第11話 普通に見える病院
* * *
中は普通のエレベーターだった。白っぽい壁と床。白色の蛍光灯がさらに白さを引き立たせている。階数を指定するボタンはなかった。沙凪が乗っただけで勝手に動きだしたので、最初から行き先は決まっているようだ。
扉の上には、外と同じ、光る目盛りがついていた。数字は書いていないが、階数表示のようなものだろう。
一番左の目盛りが光ると、チン、という例の音がした。
沙凪が深呼吸するのを待って、扉が開く。
白い廊下がまっすぐに伸びている。
一瞬、また校舎に戻ってきてしまったのかと思った。だけど大きさは普通だし、手洗い場や掲示板のかわりに、廊下の両側にスライド式の扉が並んでいる。
病院だ。
沙凪はエレベーターから首だけだしてあたりを伺う。イミューンの姿はなさそうだ。沙凪は少しホッとして、廊下に足を踏み入れる。
沙凪が出てすぐに、エレベーターの扉が閉まった。扉の上の目盛りの明かりも消えてしまう。扉の周りには、やはりスイッチのたぐいは見当たらなかった。
退路を絶たれた。
上には行かないと女の子も言っていたので、元々あまり期待していなかったけれど、いざなくなるとやはり心細い。
こうなったら、進むしかない。
沙凪は周囲を警戒しながら、廊下を進む。
これまでと違って、ここにはきちんと天井があった。学校や公民館によくある、岩の表面のような波模様が入ったタイルがすき間なく並んでいる。エレベーターと同じく、蛍光灯の光が、ただでさえ白い壁や床をさらに青白く見せている。
窓の外も真っ白だ。濃い霧で覆われているらしく、窓から数メートルのところにある木ですらかすんでよく見えない。
横の廊下から突然、人影が現れた。
ビクッとした沙凪は慌ててあとずさる。
白衣を着た顔のない人は、角を曲がると大股で沙凪の方へ向かってくる。
大丈夫だ、イミューンじゃない。
けど、本当に安全か?
襲ってこないと言いきれるか?
この距離で襲われたら、沙凪ひとりで逃げきれるか?
白衣の人はどんどん近づいてくる。
沙凪はすぐにでも走りだせるよう身構えた。心臓の音がどんどん大きくなっていく。
だがその人はあっさりと、沙凪の横を通りすぎていった。
いつの間にかにぎりしめていた手が、じっとりと汗ばんでいた。指も震えている。
「ちょっと、ビビりすぎかな」
そのあとも、顔のない人と何人もすれ違った。医者や看護師、点滴を引きながらゆっくり歩く患者など、徐々に人数が増えていく。けれどだれも沙凪に関心を示すことはなかった。
沙凪は気を緩めず、病室をひとつずつ覗きこみながら廊下を進んでいく。扉の開いた部屋はどれも同じ大部屋で、きちんと整えられたベッドが数台ずつ並べられていた。
廊下の先には待合室があった。並んだ長イスに、顔のない患者たちが座っている。
沙凪はゆっくりと待合室を横ぎる。
正直、拍子抜けだった。
男にさんざんおどかされた上、男をエレベーターに引きずりこむ大量のイミューンを見ていたので、下は地獄のような場所だと思っていた。しかし実際来てみれば、今までの記憶の部屋と変わらない。むしろ、穏やかなくらいだ。
だが、沙凪はなんとなく落ち着かなかった。
そもそも沙凪は、病院に思い入れなどあっただろうか。大きな病気もケガもしたことがないから、病院の世話になったことは数えるくらいしかないはずだ。
なのに、ここは他の記憶の部屋に比べて奇妙なほどリアルだ。これまでは必ずあった懐かしいにおいがない。なんていうか、ドラマのセットに迷いこんだみたいな感じだ。もしかして、来る場所を間違えただろうか。
ここでぐずぐず考えていても仕方がないので、とりあえず、男と出口の両方を探すことにした。先に出口を見つけておけば、男を見つけたあとに脱出しやすくなる。探した上でここに男がいないと分かったら、移動するまでだ。イミューンがいないのだから、あせらず捜索すればいい。
沙凪の前を、男の子が通りすぎた。
幼稚園生くらいだろうか。両手には恐竜のおもちゃをにぎっている。スリッパをペタンペタン鳴らして歩くその子の楽しそうな顔を見て、沙凪は驚いた。
その子には顔があった。
くせっ毛なのか、毛先がくりくりと巻き上がっている。服装からして、入院患者には見えない。ならば、お見舞いだろうか。沙凪は周囲を見回すが、保護者らしき姿は見えない。
視線を戻した時、男の子の姿はなかった。
もう一度あたりを見回してみるが、どこにも姿はない。スリッパを引きずる音も聞こえなかった。
沙凪は、しばし呆然としてしまう。
あの子はなんだったのだろう。見覚えはない。けど、深水の名前を思いだすまでずいぶん時間がかかったことを考えれば、今は思いだせないだけかもしれない。少なくとも、顔があったからには、きっと重要な人物のはずだ。
沙凪は、男の子が来た方向へ歩いてみた。
さっきと同じように病室の並んだ廊下だ。だが奥に行くつれ、暗くなっている。今までとは明らかに違う雰囲気に、沙凪は確信した。
この先に、何かある。
心臓が静かに高鳴るのを感じながら、廊下を進む。
人気はなく、不気味なほど静まり返っていた。廊下の両側に並ぶスライド式の扉は開け放たれ、中のベッドが見える。ベッドはどれも空だ。
奥へ進むにつれ、蛍光灯の明かりは徐々に弱くなっていった。病室の窓にも遮光カーテンが引かれていて、外から光が入ってくることもない。
廊下はやがて、夜のように暗くなった。
真っ暗な廊下の突き当りに、扉があるのがかろうじて見えた。扉についている小窓はすりガラスになっていて、中の様子を見ることはできない。引き戸の取っ手に触れると、痛いほど冷たかった。
やっぱり、そうだ。ここには何かある。
沙凪は深呼吸をして、取っ手を一気に横に引く。
流れ出てきた冷気が、沙凪の足を包んだ。
部屋の中は完全な闇だった。廊下から射すわずかな明かりのおかげで、床があるということだけは分かる。それ以外は闇に飲みこまれて何も見えない。
胸の奥の方で、度胸がくしゃくしゃに縮み上がっていく。
沙凪は慌てて、かぶりを振った。
嘘でもいいから、できると言え。
「大丈夫。できる」
小さくつぶやき、部屋に足を踏み入れる。
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