伝説

「何してるの?早くやるよ。」

「はぁ」


 溜息をつく橋塚のことを気にする素振りもなく、佐々木さんは真顔で橋塚を見つめている。


「早く。」

「はい。」


 真顔の佐々木さんは、はいかyesか喜んでしか言わせない雰囲気である。渋々、実験装置に向けて歩き出した橋塚は、佐々木さんの鞄に鳥のキーホルダーがついていることに気がついた。南米のカラフルな鳥を思わせる布製の人形は、雑に置かれた黒い鞄にぶら下がっている。佐々木さんは、肩にギリギリかかる黒髪で、白のニットに黒いジーンズ、スニーカーも黒というシロクロファッションであるから、カラフルな鳥のキーホルダーは余計に浮いて見える。


「佐々木さん、そのキーホルダー付いてましたっけ?」

「あぁ、有隣堂のYouTubeチャンネルのプレゼント企画で当たったの。」

「有隣堂って、あの最寄り駅にある?」


 佐々木さんは、ゆっくりと頷き最寄駅の方を指さす。橋塚と佐々木さんの通う大学は、横浜駅から徒歩10分のところに建っている。佐々木さんは、読書家で、その小説を買っている場所が有隣堂なのである。


「そのチャンネルでMCをやっているのが、R.B.ブッコロー。」

「フクロウですか?」

「ミミズクね。」


 佐々木さんは、橋塚を手招きし、スマホの画面を見せる。そこには、キーホルダーと全く同じ形のブッコローとメガネをかけた女性の2人が映し出されている。


「そういえば、雪、すごいね。」


 佐々木さんは、画面をのぞいている橋塚のことを気にせずに呟いた。橋塚は、いつの間にか窓の外を眺める佐々木さんの言葉の意味がわからず、すっとぼけた顔をしている。


「え?」

「えって言うな。」

「今頃ですか?」

「だって、朝はあまり降っていなかった。」

「隣の研究室の人たちも帰ってたじゃないですか?」

「作業に集中してて気づかなかった。」


 時刻は午後9時になろうとしている。隣の研究室の面々が帰宅したのが、おやつの時間であったから、すでに6時間近く経過していることになる。橋塚は、佐々木さんが大雪に気づいて尚、作業を続けていると思っていたから、開いた口が塞がらない。しかし、佐々木さんは、とても冗談だと思えないほどの真顔である。というよりも、昨年の3月に会って以来、佐々木さんの冗談を聞いたことは一度もない。


「電車が止まる前に帰ろう。」


 橋塚は、素早く撤収作業を開始する佐々木さんをただ眺めることしかできなかった。


 橋塚と佐々木さんは、大学を出て通常の2倍以上の時間をかけて横浜駅まで辿り着いた。駅までの道中、何度も転んだ橋塚と、その度に手を握り引き起こした佐々木さんの話は、また次の機会に。期待虚しく全線運転見合わせ中で、二人は帰れなくなっている。


「それで、この人はザキさん。」


 行き場を失った二人は、近くのファミレスに入り、およそ10分前から佐々木さんのスマホで有隣堂のチャンネルを見ているのである。四人席に案内されたのに、動画が見づらいということで、わざわざ片側に二人で座っている。橋塚は、佐々木さんがつけている香水が気になり、動画どころではない。


「あ、動画更新された。」

「5分前に投稿されたばかりですよ!」


 ザキさんがおすすめの文房具を紹介する動画の次に表示されたのは、『雪で大変な方へ』というタイトルである。


「佐々木さん、助かりましたね!」

「うん。」


 橋塚は毛布一枚、乾パンと水をもらい満足気に、壁にもたれて座る佐々木さんの方を向いた。佐々木さんは、橋塚の言葉に一応の返事をするものの、視線が手元の本から動かない。佐々木さんは、有隣堂についてすぐに、おすすめされている本を5冊買ったのである。


「まさか、有隣堂が帰宅困難者を受け入れてくれるとは!」

「うん。」

「……。」


 橋塚は、佐々木さんに話しかけることを、ついに諦めた。橋塚は、佐々木さんが買った本を全て読み終わるまでの3時間、最近覚えた歌を口ずさんでみたり、踊ってみたり、佐々木さんに向かって変顔をして見せたりしたのであった。ちなみに、その全てを佐々木さんが無視したのは、言うまでもない。橋塚は、とうとう何もすることがなくなり、三点倒立をしながら窓の外を眺めていた。


「明日、朝7時から作業するから。」

「え?」

「えって言うな。」


 橋塚は無事に第一志望である、佐々木さんの所属する研究室へ配属となった。配属初日のミーティング後、近づいて来た佐々木さんが、一番に発した言葉である。


「はい。」


 佐々木さんは、はいかyesか喜んでしか言わせない雰囲気である。橋塚の予定は、完全に無視というより、全く興味がないといった感じである。それから、橋塚は何度か佐々木さんとの距離感を縮めようと、釣りに誘ったり、パチンコに誘ったり、競馬に誘ったりしたのだが、その全てに断られた。当然である。とにかく色々と努力はしてみたのだが、全く距離感が縮まないまま橋塚と佐々木さんは、出会ってから1年が経過しようとしている。


「そういえば、有隣堂に伝説があるの知ってる?」

「へ?」


 佐々木さんの逆になった顔を見て、美人は逆さから見ても美人だなんてことを呑気に考えている。


「この横浜の有隣堂の伝説。」

「知りませんよ。」

「夜になると——。」


 頭に血が上った橋塚は、窓の外を再び眺める。先ほどまでの大雪とは異なり、少し弱くなった雪は、桜の花びらのように見えるのであった。

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