17.私だけのお兄ちゃん(前編)
……その日は、お兄ちゃんが古本屋のバイトに行っている土曜日、メグが久しぶりにおうちを訪ねに来てくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう美結」
リビングのテーブルで、私たちは隣同士に並んで座る。私は両手にオレンジジュースの入ったコップを持ち、片方を彼女に手渡した。
「もう11月だねー」
メグがコップに口をつけて、窓の外を見ながらぼんやりと呟いた。私も一緒に窓の方へと目を向けて、「うん」と一言だけ返した。
「美結はさ、進路どーするの?」
「……前にもちょっと相談したけど、私……この家をお兄ちゃんと一緒に出るつもりなの」
「うん」
「だから、家を出ても授業ができるように、通信制がいいかなって」
「うんうん」
「個人的にも……あんまり学校とかに出る気がないもの。怖いっていうのもあるけど……できることなら、その……」
「できることなら?」
「専業主婦っていうか、その………」
「あーなるほど、いわゆる古き良きお嫁さんっぽい感じになりたいと」
「……………えと……うん、はい、そうです……」
私は、熱くなる顔をうつむかせた。バクバクと鳴る心臓の音が、メグにも聞こえてしまわないか心配になった。
「ふふふ、美結もかわいい夢を持ってるね!」
「…………え、えへえへ」
メグは照れてる私を見てにっこり微笑んだ後、少しだけ視線を下に落として、顔は笑顔のままだけど……声色が少し寂しげに呟いた。
「でも、そっか。ちょっと寂しくなっちゃうね。遠くに行くってなったら、中々二人に会えなくなるね」
「……うん」
「時々、会いに行ってもいい?」
「もちろん!来てほしい!」
そう答えると、またメグがにっこり笑ってくれたから、私も同じくらいの笑顔をお返しした。
それから私たちは、受験生ということもあり、私の部屋で二人一緒に勉強した。時々休憩を挟みながらも、私たちはコツコツ勉強に集中した。
「……………………」
「……………………」
部屋の中は、カリカリとシャーペンが文字を書く音だけが響く。そんな静粛な時間の中、ふいに私は……メグに、あることを訊きたくなった。
それは、ずっとずっと胸の中にあって、ずっとずっと訊けずにいた……あること。
「……ねえ、メグ」
「んー?」
「どうして、お兄ちゃんのこと好きなの?」
メグの手が止まった。私も手を止めて、真正面にいるメグを見た。彼女は顔を上げたり、私の方を見たりとか、そういうことはしなかった。ただじっと、勉強していた姿勢のまま、シャーペンを持つ手がピタリと止まっていた。
「……………………」
「……メグ?」
「……どうして、かな?」
「え?」
メグはシャーペンを机に置いた。そして、じっと自分のノートを眺めながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……もともと私、男子が苦手だったの。何かにつけてバカ騒ぎしたり、無駄にはしゃいだり……。もっとこう……私は落ち着いた人が好きだった。彼氏にするんだったら、お兄さんタイプっていうか……落ち着いてて、甘えさせてくれる人がいいなって思ってた」
「……………………」
「だから明さんと初めて会った時……私のタイプだなって最初思った。でも、まだ好きっていう感情というよりは、憧れとかに近かった。本当に好きになったのは、二回目に会った……この家に、美結が呼んでくれた日」
私はごくっと、生唾を飲んだ。それは……たぶん、自分の嫉妬心を飲み込もうとしたんだと思う。私のお兄ちゃんが誰かに好かれる瞬間を聞くって……こんなにも、ぞわぞわするものなんだって思った。
「明さんに送ってもらった帰り道、あの人……私になんて言ったと思う?」
「な、なに……?」
「喧嘩してほしいって言ったの。美結と」
「え?喧嘩?」
「おかしいよね、普通そんなこと言うはずない。仲良くしてほしいとか、美結を許してほしいとか、そういうことを言うはずなのに……」
「……………………」
「でも明さんの言葉は、仲良くしてほしいとか、許してほしいとか、そんなのよりもっと強い想いを込めてた。明さんは、私にこう言ったの。『美結に本音を話してほしい』って。そのせいで喧嘩になってもいいって」
「……………………」
「その時さ、明さんの持つ……綺麗事じゃない優しさが、すっごくカッコよく……見えちゃったの」
「綺麗事じゃない……?」
「仲良くしてほしいとか、許してほしいってさ、一見すると普通に思えるけど……それって、私の気持ちは無視されてるんだよね」
「……!」
「私が仲良くしたくなかったら?私が本当は許してなかったら?私の気持ちはどうなるの?」
「……………………」
「確かに私も美結に……本当にひどいことしちゃった。だけど、私も言いたいことをずっと我慢してた。明さんは……そんな私のことも、気遣ってくれたの。我慢しなくていい、仲良くできなくてもいい。お互い本音で語りあって、最悪それで仲違いしてもいい……。それが、お互いにとってもいいって」
メグは、両肘を机について、顔を両手で覆った。ふう……というため息が、その覆われた手の奥から聞こえた。
「罪悪感で胸がいっぱいだった時に……そんなの、ずるいって思って、私……明さんのこと…………」
「……………………」
「だから、本音を明さんに話した。まずこの想いを明かさなきゃ、何も始まらないと思ったの。本音を話してほしいって言ってくれたんだから、それに……甘えさせてもらったの」
「……それで、告白を」
「うん」
「……………………」
メグは、静かに両手を顔から離した。彼女の眼は、少し赤くはれていた。
