4章

第15話 ガラスの店

 横になって目を閉じたが、確かに眠ることはなかった。眠りの手前の穏やかな浮遊感がずっと続いている感じだった。

 体感で数時間休んだあとも、夜は明けず、潮位もまったく変わらなかった。

 浜をずっと進んでいくと、例の扉が現れた。開いた扉の向こうに、上へ伸びる白い螺旋階段を見た沙凪は、ホッと息をつく。ようやく自分が進むべき道に戻って来られた気がした。

 階段をのぼる間、やはり会話はなかったが、以前より気分は楽だった。

 神谷が無言なのは機嫌が悪いのではない。神谷がしゃべるのは、必要な時と、皮肉を言う時と、気を遣う時。それが分かった今、沈黙は苦ではない。

 次の扉は思いの外、早く現れた。

 扉を開けるなり、まぶしさで目がくらんだ。

 薄目で扉をくぐり、少しずつ光に目をならしていく。

 一面真っ青な部屋だと思ったけど、すぐに違うと気づいた。

 天井も壁も床も、すべてがガラスでできていて、その向こうに青空が透けているのだ。足の下を雲が流れていくのが見える。

 棚も、テーブルも、花瓶も、そこに挿した花も、部屋にあるものはすべてガラスでできていた。天井には、部屋の大きさに対して立派すぎるシャンデリアが下がっている。

「女はどうして光りものが好きなのかね」

 神谷は興味がなさそうにテーブルの上の置物を眺める。見ていたのは、手の平ほどの大きさの金魚のガラス細工だった。水から跳ね上がったような体勢をしていて、長い尾ヒレが力強いカーブを描いている。重なり合うウロコの一枚一枚まで丁寧に刻みこまれていて、今にも動きだしそうなほどリアルだった。

「そうじゃない女の人もいますよ」

「指輪もピアスもネックレスもひとつも持ってない女がいるか?」

「指輪は特別ですよ」

「最初の何年かはな」

「何年かで終わっちゃったんですか?」

「お前、本当に失礼なやつだな」

 神谷が沙凪をにらむ。だんだんにらまれるのにもなれてきた沙凪は、笑ってごまかした。

「来たんだね」

 部屋のすみにあの女の子が立っていた。今度はブレザーを着ている。身長はほとんど沙凪と同じにまで成長しており、少し落ち着いた雰囲気を持ち始めていた。

「今までどこにいたの? あれから大変だったんだよ」

 沙凪が近づいてそう言うと、彼女は切なげに笑った。

「それが私の役目だから」

 沙凪には彼女の言葉の意味が理解できなかった。

 聞き返そうとした時、手が何に触れた。

 細長いビンが倒れ、転がり、テーブルの天板からこぼれ落ちる。沙凪が慌てて伸ばすが、指先に当たったビンは回転しながら方向を変え、音をたてて砕けた。中に入っていた淡いピンク色の液体がガラスの床面に飛び散る。

 沙凪は思わず一歩下がった。割れた音と後ろめたさで、心臓がドキドキする。

「何やってんだ、お前は」

 振り返った男が、またか、と言わんばかりにぼやく。

 だが沙凪が謝るより早く、事態は別の「またか」の方向へ進んでいった。

 割れたガラス片の下に広がる液体に小さな波紋が起きた。二重三重に続いた波紋は徐々に大きくなりながら広がっていく。水たまりが広がるにつれ、桃のようにきれいだった色が濃く変色していき、やがて完全な黒になった。

「下がれ」

 水たまりの向こうで神谷が身構える。沙凪は女の子と一緒に数歩あとずさった。

 細胞分裂するようにうごめいた水たまりが一度大きくうねる。

 水しぶきを飛ばして、石の塊が突き出てきた。それは人の頭くらいある拳だった。表面がゴツゴツした大きなフジツボで埋め尽くされている。床に手をついて体を押し上げるみたいにして、水たまりからイミューンが現れる。これまで見たどのイミューンよりも大きい。上背がある上に、ぱんぱんに空気を入れた風船みたいな胴体をしている。頭の形もおかしい。他のイミューンの頭は卵型をしていたが、目の前にいるイミューンはいびつな山型で、肩との境目もよく分からない。

 イミューンがのっそりと沙凪に近づく。太い足が床につくたび、いびつな頭が波打った。

 何か変だ、と思った時には、神谷がもう動いていた。

 死角から接近して足を振り上げる。衝撃でイミューンの肉と髪がぶるんと震えた。いびつな形をしていると思った頭は、ウェーブがかかった髪の毛だったのだ。

 違う。これは、イミューンじゃない。

「待って、神谷さん」

 言い終わらないうちに、何かが視界を横切った。

 ガラスの床に小さな血のしずくが飛び散る。

 神谷が後ろに飛びのく。その頬にはひと筋、裂傷ができていた。

 さっき見たガラスの金魚が、宙に浮いていた。ガラスのウロコを逆立て、威嚇するようにざわざわと波立たたせている。見せつけるみたいに広げた胸ビレの先だけが、赤く染まっていた。

