6、たかが多元宇宙の終わり

 夜光も闇も高圧の水流が押し流す。

 俺は何とか屋上のフェンスに捕まって持ち堪えた。


 水を吐き出し終えた給水塔が傾き、大波を起こして倒れた。薄緑色の錆びたフェンスから地上へ水が零れ落ちる。

 下は大騒ぎだろう。いや、今更か。


 水蒸気が立ち込める屋上で俺は息を整える。夜風が濡れた髪や服を肌に貼りつけて、氷に包まれたみたいに寒い。

 問題は義兄だ。



 奴は非常階段の扉の方まで押し流されていた。

 垂れた髪が顔を隠して、刺青があるかわからない。


 頼む。気絶してシンクロを解いてくれ。せめて脳しんとうを起こしててくれ。



 祈るような思いで見つめると、龍治が顔を上げた。黒髪が貼りつく頬には鮮やかな龍の刺青があった。


「くそ、しぶてえな!」


 臥龍が立ち上がる。濡れたコートから水を滴らせ、奴は薄笑いを浮かべた。

「今まで幾つもの多元宇宙を見てきたが、お前は特別だ」


 俺は拳を固めた。日本刀も手摺も押し流されている。下に落ちて何かに突き刺さってないか心配だ。それも今更か。



 臥龍が重心を落とし、地を蹴った。

 残像が歪み、俺の腹に衝撃が走った。臥龍の握り込んだ拳が肋を抉る。

 鈍痛に呼吸が止まりそうになる。


 俺は無理矢理大振りに拳を振りかぶった。身を逸らして避けた臥龍の片足が宙に浮く。

 俺はすかさず奴の足を抱え込んで横転した。足首を持っていくつもりだったが、臥龍のもう片方の脚が振り抜かれ、俺のこめかみを穿った。



 臥龍が喉を鳴らした。

「ドラゴンスクリューとは気が効いてるな」

 風がぶんと唸り、奴がまた接近する。


 臥龍は俺の両脇に腕を差し込み、捻じ上げた。まずい。避けようともがく前に俺の両脚が宙に浮く。

 臥龍が一瞬で身を反転させ、俺はボーリングのピンのように回転して地面に叩きつけられた。


「くそっ、タイガードライバーかよ!」

 意趣返ししやがって、俺はすかさず身を起こして 跳躍する。蹴りを脳天に叩き込む寸前、臥龍が持ち上げた腕に膝頭が衝突した。俺たちは転がる石がぶつかるように弾け飛んだ。



