第17話 雨の校庭

*   *   *



 沙凪は小学校一年生で、初めての恋をした。

 その日の授業は、みんなで植えたアサガオの観察をしに行くことになっていた。

 校舎を出て、校庭をはさんだ向こう側にある庭まで歩く。少し前から小雨が降り始めていたけど、ここ数日、ずっと降ったりやんだりを繰り返していたので、みんな傘を持ってきていた。

 ――を除いて。

 彼女は傘がわりに、頭に水色のハンカチを載せていた。顔の上に手をかざしながら、足早に庭を目指して歩く。

 沙凪は悩んだ。傘に入れてあげるべきだと思う。でも彼女とはまだ一度もしゃべったことがなかった。嫌がられたらどうしよう。それに彼女は背が高い。沙凪が持った傘では、彼女が体を屈めさせることになる。だったら別のだれかの傘に入れてもらった方がいいのかも。

 そんなことを考えているうちに、深水が彼女に歩み寄っていた。歩く速度を合わせて横につき、無言で彼女を傘に入れる。彼女は少し驚いた顔になる。沙凪も驚いた。彼女と深水が話すところを見たのは初めてだったから。

「父ちゃんが言ってたんだ。男は女に優しくしなきゃダメだって」

 深水がそう胸をはると、彼女は照れたみたいにちょっと笑った。

 それを見た時、沙凪は胸がきゅっと苦しくなった。彼女がうらやましくて、たまらなかった。どうしてその傘の下にいるのが自分ではないのかと、寂しくなった。ちゃんと傘を持ってきたことを恨みさえした。

 入学してからずっと、沙凪はなんとなく深水のことが気になっていた。教室にいる時も、気づけば視線はいつも深水を探していた。それが何を意味するのか、その日、ようやく理解した。

 よほどじっと見つめていたのだろう。沙凪の視線に気づいた他のクラスメイトが、ふたりを指さしてクスクスと笑い始めた。ついには深水と仲のいい、やんちゃな男子たちにも気づかれてしまった。

「あいあい傘じゃん!」

「お前らつき合ってんのー?」

 男子たちはふたりの周りに群がって、深水をさんざんからかった。

 深水はみるみるうちに、顔から耳まで真っ赤になってしまう。やがて耐えかねたように、さっと彼女から離れた。男子たちはまだからかい足りないらしく、深水を追いかけて走る。そのうちひとりが彼女にぶつかり、彼女の頭からハンカチが落ちた。

 彼女は慌てて手を伸ばすが、ふわりと広がったハンカチは、そのまま校庭の水たまりの上に落ちてしまう。

 彼女は手を伸ばしかけたまま、しばらくその場で凍りついた。

 ようやく拾い上げたハンカチは、汚れた水を吸って、すっかり色が変わっていた。それを見つめる彼女の顔に、雨が降り注ぐ。

 沙凪の足は自然に動いていた。

 水たまりをぐるりと迂回うかいして、彼女のもとへ向かう。水たまりがやたら大きく感じられて、気づかないうちに小走りになっていた。早くしないと、彼女が泣きだしてしまう気がした。

 彼女は無表情でハンカチをしぼっていた。滴り落ちる茶色い水が跳ねて、彼女の靴を汚す。

 やっとたどり着いた沙凪は、腕をいっぱいに伸ばして、彼女の頭の上に傘を差しだした。

 彼女がまたびっくりした顔になる。

「一緒に行こう」

 沙凪がそう言うと、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。

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