 それを合図に、部屋中のガラス細工が震えだした。初めは風鈴程度だったけど、次第に大きくなり、ガシャガシャと今にもすべてが砕けそうな音になる。

 上を見れば、天井の悪趣味なシャンデリアが大きく揺れていた。揺れた拍子に天井にぶつかり、ガラス飾りがひとつちぎれた。そのまま、まっすぐ女の子の上に落ちていく。

「あっ」

 女の子が声を上げるのと、ガラス飾りが床で砕けたのは、ほとんど同じタイミングだった。女の子はとっさに身を引いたがよけきれず、プリーツスカートの裾が裂ける。

 女の子の顔がさぁっと青くなった。驚きで見開かれた目も、みるみる涙ぐんでいく。

 その途端、沙凪の中でカッと怒りがふくれ上がった。

「ふざけんな!」

 風鈴の大群に負けない大声で、沙凪は怒鳴る。

「この子は素直に謝ってるじゃない。なのになんなのその態度?」

 自分でも聞いたことがないきつい口調だった。体が熱い。言葉が次々にあふれ出てくる。でも何に対して怒っているのかはさっぱり分からない。他人の感情が無理やり注ぎこまれているみたいな感覚だった。

「あんたがどれだけ偉いか知らないけど、他人の人間性を否定する権利なんかどこにもないんだからね」

 なんなの、これ。

 腹話術の人形の中に閉じこめられたみたいに、自分の意志とは関係なく、口が勝手に言葉を吐きだしていく。体がまったく思い通りにならない。

 今までとは違う恐怖に、沙凪の目は神谷に助けを求めていた。

「神谷さん……」

 ようやくそれだけ声にだすことができた。だが神谷も、沙凪の身に何が起きているのか分からず戸惑っている。

 その時、ガラスの金魚が飛び上がった。

 反射的に手を伸ばした神谷が、金魚を床に叩き落とす。

 粉々になった金魚の破片が床に散らばった。

 それと同時に、沙凪の胸に刺されるような痛みが走った。比喩ではなく、一瞬、呼吸ができなくなるほど鋭い痛みだ。

 周囲にいたガラス細工がいっせいに神谷に襲いかかる。花が矢のように飛び、頭上からはビンが降ってくる。もちろん神谷は応戦する。

 空中で打ち砕かれたり、床に叩き落としされたり、よけられて壁に激突したり。無惨に砕け散ったガラスの残骸が、どんどん床に広がっていく。

 待って、ダメ。

 壊さないで。

 言おうとしても声が出なかった。ひとつ割れるたび、沙凪の胸を痛みが貫く。

 沙凪は耐えかねてひざをつく。すると、ガラス細工たちが沙凪を苦しめていると思ったのか、神谷はガラス細工を一掃しようとさらにペースを上げてしまう。

 違う。そうじゃないの。

 お願い、聞いて。

 思いが届かない苦しさと痛みで、涙がにじんでくる。

「僕は聞いてるよ」

 その声は救いのようにまっすぐ沙凪に届いた。

 信じられないような、すがるような気持ちで、後ろを振り返る。

「深水、君?」

 ガラスの床の上に、スーツ姿の深水が立っていた。すっかりネクタイもしめなれた年頃に成長している。

 急にガラスたちが大人しくなった。みんな深水の方を向いている。床にいた者たちは端に寄って、深水のために道を開けた。

「ちゃんと聞いてる。声にしなくたって分かるよ。ほら、一緒に行こう」

 そう言って深水は、手を差しだした。手の平の真ん中には、シルバーの指輪が載っていた。ガラスの輝きがあふれるこの部屋の中でも、ひときわ強くきらめいている。

 目が吸い寄せられる。

 呼吸も忘れて、指輪に見入ってしまう。

「そいつから離れろ!」

 神谷のはり詰めた声に、沙凪は顔を上げた。

 その時、何かが動いた。さっきは蹴られてもまったく動かなかった黒い人が、恐ろしい速さで巨体を回していた。大きな拳に、神谷が弾き飛ばされる。

「神谷さん!」

 飛ばされた神谷を目で追う。

 突如、目の前に闇が滑りこんだ。

 真っ黒な膜のようなものが、っという間に沙凪を包みこんでしまう。自分の手さえ見えない、完全な暗闇だ。

 光も、音も遮断された。ふっと地面が消え、体が前に傾いていく。急なことに動揺した沙凪は、バランスをとろうと手足をばたつかせる。

 ふいに、背後から温かいものが絡みついた。背中から首、胸にかけてを抱きしめられる。その途端に体から力が抜けて、水の中を浮いているような心地いい脱力感に満たされる。

「あいつには一生、沙凪の気持ちは分からないよ」

 深水の優しい声と吐息が、耳に直接注ぎこまれる。

「僕と一緒にいれば幸せだ。そうだろう?」

 脳がとろけるほどの多幸感が、体中を満たす。

 不安や恐怖といった感情は、すべて消え去った。

 ただ、背中に感じるぬくもりが心地いい。

 沙凪は静かに目を閉じ、深水の腕に身を委ねた。

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