第13話 普通じゃなくなった病院
暗闇になれていた目に光が突き刺さった。
薄くまぶたを開け、少しずつ光にならしていく。
白く光沢を放つ床から視線を上げると、そこにはさっきと同じ病室の扉が並んでいた。
「戻ってきた?」
「とっとと出るぞ、こんな場所」
安心する間もなく、走りだす。
また襲われるのではないかと警戒したが、イミューンは見当たらなかった。すれ違う顔のない人たちも、ふたりには興味を示さない。
沙凪にはむやみに扉を開けるなと言ったくせに、男は目に入った扉は手当り次第に開けようとした。だがどの扉も、壁の一部になってしまったみたいにびくともしない。
「クッソ」
廊下のすべての扉に拒まれた男は、いらだちまぎれに扉を蹴る。スライド式のはずなのに、蹴られても揺れすらしなかった。
肩で息をしながら扉に寄りかかった男の顔を、幾筋もの汗が流れ落ちていく。かなり無理をしているはずだ。
廊下の先は、待合室があった。そっちを見た沙凪は、違和感に気づく。
広い待合室の真ん中に、螺旋階段がそびえていた。中央に白い柱が通っていて、鉄製の細い手すりつきの階段がそれに巻きついている。さっきはこんなものなかったはずだ。
けれど、記憶の部屋と部屋をつなぐ階段は常に上を向いている。ならば、ここでも上を目指せばいいのかもしれない。
「あれはどうですか?」
そう悪くない案だと思ったのだが、男の返事には時間がかかった。
螺旋階段をじっと見つめた男は、やがて自分自身を納得させるみたいに小刻みにうなずいた。
待合室を突っきって、階段の下にたどり着く。
けれどそこまで来て、沙凪の足が止まった。
のぼれない。
理由は分からないけど、本能がこの階段を拒絶している。体の芯が震えるほど恐ろしいのに、足の裏が床にぺったりとはりついて逃げることもできない。男になんて説明すればいいだろう。沙凪は横にいる男の顔を盗み見た。
男も、階段を見上げたまま硬直していた。息をのみ、青白い顔をしている。
どうして男がこんな表情をするのだろう。
沙凪の戸惑いは不思議な音に遮られた。
階段の上の方から、飛行機が低空飛行するみたいな音が近づいてくる。
次の瞬間、落雷のような衝撃が、天井から床までを貫いた。
沙凪の口から短い悲鳴がもれる。
吹き飛ばされた破片や粉塵が弾丸のように降り注ぐ。
おそるおそる目を開けると、目の前に、黒く太い柱状のものがそびえ立っていた。表面は鈍い光を放っている。粉塵のせいで全体はよく見えないが、床から天井まで貫けるほどの長さがあるようだ。
ふいに柱が動いた。のっそりと持ち上がり、やがて、先に向かって細くなっていく尖端が、天井の穴に消えていく。床には、原型をとどめないほど押し潰された階段の残骸が散らばっていた。
「あ、あの、これ……」
声が震えた。
再び、上の方で空気を震わせる音が響く。
男が頬を引きつらせた。
「珍しく、意見が合いそうだな」
走りだした直後、ふたりがいたところに黒い柱が突き刺さった。
床が跳ねて、内蔵がふわりと浮き上がる。
こんな大きな相手、逃げる以外に手はない。待合室を引き返し、廊下を走る。
再び持ち上がった柱は、ふたりを追いかけるように振り下ろされる。砕かれた天井のコンクリートが床を転がりながらふたりに迫ってくる。
廊下の角を曲がると、イミューンの大群が待ち構えていた。
「邪魔だ、どけ!」
男が声をはり上げ、スピードを上げる。さっきみたいに無理やり突破するしかない。沙凪もヤケクソでついていく。
その時、行く手を遮るイミューンの群れに、黒い柱が突き刺さった。ふたりは思わず足を止める。
柱が持ち上がると、今度は少しふたりに近い位置に落ちてきた。柱はイミューンがいようとお構いなしのようだ。残ったわずかなイミューンがクモの子を散らすように逃げていく。
柱が床に突き刺さっているすきに、男は横をすり抜ける。沙凪も続いた。
「あっ」
足を載せた
気づいた男が急ブレーキをかけて反転する。助走をつけて跳躍すると、天井からぶら下がっていた鉄筋に飛びついた。走った勢いと全体重をのせた鉄筋が、柱にめりこむ。ギザギザに削れた先端が突き刺さり、黒い霧が噴きだした。
すさまじい
男に抱き起こされ、沙凪は再び走りだす。
「他に出口はあるんですか?」
「分からん」
「でも、白い扉はどこかにあるはずですよね」
突然、男が歩速を緩めた。
驚いた沙凪が振り返ると、男は完全に足を止め、後ろを向いていた。
「どこかにあるなら、ここに呼べばいい」
この状況には不釣合いなほど冷静な声音だった。
柱の悲鳴のようなものはまだ聞こえていた。傷口から噴きだした霧で、柱の周囲には黒くもやがかかっている。
「少しなら、時間を稼げるかもしれない」
「でも……」
あまりに無茶だ。コンクリートの天井を豆腐みたいに突き崩す相手に、武器もなしでどう戦うと言うのだ。
だが男の背中はもう覚悟を決めていた。
「他に方法はない」
沙凪の返事を待たずに、男は柱に向かっていってしまう。
柱が身をよじり、刺さっていた鉄筋を弾き飛ばした。鉄筋は、身を屈めた男の頭をかすめ、矢のように壁に突き刺さった。
迷っている時間はない。もたつくほど、生存の可能性はぐんぐん減っていく。
沙凪は目を閉じ、一度ゆっくり深呼吸する。
落ち着け。
集中しろ。
扉をここに持ってくるのだ。
何度も見たあの両開きの白い扉を、頭の中に思い描く。
ふと、背後で何かの気配を感じた。
薄いガラスが割れるような音がし、振り返ると、まばゆい光の枠がそこにあった。
光のベールが空気にとけて消えると、何もなかったはずの壁に扉が現れた。
なんで。
それはレバー型のノブがついた一般的な片開きの扉だった。
深い色の木目が美しく表面を流れ、半円の曇りガラスが埋めこまれている。表面の塗装がところどころはげた金色のノブに触れてみる。侵入を拒むような、鋭い冷たさだった。
違う、これは私の扉じゃない。
ドン、と建物が大きく揺れた。
「行け!」
扉に気づいた男がまっすぐに走ってくる。
「違うんです、これ……」
言葉に迷っているうちに、男がドアを開けてしまう。向こう側は暗いが、かすかに空のようなものが見えた。
「何してる」
扉の向こうに片足を踏み入れた男が「早く来い」と腕を振る。背後では、黒い柱が持ち上がり天井の上へ消えていくのが見えた。
今までの扉とは明らかに違う。
だけど、今は気にしている余裕はない。
沙凪は扉に駆けこんだ。
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