49.VS湯水(part9)
……とある日の夜。私とお兄ちゃんの部屋に、柊さんが訪ねに来てくれた。単純に様子を見に来てくれたのと、お兄ちゃんから湯水の詳細を聴くためだった。
座布団を敷いて、各人それぞれその上に座り、四角いテーブルを中心に語り合う。みんなの前には透明なコップに入れられた麦茶があり、柊さんはそれを一瞬で飲み干した。
「へー、いいですねえ湯水。いかにも湯水って感じじゃないですか」
お兄ちゃんの話を聞いた柊さんが、やけに嬉しそうに笑っている。最近の柊さんは、なぜかこんな感じでご機嫌だ。
柊さんは、正座をしながらぴしっと背筋を伸ばしている。ちょっと失礼かしれないもだけど、スーツがよれよれで髪もボサボサで、そういう振る舞いも無頓着なのかな?って思っていたけど、意外とピシッとされてる人なんだなあ。
なんだかその姿を見てると、私も脚を崩しちゃいけない気がして、正座に座り直した。
「明氏に振り向いてもらいたいがために、髪型と色を変える……。実に合理的だ。いや、中々面白い」
「お、面白いですかねえ……?」
お兄ちゃんが苦笑していると、柊さんは顔色こそ変えないものの、やけに弾んだ口調で「ええ、作戦の効果は期待以上かもしれません」と、そうお兄ちゃんに答えた。
「こんなにも早く彼女の素顔が表に出てくるとは思いませんでした。下手すると、このまま明氏の沼にハマるかも知れない」
「ぬ、沼って……」
「明氏、将来はカウンセラーか学校の先生で悩んでいると聞きましたが……これに加えて、ホストを目指してみるのもいかがですか?」
「じょ、冗談よしてくださいよ!俺はそんなの柄じゃないですって!」
お兄ちゃんが慌てて否定する。そして、目の前にある麦茶に少し口をつけて、私の方に目をやった。
「俺としては、作戦のためとは言え、美結に余計な心配をかけちまうことが気がかりで……」
「お兄ちゃん……」
「俺さ、あと残り三回……湯水とデートすることになるんだけど……本当にいいか?美結が嫌がるようなら、湯水にちゃんと断わるから」
「ううん、気にしないで?変に断わるとせっかくの作戦も白紙になっちゃうし、メグにも被害が及んじゃうかも知れない……。私のことは大丈夫だから」
「むーん……」
「……でも、あの……もし、全部片付いて、一段落することができたら……湯水とデートに行った場所に、私も連れて行ってね?」
「湯水と同じ場所に?」
「うん。お兄ちゃんの思い出を……私で上書きしたいの」
……柊さんの前ってこともあるけど、なんだかこの台詞は……私、ちょっと恥ずかしかった。でもお兄ちゃんは物凄く嬉しそうに顔を目を細めて、「うーん!美結は可愛いなあ」と言いながら、私の頭を撫でてくれた。
「そうだな、必ず行こう!約束だ!」
「うん!」
湯水との件がいつ終わるのかは分からないけど……でもいつか、私もお兄ちゃんも、本当に二人で自由になるんだ。
私たち兄妹のやり取りを、口許にうっすら微笑みをたたえながら眺めていた柊さんが、「あ、そうだ」と一言呟いて、胸ポケットからチケットを“四枚”取り出した。
「明氏、今度はこちらから湯水をデートに誘ってみてください」
柊さんから渡されたチケットは、水族館の割引チケットだった。
「こっちから湯水を……ですか?」
お兄ちゃんがそう訊くと、柊さんは頷く。
「デートに誘われる……ということは、少なくとも好感は上がっているんだと、湯水は考えます。本来、湯水が勝手に言い出したゲームなのに、そのゲームに明氏が乗り気なムードを見せるということは……」
「な、なるほど。確かにそれは嬉しいかも」
「ええ、そうなれば、どんどん明氏が気になり出す。より彼女を沼らせられます」
「……あの、柊さん」
「どうしました美結氏?」
「湯水をデートに誘うのは分かりました。でも、なぜ四枚なんです?」
「そう、ここが次のデートのポイントです」
「ポイント……?」
柊さんは私とお兄ちゃんを交互に見ながら、作戦の詳細を話してくれた。
「水族館ですって?」
放課後、私はアキラの方から声をかけられて、例の保健室にて密会をしている。
アキラから渡されたのは、水族館の割引チケット。二回目のデートの約束を、早速彼の方から結びにきたのだ。
「友だちから譲り受けたチケットだ。湯水、お前水族館は平気か?」
「ええ、もちろん。何よアキラ、なんだかんだ……私とのデートに乗り気なんじゃない」
「別に……さっさと回数を消化したいだけだ」
「ふ~ん、そうかしらね~?」
いや、そんなことないはず。だって、譲り受けたチケットを平田ではなく私に使う辺り、どう考えても私への好感度が上がっているとしか思えない。
なぜなら、本当に回数を消化したいだけなら、適当にその辺をぶらついて、ごはん食べて『はい一回分終わり』ってこともできる。わざわざ水族館なんてところに連れていくはずがない。嫌いな人間にそこまでの労力をかけるわけない。
「アキラも素直になってほしいものね~。もう私のこと、気になってるくせに」
「……なあ湯水、訊こうと思いつつ、ちょっと訊きそびれてたことがあるんだが、なんでいきなり……俺の呼び方を『渡辺』から『アキラ』に変えたんだ?」
「いいじゃない、『渡辺』なんて他人行儀すぎるもの。なんならあなただって、特別に『マイ』って呼んでもいいのよ?」
「生憎だが、俺は親しい仲の人としか名前で呼びあいたくない主義でね」
