第12話 坂の下の闇
部屋の中は、冷凍庫のように冷えこんでいた。肌がぴりっとはり詰める。吐きだした息が白くなった。
いよいよ廊下の光が届かないところまで来ると、命綱が切れたような心細さが襲ってきた。足をだした先に、床があるのかさえ分からないのだ。怖くて怖くてたまらない。
ふと、部屋の奥で何かの気配を感じた。ビクッと沙凪は動きを止める。
耳をすますと、空気の抜けるようなかすかな音が聞こえた。
何かいる。
恐怖と緊張で、震えが止まらない。
沙凪が体を動かすのに合わせて影が揺れ、何かがかすかに光った。
ゆっくり近づくと、足元で光を反射するいくつかの線が浮かび上がってきた。医療用のチューブか何かのようだ。ツタみたいに床や壁をはうチューブを目でたどっていく。部屋の奥に行くにつれ、束になり、絡み合っていく。チューブは、部屋の奥にいる何かの息遣いに呼応してかすかに震えていた。
沙凪は小さくつばを飲みこみ、目を凝らす。
徐々に暗闇になれてきた目が、チューブの束に埋もれた腕を見つけた。
それまでの恐怖も全部吹き飛んで、沙凪はその腕に飛びついた。
「オジサン」
腕は陶器のように冷たかった。
暗闇の中、手探りで男の状態を確認していく。背を壁に座った男の全身にチューブが絡みついていた。男の体を縫いつけるように、チューブの先端はがっちりと壁や床に埋めこまれている。沙凪がいくら力をこめてもはずれる気配がない。
「聞こえますか?」
声をかけるが、男は首を力なく垂らしたままだった。
沙凪は部屋の外を振り向く。廊下にはだれもいないが、目をそらしている間に突然何かが現れても不思議ではない。男がこんな状態では打つ手がないし、何も見えないどん詰まりの部屋には逃げ場もない。
やはり頭に浮かんだのは「どうしよう」だった。沙凪は男を呼びながらチューブに爪を立てる。あせりがつのり、泣きそうになる。
「お願い、起きて。オジサン」
「オジサンオジサンうるせえよ」
首を落としたまま、男は「頭に響く」とつぶやいた。すきま風のような弱々しい声だが、沙凪は安堵で頬が緩んだ。
「大丈夫ですか?」
「そう見えるか」
男の顔についた何かが、わずかに届く光で鈍く光る。それが汗なのか血なのかは分からないが、どちらにせよ男の
「どうやってここに?」
「エレベーターです」
男の目が開いた。小言のひとつやふたつ言われるだろうと覚悟したが、男は小さく息をついただけだった。あるいは声を荒らげる力もないのかもしれない。
「なら、これもどうにかしてみろ」
これ、と自分の腕に絡みついたチューブをあごで指した。
触れていると、男の体に巻きつくチューブは、脈動するように少しずつうごめいているのが分かる。皮ふに容赦なく食いこんでいて、かなり痛そうだ。
チューブに手を当てた沙凪は、目を閉じる。どのみち暗闇で見えなかったが、その方が集中できる気がした。
頭にかすみがかかり、神経が水を打つような静けさに包まれる。
お願い。この人を開放して。
支えを失った男の体が倒れた。沙凪は男の肩と背中に手を添え、体を起こす。寒さのせいか痛みのせいか、男の体はかすかに震えていた。
「兄ちゃん」
男の体がこわばった。
廊下に、さっき待合室ですれ違った男の子が立っていた。遊び相手を見つけたみたいに、期待に満ちた笑みを浮かべている。
「兄ちゃん。遊ぼ」
「近寄るな」
かすれた声で男の子の言葉を遮る。
沙凪の手の下で、男の背中が強くはり詰める。慌てて体を起こそうとするが、よろけて再び床に伏せる。
歩きだした男の子の足が、サッシをまたぐ。
「来るなっ!」
バンッ、と音をたてて部屋の戸が閉まった。
射しこんでいたわずかな光が絶たれ、部屋の中が完全な闇に包まれる。
何が起きたのか分からず、身構える。だけど何も起こらなかった。部屋の中にはふたり以外に何の気配も感じない。
「今のって、お前が閉めたのか?」
「分かり、ません」
耳のすぐ横から聞こえた男の声に沙凪がそう返すと、男は小さく「そうか」とだけつぶやいた。どこか、男はドアが閉まってホッとしているように感じた。
