44.晴れた日の門出と嵐の予感


……それは、5月の晴れた日だった。俺と美結は、美結の高校から近いところのマンションへと引っ越すことにした。引っ越し代や月々の家賃は、父さんが出してくれる。


当初は俺の高校の近くにするつもりだったが、湯水が俺に目をつけていることもあり、美結と湯水の接触を避けるためにも、美結の高校の近くがベストだという結論に至った。


美結としては、「私は日頃通学しなくていい通信制なのに、なんだか申し訳ない」という風なことを言っていたが、湯水のことを考えるとこの方法がいいだろう。


引っ越し先は『泉ヶ丘ハイツ』という4階建てのマンションで、俺たちの部屋はその303号室だ。


玄関を開けると、真っ直ぐに廊下がのびており、右手側にトイレとお風呂があり、そこから少し先に行くと左手側にキッチンがある。廊下を抜けるとフローリングのリビングが広く構えられていて、その先にはバルコニーがある。リビングを右手に曲がると部屋が二つあり、そこが寝室候補となる。


「美結はどっちの部屋がいい?」


俺がそう尋ねると、彼女は上目遣いをして「一緒のお部屋で寝るのはダメ……?」と聞き返した……なんてやり取りも行われた。


結局彼女の要望通り、大きなベッドをひとつ買って、同じ寝室で寝ることにした。今までも一緒に寝ることが多かったが、とうとう部屋が統一されてしまい、なんだか照れ臭かった。空いてしまったもうひとつの部屋は、客間兼物置として使うことにした。


「そっか……こんなもんなんだな」


俺たちの荷物を部屋に入れてみても、埋まるのは寝室だけで、リビングはがらんとしていた。ぽつんと置いてあるのは、床に座るタイプの背の低いテーブルだけ。そりゃそうだ、ソファやテレビなんかは父さんのものだから、俺たちが持ってこれるわけではないんだ。


「父さんに買ってと言えば買ってもらえるんだろうけど……ちょっと忍びないな」


「私たちでお金を貯めて、好きな家具を買おう?」


「そうだな、そうするか」


その後俺たちは、両隣に住む方々へ、手土産の菓子折りを持って挨拶した。302号室の鈴木さん(高齢のご夫婦二人暮らし)と、304号室の山口さん(四人家族)。どちらも気さくな方々だった。


新しい環境へと移る俺たちだが、ここにはおそらく長居しないだろう。俺が高校卒業したら、大学か……あるいは就職をするからだ。そうなると、その大学や職場に近いところへまた引っ越すことになる。なのでつかの間の家ということになるが……それでも、しばらくの間はここが我が家だ。



引っ越しが終わった日、父さんに別れの挨拶を告げるために、最後に一度だけ実家に行った。


キッチンやリビング、お風呂場、そして自分と美結の空っぽになった部屋を見てまわった。母さんや美結との思い出がたくさん詰まった実家とも……今日でお別れだ。


それが全て済んだ後、俺と美結は玄関先に立った。それと対面して、父さんがいる。


「じゃあ、父さん。俺たちはもう行くよ」


「隆一パパ、今までお世話になりました」


父さんは悲しそうな眼差しだったけど、ほんの少しだけ微笑んでいた。


「明、美結ちゃん……。もう、君たちとは会えないのか」


「…………お互い、会わない方が気が楽だろう?今さら変に交流しても、ギクシャクするだけだ」


「……………………」


「でも……そうだね。父さんをこの家で独りにするのは、少しだけ……気になるかな」


「いいさ、俺が今までやってきたツケが、こういう形で精算されるんだ。気にするな」


「……………………」


「それに、俺の胸には……博美や、お前との思い出がある。それで構わない」


父さんはそう言って、唇をきゅっとつぐんだ。俺は……そんな父さんの前に、右手を差し出した。それに気づいた父さんも自分の右手を差し出して、俺たちは握手を交わした。


「さようなら、父さん。どうかお元気で」


「ああ、さようなら。達者でな」


「何かあったら連絡してよ」


「ははは、明、それじゃあ『さようなら』にならないだろ」


「……そう、か。そうだね。ごめん」


……そう言って、俺は父さんとの握手をほどいた。


思えば俺は……父さんへはずっと、憎悪と悲しみを抱いていた。母さんの死に目に会わせてくれなかった恨みと、そんな父さんの気持ちも分かる悲しみ。そして、美喜子さんと再婚してから少しも構ってくれなくなった憎しみと、現実から目を反らしたかった気持ちが分かる寂しさ……。


今さら俺や美結と、三人で一緒に暮らそうとしても、お互い上手く噛み合わないのはもう目に見えてる。俺たちの間には、それくらい大きな溝ができてしまった。


だけど……ほんの少しだけ、蜘蛛の糸のように細い線が、俺たちを繋いでいる。それだけが、俺と父さんの繋がり。でも、それだけで……きっと良いのだろう。


「美結ちゃんも、元気でな」


「はい……」


そうして、俺と美結は父さんに背中を向けて、外へと歩き出した。


その途中で、俺は一度だけ父さんの方へ振り返った。父さんは俺たちの背中を、じっと黙って見ていた。手を振ることも、「元気でな」と声を出すこともなく、ただただ静かに立っていた。