「……でも私はね、美結には敵わないって分かってるの。美結が本当に好きだからこそ、喧嘩してほしいって言葉が出てくると思うし、何より……明さんは私に、『君の気持ちに応えられないのを申し訳なく思う』って言ってたから」
「……………………」
「いいの、それでも。私……恋なんてするの初めてだから、これが正しい状況なのかわからないけど、好きな人に好きって言えるだけで、幸せなの」
「……恋が、初めて?メグ、まさかお兄ちゃんが……」
「うん、初恋の人」
「……………………」
メグは私の顔を見ると、くすっと笑った。
「美結、なんて顔してるのさ」
「……だって、メグ……」
「いいの、あなたは何も気にしないで?私が勝手にあの人を好きになって、勝手に切なくなってるだけだから」
「……………………」
「ふふふ、でもね!私だってまだまだ諦めてないよ?明さんの一番になれる時があるかも知れない」
「…………!」
「だからこれは、私が美結にしかけた喧嘩。これで美結が私のこと嫌いになってもいいよ。私は……私らしくいれたから。平田 恵実として、あの人を好きになったから」
晴れ晴れとした顔で語る彼女は……とっても、キレイに見えた。恋をすると人はキレイになるっていうけど……本当なんだなって、すごく実感した。
「メグ……私だって負けない。私だって、お兄ちゃんが大好きだから」
「うん」
「そして……あなたが、大好きだから。友だちとして、手なんか抜きたくない」
「………………」
メグは、何も言わなかった。でも、彼女の微笑みが……何も言わなくても、答えになっていることを教えてくれた。
……夕方五時頃、メグは家へと帰っていった。別れ際に「明さんによろしく言っておいて」と告げていった。
メグがいなくなった家は、しんと静まり返ってて……なんだか寂しかった。
日が落ちるにつれて、少しずつ雨も降り始めた。メグが帰った後に小雨がぱらぱらと降りだして、夜の8時になる頃には、結構な土砂降りになっていった。
「お兄ちゃん遅いなあ……。もうとっくにバイト終わって、帰ってきてる頃なのに……」
私は食卓のテーブルに、上半身を寝かせていた。腕を折り曲げて、頭のところに腕を乗せて、ぼー……と、真っ暗な窓の外を眺めていた。
「……………………」
メグがいなくなった反動もあるんだろう……私は、いつも以上に寂しかった。
お兄ちゃんがいない間は、なるべく寂しさを紛らわすよう、テレビを見たりスマホで動画を見たりして過ごすことが多い。最近は採点バイトのお陰で時間を潰すことができるけど、時々……こんな風に、どうしようもない孤独感に苛まれることがある。
「……はあ」
テーブルには、私とお兄ちゃんのために作ったシチューが、二皿置いてある。
「……冷めちゃうよ、シチュー」
と、ぽつりと私が独り言を呟いたその時。玄関先で「ただいまー」というお兄ちゃんの声が聞こえた。
私はすぐに起き上がり、走って玄関まで行って「お帰りお兄ちゃん!」と叫んだ。
「遅くなってごめんなー!いやーしかし、参った参った!ずぶ濡れになっちゃったよ」
お兄ちゃんは雨で全身びしょ濡れだった。髪の毛からぽたぽたと滴がしたたり、玄関で靴を脱ぐ動作をする度に、びしゃびしゃと靴が音を立てていた。
「お兄ちゃん、傘持っていかなかったの?」
「…………実はその、人に貸しちゃった……」
「えー!?こんな大雨なのに?」
「だいぶ子どもだったしよ~、さすがに可哀想ってなって……。小さい子と、俺みたいな成長期真っ盛りの青少年じゃ免疫力も違うしさ……」
お兄ちゃんは盛大にへくしゅ!とくしゃみをひとつかました。
「とりあえず俺、シャワー浴びるよ。美結、良かったら俺の部屋から着替えを持ってきてくれない?」
「うん!なんでもいい?」
「えーと、じゃあフリフリのスカートと肩出しTシャツをお願い」
「もう!そんなの1個も持ってないでしょ!」
私が突っ込みを入れると、お兄ちゃんはケラケラ笑いながら「ごめんごめん、本当になんでもいいよ」と言って脱衣場に向かって行った。
」と言って脱衣場に向かって行った。
私はお兄ちゃんの部屋から、下着一式と白のTシャツに黒のズボンを持って、脱衣場にいるお兄ちゃんへ渡しに行った。脱衣場の扉をこんこんとノックし、「持ってきたよ」と声をかけると、扉が少しだけ開いて、お兄ちゃんの手がにゅっと出てきた。その手に着替え一式を手渡した。
「ありがとー美結!助かった!」
そう言って、手は脱衣場の中に引っ込んで、扉は閉まった。
「お兄ちゃん、シチュー作ったんだけど、食べる?」
「おーマジか!ありがとう!!食べる食べる!」
「分かった!じゃあ、チンしとくね」
「早めに上がるよ!美結のシチュー食べたい!」
「……!うん!」
私は、さっきまで寂しかったことなんてすっかり忘れて、スキップしながら食卓へ戻った。シチューにラップをして、電子レンジにかけた。シチューが暖まっていく度に、私の心も暖かくなっていくような気がした。
「ふんふん~~~♪」
私はウキウキ気分でスプーンを取り出し、思わず鼻歌を口ずさんだ。るんるん♪と私の周りに擬音が出てきてると思うくらい、私の胸は踊っていた。
……私は、お兄ちゃんが大好き。この世でお兄ちゃん以上に好きになる人なんていないと、断言できるほどに好き。
愛してるって、こういうことなんだ。幸せって、こういうことなんだ。そんな風に思ってた。
『私……明さんのこと…………』
……でも、私がお兄ちゃんを愛してるように、他の人たちも……お兄ちゃんのことを……。
次の日から私は……その事実を、ありありと思い知らされることになる。
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