第7話 迷路の博物館

 それからふたりは、ほとんど言葉を交わさなかった。

 かれこれ二時間くらいのぼり続けていると思うが、足の疲労が思ったほどでもないのは、やはりここが夢の中だからなのだろうか。

 ようやく現れた扉を、沙凪は無言のまま開く。

 暗い部屋だった。

 壁も床も黒くて、壁にぽつりぽつりとオレンジ色の光が灯っているだけ。さっきの校舎と同じく天井は穏やかな青空だが、部屋全体が暗いこともあって、さっきよりも一層白々しく見える。

「博物館みたいですね」

 オレンジ色の光の下には、茶色く変色した能面や、古びた着物や掛け軸が飾られていた。

「お前、こういうのが好きなのか?」

 背中を丸めた男が、興味なさそうに能面を覗きこむ。

「芸術とか歴史はさっぱりです」

「だろうな」

「はい?」

 沙凪が聞き返すと、男は「ひとり言だ」と顔をそらした。

 展示物をぼんやりと眺めながら部屋を進む。壁と展示パネルで細かく仕切られた通路はくねくねと曲がり、枝分かれしている。

 少し歩いたふたりは、黒い壁に、見覚えのある白い扉がはめこまれているのに気がついた。扉は開いている。どうらや元の場所に戻ってきてしまったらしい。

「もし他の道もすべてこんな調子だったとしたら、厄介だぞ」

 扉の右方向にある通路を進むと、今いる通路を飛び越えて、左の通路につながるということになる。これでは方向も距離感もまったく頼りにならない。自分の夢ながらめちゃくちゃだ。

 それからふたりはしらみ潰しに通路を歩いた。扉のある通路を基点に、左右にいくつもの道が伸びている。しかし、そのどれを通っても扉がある通路に戻ってきてしまう。真っ黒な壁も、展示物も、どれもよく似ていてまったく目印にならない。だんだん、扉の場所に戻ってきても、本当に戻ってきたのかさえ自信がなくなってくる。

 何十回目にして、今までと違ってなかなか扉に戻らないルートに当たった。このままいけば出口が見つかるかも。そう期待し始めたところで正面にあの扉が現れ、沙凪はついにその場に座りこんでしまった。

「あれだけ歩いたのに」

「他に出口があるってことか」

 あたりを観察した男が、壁と同じ色の片開きの扉に気づいた。向こう側を警戒しながら、慎重に扉を開ける。中にはモップや掃除機しかないただの物置だった。

「他のドアも探してみろ。だが一気に開けるな。何か気になるものがあったら呼べ」

「ちょっと、休憩してもいいですか?」

「好きにしろ。勧めないがな」

 突き放すような男の言葉に口をとがらせた沙凪は、小さく文句をこぼす。

「老体は労った方がいいですよー」

「聞こえてんぞ」

 ドキッとした沙凪は、引きつった顔でそっと男の方を見る。ところが釘を刺した男は、もう沙凪に背を向けてすたすた行ってしまっていた。

 はあ、とため息をつく。

 同じだけの距離を歩いて、どうして男はこんなにも元気なのだろうか。きっとこの男はこれまでも、色々な問題を蹴散らして、自分だけの力で前へ突き進んできたのだろう。この男のそばにいると、普段からやわな自分が、さらに軟弱に思えてくる。

「私、何やってんだろ」

 重たい腰を上げて歩く。

 何気なく壁に添えた手が何かに触れて、沙凪は立ち止まった。壁をなでると、丁度指先が引っかかるくらいのくぼみがあった。表面は冷たくてつるつるしているが、完全に壁と同じ色で、見ただけでは気づかなかった。

 くぼみに指を引っ掛け、そっと横にスライドする。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 細く開いたドアのすき間から、目が痛くなるくらい白い部屋が見えた。床は磨き上げられ、部屋の真ん中にはぱりっとしたシーツで覆われたベッドが置かれている。開いた窓から吹きこむ風でゆったりとカーテンが揺れている。