「そんなの私だってそうよ。有象無象の凡人なんかに、私の名前を馴れ馴れしく呼んでもらいたくなんかないわ」
「……なんだ、ずいぶんと俺を気に入っているみたいだな」
「少なくとも、あなたは有象無象とは違うわ。だからこそ、ほしいんだもの」
「……そうかい」
アキラの反応は、相変わらず素っ気ない。だけど、私はそれでも良かった。
水族館……行くのはいつ振りだろうか?小学生の頃に家族と行ったような、そんな朧気な記憶しかない。その記憶が、これから新たな思い出として更新されるのね。
「さて、じゃあ二回目の勝負はいつにしようかしらね?」
アキラから貰ったチケットを財布に入れて、それを鞄にしまう。
「あー、湯水、今度の土曜日は空いてるか?」
「なによ、やけに早いじゃない」
「何か予定あったか?」
「そうね、澪や喜楽里……まあ、中学時代の知人と会う予定があったけど、そっちはキャンセルするわ」
「良かったのか?」
「別に、大した用事じゃないもの。それより、今度の土曜日ね!準備しておくわ」
「お前、友だち付き合いは大事にしとけよ。そういうの地味に恨まれるぜ?」
「いいのよ!あなたにお節介言われるほど私もバカじゃないから!それに……彼女たちは、別に友だちじゃないもの」
「……………………」
アキラは少し悲しそうな目をして、私を見ていた。でも、それはほんの一瞬だけ。すぐにいつもの素っ気ない態度に変わって、「わかった」と一言呟いた。
「まあ、土曜日にしてもらえるんなら、俺もありがたいがね」
「ふふふ、あなたも早くデートしたいのでしょう?」
「……いや、実はこのチケットな、条件があるんだ」
「え?条件?」
アキラは自分の持っていたチケットを、私に手渡した。そして、その裏面を見るよう指示してきた。
「書いてあるだろ?『学生は四名様以上で半額!』って」
「……ええ、そうね。書いてあるわ」
「そんでその隣に、『5/23(土)まで有効』ってあるだろ?」
「ええ、確かに」
「……と、いうわけでさ、チケットにはそもそも有効期限があって、それまでに使わなきゃもったいないわけ」
「……そうね、それは確かに。でも、これ四人で使えって書いてあるわよ?残りの二人はどうするのよ?」
「俺の知り合いに、カップルがいてな。彼らを呼ぼうと思ってる」
「……………………」
「つーわけで、形としてはダブルデートみたいな感じになる」
「……あー、ふーん。そうなの」
「別に構わないだろ?彼らには俺たちの勝負云々は教えてないし、俺たちも、単なる勝負としてのデートだ。二人きりじゃダメなんてわけでもないだろ?本当の恋人でもあるまいし」
「………………まあ、そうね。別にダメじゃないわ」
……あれ?なんか、モヤモヤする。別にダメじゃないわよ。ただの勝負なんだから。でも、そうね……いや、だけど……。
「……でも、なんていうか、あれね。ちょっと邪魔がいるのはいただけないわね」
「邪魔?」
「わ、私たちの勝負に邪魔が入っちゃうのは、ちょっとつまらないんじゃない?半額にならなくてもいいから、別々に行動する方が良いように思うのだけれど?」
「でも、半額って結構でかいぜ?俺たちも学生だ、お金にはピーピーしてるもんだし、安上がりな方が得だろ?湯水、合理的なお前ならそう考えると思ったんだがな」
「も、もちろん、半額がいいに越したことはないわよ。ただ、勝負に集中しにくくなって、興が削がれるのが嫌だってだけよ」
「そうか。弱ったなあ……」
「いや、いいのよアキラ?私はダブルデートでも構わない。ちょっとだけ、状況が特殊で面食らっただけよ。私があなたを惚れさせるために尽力することは、どっちにしろ変わらないんだもの」
「わかった。急に無理を言って悪かったな。それじゃあ、土曜日に」
「え、ええ……土曜日に」
そう言って、私たちは別れた。
「……………………」
……帰り道、私はアキラの心境がどういうものか、いろいろと予測してみた。
平田にではなく私にチケットをくれるってことは、少なくとも……私は気に入られ始めてるはず。
ただ……ダブルデートか。アキラとの会話を他の二人に聞かれるのは、シャクに触る。なるべく二人のいない場所で話すか、あるいは賄賂や脅しを使って二人を退かすか……。
「……いや、ちょっと待って」
私はその場に立ち止まった。そして、思い付く限りの予測を組み立てていく。
アキラはまさか……私と二人だけにならないようにしている?そのために……あのチケットを受け取った?
二人きりになれないから、本命の平田ではなく、『二人きりじゃなくても構わない』私と行こうと、そういう魂胆?
ダメ、根拠が薄くて宛にならない。こんなの、予測というより妄想よ。アキラは平田ではなく私にチケットをくれた。これは事実。なら、それだけを見ればいいじゃない。
「……でも、やっぱり……気になる」
私と二人でいるのは嫌だから、ダブルデートの誘いにのって、私との勝負を一回消化しようと……そういうこと?
……いや、何言ってるのよ。アキラは私のことが嫌いだって、前々から言ってるじゃない。だったら、別にアキラがそんな風に考えてようが、何も問題ないわ。私は少しも気にせず、あいつを惚れさせればいいだけ。今が0点でも、いつか100点になれば……。
「………………ねえアキラ、いつかは100点を……私にちょうだい」
夕暮れの日に当てられて、私の影は長く伸びていた。
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