 再び向かい合う交錯の最中、臥龍が吼えた。

「お前はどの勇虎とも違う。全てのマルチバースの中でお前が一番甘い!」

「だったら……何だってんだよ!」


 俺は駆け、思い切り拳を打ち込んだ。もう何の技巧もないただの暴力だ。

 拳は臥龍の額にぶつかり、臥龍の踵が俺の腹を打つ。


「じゃあ、その甘くねえ俺を連れて行けばいいだろうが!」

「無理だ」

 臥龍が短く答え、掌底を俺の胸に打ち込む。俺は回し蹴りで臥龍の背を蹴りつけた。


 ぐっと呻きが漏れ、臥龍が後退る。奴は刺青を歪め、痛みに耐えるような顔をした。

「マルチバースの中でお前が死んでいないのはもう後僅かしかない」



 俺は息を呑む。身体が重く動けなかった。


「ひとつの選択肢で宇宙は無限に分岐する。お前の母の死がその大元だ」


 疲労の限界は奴も同じらしい。臥龍はふらつきながらフェンスにもたれかかった。


「俺の宇宙では、お前の母が暗黒街を作り、彼女の死後、抗争でお前も死んだ。その世界を作り直すことはできない。だが、お前を呼び戻すことはできる」

 臥龍は手を差し伸べた。

「考えてみろ。こんな片田舎で、何者でもないまま一生を終える気か? 俺と来れば暗黒街が手に入る。富も、名誉も……」


 俺は一歩踏み出した。足が重く、全身が痛いが、何とか臥龍の元まで辿り着く。

 奴は満足気に笑った。それが気に入らなかった。



「やったぜ、なんて言うと思ったか!」

 殴りつけるつもりが、俺は崩れるように奴をフェンスに押しつけただけだった。くそったれ。


 臥龍が目を丸くする。

「金だ仕事だ安定した未来だ、うるせえんだよ! 別の宇宙でも変わんねえなあ!」

 俺は臥龍の胸ぐらを震える手で掴んだ。

「いつも将来の話ばっかりしやがって! 今の俺とは一回も目合わせねえくせに!」


 奴が俺の襟を掴み返す。俺たちはゾンビのようにズタボロで掴みあった。義兄が掠れた声で吠えた。

「お前の現在は……俺が台無しにしたからだ!」


 俺は思わず手の力を抜く。勢いよく押し返され、フェンスががしゃんと音を立てた。



 義兄は俺の胸ぐらを掴んだまま俯いた。

「受験前の一番大事な時期に、家族が必要な時期に、赤の他人の俺が家に入り込んだ。最悪だっただ。もっと明るくて気のいい義兄なら救いがあったが、俺は違う。だったら! 俺にできるのは金を出すことだけだ。いい大学に行かせて、いい仕事に就いて、金を稼いで……俺と離れて、失った青春を取り戻せるくらいに幸せになれるよう、援助するしかないだろう!」

「何でも勝手に決めつけやがって!」


 俺はありったけの力で龍治を殴った。

 確かな手応えがあり、奴の鼻から血が滴る。俺の口の中も鉄錆の味で満ちていることに気づいた。


 俺は血の混じった唾を吐く。

「嫌だなんて一回も言ってねえだろうが! 正直最初はマジかよと思ったし、暗そうな奴で参ったと思ったけど! 映画が趣味ってわかって少しは仲良くなれると思ったのに!」


 義兄が腫れた目蓋で俺を見かえした。ちゃんと目が合ったのは初めてかもしれない。

 貴重な機会なのに、俺の目蓋も腫れていて七割くらししか見えなかった。



 龍治は消え入りそうな声で言った。

「映画の趣味が違うだろ……」

「そんなんしょうがねえだろ! こっちはあんたの観てるもんが何か知りたかったのに、お前に言ってもしょうがねえみたいな面しやがって!」

「してない」

「しただろうが! ウォン何とかのリオデジャネイロみたいな映画観てるとき!」

「ウォン・カーウァイのブエノスアイレス」

「くそ!」


「あの監督は……好みが分かれるから……俺も好きだがどこが面白いのか説明できないし……」

「いいよ! お前がちゃんと言えよ! 俺もつまんなきゃつまんねえって言うし、好きなら好きって言うし、何も言わなきゃわかんねえだろ!」


 息が上がってきた。喋るのもキツいが、俺は義兄の襟を掴んだ拳に力を込める。

「マルチバースなんかクソどうでもいい! 今ここのあんたがちゃんと向き合ってくれよ!」



 俺は義兄を見上げてから気づいた。

 顔から刺青が消えている。


 俺は無意識に手を離した。俺と龍治は同時にへたり込む。


 地上からサイレンの音が聞こえた。下がどんな騒ぎになっているか想像もしたくない。

 初めての義兄弟喧嘩がこんな壮大なものになるとは思っても見なかった。



 薄らぼけたような朝陽が差し込み、街から夜の色を押し流していった。


 義兄は呆然としたように座り込んでいた。何を言えばいいかわからない。俺は深く息を吐く。


「龍治さん……」

 千の宇宙で暗黒街の頭領になっても、まだ一度も「兄」と呼べない。

「何だ……」

「ウォン・カーウァイって何から観ればいいんだよ……」

「そうだな何だろう……花様年華も、ブエノスアイレスも、楽園の瑕もいいけれど……お前なら2046かな……」

「何で?」

「……キムタクが出てる」

「……最高じゃん」



 義兄は呆れたような困ったような笑みを浮かべた。マルチバースのどの義兄の比べても、笑顔を見るのは初めてだから、何とも言えなかった。

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