらに静かに…………ひとつの物音も囁きもないまま、夜はふけていった。






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