第16話 闇のベッド

「沙凪は何も心配しなくていいよ」

 沙凪が疑問や不安を口にすれば、深水は必ずと言ってもいいほど、そう言った。言葉で拭いきれない時は、力強く腕の中に抱きこんでくれる。そうされると不思議と、沙凪の中にあった不安定な感情はさらりととけて消えてしまう。

 何があっても、私はここに帰ってこられれば大丈夫。

 深い安堵に包まれ、沙凪は深水に身を任せる。

「沙凪」

 耳元でささやかれると、めまいがするほど恍惚としてしまう。とろりと耳に入ってくる深水の声は、ローストしたキャラメルのように甘く鼓膜に絡みついた。

 小さい頃からずっと、一方的に焦がれているだけだった。そんな相手が、自分の目を見つめてくれる。名前を呼んでくれる。肌に触れてくれる。沙凪が望めばいつでもその腕に迎え入れてくれる。重ねた手にはおそろいの指輪が輝いている。

 ベッドの上で、深水の長い腕に包まれてまどろんでいると、幸せはここにあると実感できた。

 だが、ふとした瞬間、不安になることがある。この優しさが永遠には続かないのではないかと。

 例えば、沙凪に触れる深水の指や唇から、タバコのにおいがした時。元々苦手な上に、彼の吸う銘柄のにおいは特にダメだった。ヨーグルトに似た、頭が痛くなるほど甘ったるいにおい。沙凪が苦手と知っているはずなのに、吸ってすぐの口でキスができる深水の無神経さに気づいてしまった夜は、不安で眠れなかった。

 沙凪を向けられているはずの深水の目が、沙凪を通り越して別の何かを見ているような気がする。沙凪を抱きしめている間、その視線はどこに向けられているのかと考えてしまう。

 知りたいけど、怖い。疑っていることが深水にバレたら、この幸せがとり上げられてしまうのではないか。こんな幸せを与えてもらっている自分が、それを疑うなんてあっていいはずがないのに。

 最後はいつも、そうやって疑問を意識の外に押しやった。目の前にある幸せを胸いっぱいに吸いこめば、細かいことはすぐにどうでもよくなってしまう。

「そうやって、いつも自分に言い聞かせてる」

 突然聞こえた声に、沙凪は目を開ける。

 あたりは真っ暗だった。沙凪を包むまぶしいほど白いベッド以外、何もない。眠っているのか、沙凪が体を起こしても気づかない。

 そんな真っ暗闇の中に、ぽつんと女の子が浮いていた。もうすっかり大人の女性の姿になっている。

「思いだして。あなたはだれ?」

 こんなに簡単な質問なのに、答えるのが怖かった。薬指の指輪をなでて、不安を紛らわせる。

「私は、新島沙凪」

 彼女は無表情で首を振る。

「違う。新島沙凪は私」

 確かに彼女も沙凪かもしれないが、自分こそが本物の沙凪だ。そう思うのに、沙凪は言い返せなかった。

 沙凪はベッドから出る。何も身に着けていなかったが、彼女になら見られても恥ずかしさは感じなかった。

 足を下ろした先に、地面の感触はなかった。ベッドから離れると体がゆっくりと沈んでいく。試しに何もないところを蹴ってみると、体はふわりとその方向へ進んだ。水中の感覚に近い。

 近づいてみると、彼女の背後には姿見があった。彼女が一歩脇にずれ、鏡に映った自分の全身が見える。

 鏡に映る自分の姿と、横に立つ彼女の姿は、似ても似つかなかった。

 彼女は沙凪そのものだ。

 鏡に映った沙凪の姿が、沙凪ではないのだ。

 すらりとしているが、くびれなどのめりはりがしっかりついた体。絹のようにさらさらと揺れる髪はそのまま背中に流している。こんなに動揺しているのに、顔は自信に満ちた笑みが浮かんでいる。

 違う。こんなの、私じゃない。

「私は、だれ?」

 声が震えた。

 彼女は無表情のまま答える。

「もうちゃんと思いだせるはずだよ」

 まるで沙凪が沙凪でないような言い草に、沙凪はますます混乱する。

 だって、自分はこれまでずっと新島沙凪として生きてきたのだ。実際それが、夢としてこの世界に投影されていた。曖昧あいまいだったり、意味が分からない部分も確かにあったけど、沙凪がそこにいたことは間違いない。

 沙凪は、順番にそれらを思いだしていく。

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