ヒモ彼氏にご注意を

@yuipipi

第1話


 私の彼氏は世間で言うところのヒモ男だ。


 彼は大学を卒業後、一時は就職して銀行員になった。だが、そこでは過酷な生活が待っていた。毎日深夜まで残業が続き、休日出勤は当たり前、そしてパワハラは日常茶飯事という劣悪な環境だったのだ。

 精神を病んだ彼は半年で職場を退職した。以降、同棲しているアパートの一室に引き篭もるようになった。「気が向いたら働く」と宣言してから一年が経った今も、絶賛引きこもり中だ。


 一方で、私はバリキャリ女子としての道を順調に歩んでいた。


 バリキャリ女子とは言い換えるとキャリアウーマンのことである。彼と同じ大学を出た後、大手IT企業に就職。実力が認められ、二年目にして主任となった。これは社内では異例の速さだそうだ。周りからの信頼も厚く、いつも周囲には同期や後輩がいる。

 このように、順調にキャリアを形成しているように見えるが、決していいことばかりではない。主任になって間もないというのに、あらゆる役割が求められ、重い責任がつきまとう。結果、毎日鬼のように忙しく二十時までの残業が当たり前となった。


 今日も例に漏れず、二十時過ぎまで残業をした。電車に乗車中、溜まりに溜まった疲労感に負けて眠りに落ちそうになった。しかし、それを堪えて彼が待つアパートまで歩いた。


「はぁ。家に着いたら料理作って、お風呂入って、洗濯しないと。めんどくさいなぁ」


 彼が料理を作ってくれていたらどれだけ楽だろう。料理なんてするわけがないとわかっているけれど、淡い期待をしてしまう。働かないなら、せめて家事くらいはやってほしいものだ。

 心の中で彼に対して、数え切れないほどの不満を言っていると、いつの間にか玄関の前に立っていた。扉を開けるため玄関の鍵を探しているタイミングで、ある異変に気づく。


 中からいい匂いがするのだ。特徴的なスパイスの匂いだ。これは恐らくカレーの香りだと思われる。

 

 気になって急いで玄関の扉を開けて中に入ると、彼が珍しく部屋を掃除していた。普段は何回注意しても部屋を片付けようとしないのに、どういう風の吹き回しだろう。

 

「おかえり、結衣ちゃん。今日もお疲れ様」


「え、うん。ただいま。どうしたの? 急に掃除なんか」


 いまいち状況が飲み込めず戸惑っている私を見て、彼はにこりと笑った。


「いつも頑張ってもらってるし、今日くらいはさ。料理も作っといたよ。ほら、食べて」


 彼の言うとおり、テーブルの上にはカレーライスの皿が置かれていた。これまで一度も料理を作ってくれたことがないのに、あまりにも不自然すぎる。

 もしかして何か企んでいるのではなかろうか。一番に考えられるのは、小遣いを強請ってくることだ。そういえば昨日、欲しいゲームがあると呟いていた記憶がある。


 いや、あれこれ邪推するのは後にしよう。


 せっかく自分のために作ってくれたのだから温かいうちに食べないと。お腹も空いていることだし。スプーンを皿に入れて、まずは一口。うん、これは。ふむふむ。


「あっっっま!」


 カレーなのに甘すぎる。山盛りの砂糖でも入っているのかと問いたいくらいに甘い。

 

「え? 甘すぎるかな? 甘口が好きだと思ったから砂糖ドバドバ入れたんだけど」


 だとしても本当に砂糖を山盛りに入れる人がいるだろうか。少量ならまだわからなくもないけれど。

 それに加えて、ジャガイモや人参のサイズがおかしい。一口サイズを想定していたが、これでは五口サイズだ。あまりにも大きくてゴロゴロしている。そのため、野菜が生煮えで固い。お世辞にも美味しいとは言えない。

 

「どう? 美味しい? 初めて作ったから指切っちゃったし、あまり自信ないけど」


 彼の指に目をやると、絆創膏が貼られていた。普段料理などしないものだから、きっと何かの拍子に指を切ったのだろう。不器用な彼なりに頑張ったのだから目一杯褒めてあげないと。


「うん。美味しい。ありがとね。料理作ってくれて」


「何言ってるんだよ。こちらこそいつもありがとう。結衣ちゃんのおかげで今の僕があるんだから」


 屈託のない笑顔でそう言った。まるで子どものように無邪気な笑みを浮かべている。本心から感謝していることが伝わってきた。


 私は彼のそういうところが本当に好きだ。嘘偽りない自然な笑み、純粋無垢な笑顔を見るたび、胸がキュンとなる。どれだけ怒りが湧いていたとしても、彼の微笑みを見れば一瞬でどうでも良くなってしまう。


「ごちそうさま。美味しかったです!」


 合掌して席から立ちあがろうとすると、慌てて彼が制止した。怪訝な表情を見せ、何事かと彼に問う。


「急になに?」


「これ、僕から君へのプレゼント」

 

「プレ……え?」


 渡されたのは、高級そうなバッグだった。普段、私が使っているバッグは傷だらけでそろそろ買い替えようかと考えていた。それを知ってか知らでか新しいバッグを購入してくれたらしい。

 この時、疑念は確信に変わった。やはり、今日の彼はどこかおかしい。掃除をしてくれたり、料理を作ってくれたり、おまけにプレゼントまでくれるなんて。なぜ、ここまで優しくしてくれるのか気になった。


「なんで今日はこんなに優しいの?」


 私の質問に対して、彼は意味がわからないという風に首を傾げた。


「結衣ちゃん。今日、何の日か覚えてる?」


「今日?」


 冷静になって考えるが、思い当たることが何一つなかった。誕生日はとうの昔に過ぎているし、逆に今日が何の日なのか教えてほしいくらいだ。

 何の日なのか全くわからずに黙り込んでいると、彼の方から口を開いた。


「今日はね。僕と結衣ちゃんが付き合い始めて三年の記念日なんだ」


「あ……」


 言われて初めて気づいた。最近は働き詰めで記念日の事などすっかり頭から抜け落ちていた。そして同時に納得した。だから、こんなにも彼が優しいのだと。


「でも、私、渡すものないよ?」


 お返しを期待されているのかもしれないが、生憎返すものがない。なぜなら、今日が記念日であることすら忘れていたのだから。当然プレゼントを用意しているはずもない。


「いいんだよ。結衣ちゃんからはいつももらってるから。気にせずゆっくり休んで」


 なんて優しい言葉だろう。プレゼントは必要ないよと柔らかな声で気遣ってくれた。彼は主成分優しさの人間だ。その時々に、いつも私が掛けて欲しい言葉をくれる。


 お言葉に甘えて、ベッドに横たわると、彼も私の横で寝転がった。綺麗に整った顔、少し低めの声、微かに聞こえる吐息。その一挙手一投足がたまらないくらい愛おしい。

 思わず容姿に見惚れていると、彼がちょこんと顔を近づけてきた。歯垢一つない白い歯を見せた後、私の耳元で囁く。

 

「……明日からも僕を養ってね」


 これ以上甘やかすのは、良くない事だとは頭ではわかっている。それでも彼を見ていると庇護欲にかられてしまう。彼という存在は私をどんどん沼らせる。ソシャゲの課金システムのように触れ合えば触れ合うほどハマっていく。


「頑張って働くね! 大好きだよ。カケルくん」


 『カケルくん』という底なし沼からは、もう抜け出せない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒモ彼氏にご注意を @yuipipi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る