ふたりはしばらく、そのままじっとしていた。目がまったく役に立たなくなったせいで、息づかいや衣擦れの音がやけに大きく耳に響いてくる。
「これから、どうするんですか?」
「他に出口はないか?」
「見えませんよ、何も」
とりあえず壁を伝って部屋の中を調べてみようと、沙凪は壁に手をついて立ち上がる。
ところが、そこに壁はなかった。
「あぇっ?」
手が空を切り、そのまま壁があった方に倒れた。肩から一段下に落ちた沙凪は、そのまま腹ばいの状態で坂を滑り落ちていく。
「わ、うあ、わああああっ」
悲鳴が続かなくなった頃、突然地面が平らになった。勢いがついた体はそのまま数メートル転がって、ようやく止まった。
あたりは依然、何も見えない暗闇のままだ。
ようやく体を起こした時、尻をいきなり突き飛ばされた。
「あうっ」
「悪い」
遅れて滑り降りてきた男は、さほど悪びれた様子もなく言う。
沙凪は「あー」と「もう」が混ざった不平の声をもらしながら、尻と腰をさする。
「おい」
男の声で、何かが起きたことはもう分かった。顔を上げる。
暗闇の中で、ふたつの赤い玉が揺れていた。ふたつ、四つ、六つと、どんどん数が増えていく。ふたりはあっという間に、赤い目玉の群れにとり囲まれた。
「明かりをつけろ」
男が立ち上がる気配がした。
沙凪は必死に考える。
明かり、明かり、明るくできるもの。強くそれを思い浮かべる。
ひらめきとともに、パチンと上空で強い光が灯った。
赤い瞳は光にとけて消え、かわりに姿を表したのは無数のイミューンだった。イミューンたちは一様に、暗闇に浮かぶ裸電球をぼんやりと見上げている。
「突っきるぞ。邪魔なやつは肩をねらって突き飛ばせ!」
言うなり男は駆けだした。手近にいたイミューンにタックルし、その後ろにいたもうひとりのひざを正面から蹴り崩す。
倒れたイミューンを飛び越えた沙凪は、開いた道を突っ走る。必死に足を動かすことで、恐怖から気をそらす。一瞬でも立ち止まったら、冗談抜きで泣きだしてしまいそうだった。
「ぐぅっ」
背中の方で男の声がした。手足に数人のイミューンが絡みつき、身動きがとれなくなっている。
嘘、やだ、ダメ。これじゃまた振り出しだ。
沙凪は考えるより先に引き返していた。
「ぅ、うわあ、ああ!」
悲鳴に近い声を上げながら、一番手前のイミューンの肩を両手で力いっぱい突き飛ばした。当たりどころがよかったのか、上体を反らしたイミューンがのけぞり、男の右腕が自由になる。他のイミューンを振り払い、再び走りだした。
そうしてふたりでイミューンの群れの中をひた走った。戦いは最小限に、イミューンの腕や爪をかいくぐる。どちらかがイミューンに捕まりそうになったら、もう片方が助けに入り、どうにか前へ進み続ける。
男が倒したイミューンの横を通りすぎようとした時、足首をつかまれた。つんのめりながらもどうにか体勢を立て直したが、すぐさま別のイミューンに髪の毛を強く引かれた。
「放して!」
気づいて沙凪に近づこうとした男も、イミューンにとり囲まれる。
その時、地面が震動した。
「動くなっ!」
男の鋭い声が響く。
沙凪は、イミューンに体を引っぱられながらも、その場にとどまろうと足をふんばる。
世界が、変わる。
沙凪が目の当たりにするのは初めてだったが、すぐに分かった。
地震とはまったく違う、地面が波打つような揺れだった。揺れは徐々に大きくなり、闇が歪んだすき間から光が差しこみ、混ざり合っていく。
揺れが止まった瞬間、飛び石のようにふたりの足元だけ残して、床が落ちた。イミューンがいっせいに落下していく。
自分にまとわりついているイミューンを振り払った男は、残った数人も下に突き落とした。
丁度最後のひとりが落ちると同時に、細長い帯が等間隔で走る。ブラインドが閉まるようにそのすき間を埋めると、新しい床が出現した。
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