 いったんドアを閉じ、沙凪は男を呼んだ。

「なんか、なんか変です!」

 通路の先の方にいた男が駆け足で戻ってくる。

 もう一度、ドアを開ける。

 強い湿気とともに、風に乗った雨が吹きこんできた。

「なるほど、確かに変だ」

 男がつぶやく。

 目の前の光景に、沙凪はしばらく硬直する。沙凪の見た「変」と今の「変」があまりにも違っていたのだ。

 扉の向こう側は、大雨だった。

 男は躊躇せず雨の中に踏みこんでいく。大粒の雨は、カーテンのように一瞬で男の姿を隠してしまった。

 沙凪も慌てて追いかける。一瞬で髪も服もずぶぬれになり、肌にぴったりはりついた。叩きつけてくる雨粒と顔を流れる水で、まともに目を開けていられない。アスファルトに叩きつけた水が靴の中に入りこんで、ぐじゅぐじゅと音をたてる。

 雨の向こうには、古風な日本家屋が並んでいた。木の壁と屋根瓦の目立つシンプルな作りで、同じようなたたずまいの家が道の両脇に何軒も連なっている。

 沙凪は、少し先に黒い塊が転がっているのを見つけた。男も気づいたらしく、少しだけ歩速を緩めた。

「なんだ、これ?」

 地面に転がっていたのは、黒い革カバンだった。

 男がそっと拾い上げると、ぬれてずっしりと重たくなっていたカバンから、ペンやハンカチなどがこぼれ落ちた。すでに中までぬれていたらしく、文庫本は倍近い厚さにふくれ上がっていた。

 それを見た途端、沙凪の中で何かが一気にあふれてきた。

 強い怒り、悔しさ、そして同情的な思い。それらが絡み合い、体の内側で暴れだす。

 胸が痛い。

 どこからか、クスクスという笑い声がする。

 雨のすき間をかいくぐって、まっすぐ耳に入りこんでくる。

「どうした」

 音の発生源を探す沙凪を、男は怪訝な顔で見ている。男には聞こえないのか。だが、明らかな悪意を持ったその笑い声はどんどん増え続けている。すぐそこから聞こえてくるのに、どこを向いても背後に気配を感じる。

「出てきなさい!」

 沙凪は雨に向かって言い放つ。自分でも信じられないほど強い声だった。

 言ったところで出てくるとは思えなかったが、言わなければ何かに負けてしまうような気がした。

 こんなことで屈してはいけない。

 あんなやつらに負けてはいけないのだ。

 強く自分を律しようと、拳をにぎりしめる。

「こんなことをしても無駄。私は負けない」

 あいつらに負けてはいけないのだ。

 あいつらにだけは。

 頭の中でだれかが叫ぶ。

 でも、あいつらって、だれだ?

 水面に浮いたカバンが脚に当たった。そこでようやく、沙凪はひざ下まで水に浸かっていたことに気づいた。雨はさっきよりも勢いを増している。

 次の瞬間、何かが脚に巻きついた。

 声を上げる間もなく、すさまじい力で水の中に引き倒される。

 ひじと尻を地面にぶつけ、鼻に水が入った。体を地面にこすりながら水中を引きずられる。目を開けるが、水は濁っていて自分のひざも見えない。恐怖に混乱した口から空気がもれ出ていく。

 ダメだ、負けちゃいけない。

 こんなことで屈してたまるものか。

 内から湧き上がる得体の知れない力を借り、アスファルトに手をついて、なんとか体を起こす。

 水面に突き出た手を、何かがつかんだ。腕が強引に引っぱられ、ようやく顔が水から上がる。

「動くなっ」

 男が水の中に向かって刀を突き立てる。

 刺されたそれは獣のような声を上げ、沙凪の脚を放して水の中に消えていった。

 傷口から出たらしき黒いものが水に漂っている。気味が悪くて、沙凪は足を引っこめてそれから離れた。

「ここじゃ身動きがとれない。水から上がるぞ」

 水位が腹のあたりにまで上がってきた。男の肩に借り、塀を伝って家の屋根の上に登った。だがここからどうすればいいのだろう。道はすべて川のようになっているし、入ってきたドアは水の底だ。他へ通じそうな扉も見当たらない。