「……………………」


俺は、ぺこりと小さく頭を下げた。そして、もう一度前を向いて……二度と、振り返ることはなかった。

















とあるイタリア料理店。そこに私と澪、そして喜楽里の三人で来ていた。澪と喜楽里は互いに談笑し合っているけど……私は、その輪の中には入らなかった。


私の対面に座る二人から目を背けて、頬杖をつき、雨が降る窓の外をぼーっと眺めるばかり。目の前に置かれている紅茶にさえ、一口も口をつけていない。


「……………………」


私の頭を絶え間なく過ってくるのは、渡辺のこと。本来考えたくもない……ムカつくだけのはずなのに、なぜか私はあの日のことを何度もリピートしていた。



『俺は、お前のことが嫌いだ』



(……ふん。私だって、あなたのことなんか嫌いよ。この私に対してあの態度……傲慢な話し方、上から目線の物言い……)


……でも、そうやって頭では渡辺を罵倒しているのに、なぜか……渡辺のことを考えるのを止めようとしない。



ザザザザーーー……



水溜まりの上を車のタイヤが走り、歩道へと水のハネる音が、店内にも微かに届く。


「ねえ、舞ちゃん」


喜楽里の呼ぶ声がしたので、私は頬杖をついたまま、視線だけ彼女たちの方へ移した。


「なに?」


ぶっきらぼうに答える私に向かって、喜楽里が「一体どうしたの舞ちゃん?」と尋ねてくる。


「なんだか最近の舞ちゃん、上の空って感じだけど……何かあったの?」


「別に」


「えー?ほんとお?」


喜楽里の疑うような言葉に、私は地味にイラッとしていた。


「三人でいる時も話に入ってこないし、どっか違うとこ見てるし……何か悩み事?」


「……………………」


私は彼女の言葉を無視して、再度視線を窓に向けた。鏡に映った私の顔と目が合う。


ほら、見なさいよ渡辺。私はこんなに可愛いのよ?こんなに可愛い私を……よくもまあ面と向かって嫌いって言えたわね。


「……………………」


ダメだ、気がつくとまた渡辺のことを考えている。頭に浮かんでくるあいつの顔を……頭を振ってかき消す。


「そう言えばさー、舞」


今度は澪の方が話しかけてきた。私が何か答えるよりも前に、彼女は次の言葉を繋いできた。


「例の……新しいターゲットはどうなった?」


「……新しいターゲットって?」


「ほら、顔面60点男。舞のことだから、もう堕とせたんでしょ?ねえねえどんな感じ?彼女を捨てて舞のとこにすがってくる様は?」


「……………………」


窓に映る澪のニヤニヤする顔が、妙にムカついた。


「ん……あんまり面白くなかった。だからこの前、別れてやったわ」


素っ気ない態度で、私は嘘をついた。


……渡辺は、なぜあの平田とかいう女が好きなんだろう?絶対私の方が可愛いし、私の方がスタイルだっていい。街を一緒に歩くんなら、絶対私の方がみんなから羨ましがられる。


どう考えても、私の方が優良物件……そうでしょ?渡辺……。


「……ねえ、舞ちゃん」


「なによ喜楽里」


「もしかして……好きな人できた?」



「は?」


私は頬杖を止めて、喜楽里の方へ顔を向けた。そして彼女に向かって「あなた今なんて言った?」と、詰めるような口調で問うた。


喜楽里はやや怯えた様子で、「いや……なんていうか……」と、しどろもどろに話した。


「その……私も小学生の頃、好きな人ができた時、そういう感じだったから、舞ちゃんもそうなのかなって……」


「あのね喜楽里、あなたと私を一緒にしないでくれる?私があの男のことを好きになるなんて、天地がひっくり返ってもないから。顔は芋くさいし、この私に対して失礼なことばかり言うし、その上……私のこと、嫌いだなんて抜かすのよ。嫌いって。それが絶対に嘘じゃないって分かる分、余計に腹が立つのよ」


「あ、あの、ま、舞ちゃん……」


「だいたいね、恋愛は惚れた方が敗けのゲームなのよ?私がそのゲームに負けるわけないじゃない。どんなイケメンでも堅物でも、十歳年上だって落としてきた。そんな私が……あの芋男を本気で相手にするわけないでしょう?喜楽里、あなた何年私の近くに“居させてあげてる”と思ってるのよ。あなた私の……」


「わ、分かったって舞!落ち着いて……。ほら、喜楽里!謝りなよ!」


澪の言葉を受けて、喜楽里はすぐに「ご、ごめん」と言って、その場で頭を下げた。


「バカね、謝るくらいなら、最初からそんな発言はしないことね」


「は、はい……」


ビクビクと肩を震わせてうつむく喜楽里を見て、なんかいろいろと冷めた私は、机の上に500円だけ置いて、荷物をまとめて席を立った。


「ま、舞?」


「舞ちゃん?」


二人が同時に声をかけてくるけど、私は一瞥もせずにそのまま店を出た。


「そうよ……私が、私があの渡辺なんかを、気にするわけないじゃない。そうでしょ?私はこの世の主人公よ。主人公が愛されるならまだしも……」


雨がバケツをひっくり返したように降る中、私は傘をさして家へと帰る。時折、遠くで雷鳴の音が微かに聞こえてきた。


「私は……私は絶対に、渡辺を振り向かせる。何がなんでも振り向かせる。勝つのは私よ」


ぶつぶつと、雨音に混じって私の独り言が辺りに響く。


まもなく……嵐がやってくる。




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