「来たんだね」

 振り返ると、例の女の子が微笑んでいた。

 宙に浮いた状態で。

 屋根の向こう側には空が広がっていた。彼女の背後と足元には見渡す限り雲が広がり、強い風にお下げ髪と制服のプリーツスカートがなびいていた。

 沙凪は手を伸ばしてみる。

 雨が切れ、手首から先を冷たく強い風がなめた。

 大雨で川のようになった道と、一面の雲海が、屋根を隔てて隣り合っている。普段なら驚くか笑いだすところだが、今はそんな余裕もなかった。

 女の子が手招きする。

「早く、こっち」

 沙凪は吹きつける風を手で遮りながら声をはり上げた。

「どうやってそっちへ行けばいいの?」

「ただ踏みだせばいいんだよ」

「でも、どうやって」

「早く早く」

 女の子はどんどん離れていく。この何もない空を、どうやって進めというのか。

「行くぞ」

 今にも虚空へ踏みだそうとしていた男を、沙凪は慌てて引き止めた。

「ま、待ってください! ここを、行くんですか?」

「他に道はない」

「でもこれは道じゃないです」

 言葉を遮るように、水しぶきが上がった。水面を突き破って飛んできた何かを、男が刀で受ける。ギン、と硬質な音をたてて弾かれたそれは、黒い帯に見えた。全貌が見えないうちに、すぐに水中へ戻ってしまう。

「あの子は来いと言ってる。あの子が今まで俺たちに危害を加えたか?」

「そうですけど……」

 沙凪はおそるおそる屋根の際まで行く。高速で流れる灰色の雲と、うなる風の音に、体が縮み上がった。全力であとずさる。

「無理無理無理無理、絶対、無理ですっ」

「じゃあどうするんだ。ここにいたって、いずれやられるぞ」

「待って、待ってください」

 手が、ひざが、唇が、震える。

 ここを飛び降りるなんて、どう考えても自殺行為だ。いくらここが夢の世界だと言っても、感覚は現実そのもの。自分には絶対できない。沙凪はいつも通り鈍くさい凡人で、夢の中だからといってすごい力があるわけでもない。刀をだせたり、触れずに蛇口を回せたとしても、空は飛べない。

「もういい、行くぞ」

 男が沙凪の腕をとり、乱暴に屋根の端まで引いていく。沙凪は全力でその手を振り払った。

「待ってっ」

「いい加減にしろ!」

 いらだちを隠さない男に、沙凪は一気にまくし立てた。

「む、無茶言わないでください! 私にはできません。無理です!」

 自分の無力を本気で主張する情けなさに、沙凪は泣きたくなってくる。だが無理なものは無理だ。

「お前、そうやってなんでも逃げてきたんだろ」

 沙凪を見つめていた男の目が、いらだちから呆れへと変わっていた。

「……え?」

 声がかすれる。

「嫌なことから全部逃げて、自分には無理だって目をそむけてきたんだろ」

 ただでさえ恐怖で縮み上がっている心臓を、にぎり潰されたような気がした。

 沙凪が言葉を失っているのをいいことに、男は続ける。

「そんなんだから、お前はここにいるんだ」

 なんで、どうしてそんなことを、この男から言われなければならないのだろう。今日初めて会ったはずのこの男が、沙凪の人生の何を知っているというのだ。

 そう思うのに、何も言い返すことができない。

 しぶきを上げて、黒い帯が飛んできた。

 男が再び刀で受け流したそれは、帯ではなく髪の毛の束だった。空中へ飛び上がった人魚の髪が、男に向かって長く伸びている。人魚といっても、おとぎ話のような可憐かれんさは微塵みじんもなく、ぬれた髪の毛がはりついた顔は狂気の笑みに満ちていた。ヌメヌメと不気味に光る体を宙で踊らせた人魚が、大きな尾ヒレを振り上げる。

「クソッ」

 タックルするみたいな勢いで、男に抱きかかえられる。

 体が傾き、足が屋根から離れる。

 雨がやんだ。

 視界に灰色が広がる。

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