第8話 砂浜のエレベーター

 灰色の雲の中を、ぐんぐん降下していく。

 いくら手を伸ばそうと、足をつっぱろうと、つかまれるものは何もない。虚空に投げだされた体は、なす術もなく落ちていく。

 悲鳴が止まらない。口の中が一瞬でからからになる。

 風圧で開かない目から、先程までこみ上げていた感情が別の涙となってあふれ出た。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。こんなの嘘だ。

 こんなめにあうなんて。

 どうして私が。

 時間を戻したい。

 全部なかったことにしたい。

 急に視界が明るくなった。

 雲を突き抜け、視界が青に染まる。

 でも、不思議な既視感があった。

 この景色を見たことがある。この恐怖も、足場がない心細さも、後悔も、覚えがある。

 いつのことだ。どうしてそんなことになったのだ。

 それを思いだすよりも、海面に叩きつけられる方が先だった。

 バンッ、と膜を突き破るような音とともに、浮遊感に包まれた。次いで襲ってきた息苦しさと、肌を刺す水の冷たさに沙凪はもがく。

 やっとの思いで水面に顔をだした。少し離れたところに見えた陸を目指し、腕で水をかく。服が体に重たくまとわりつくが、どうにか顔だけは水上に上げておく。

 波に押し流されながら泳ぐうちに、つま先に地面の感触があった。初めは飛び跳ねるように、次第にしっかりと足をつけて歩けるようになる。

 岸にたどり着いた沙凪は、体を浜に投げだして、しばらくそのまま息を整えた。頭がずきずきする。体の力を抜こうとしても、全身がこわばって、震えが止まらない。

 顔にまとわりつく髪と、口の中の塩辛さを鬱陶うっとうしく思える余裕が出てきた頃、ゆっくりと体を起こした。体にはりついた砂がはらはらとこぼれ落ちる。

 長細い島のような場所だった。浜に上がってほんの五メートルも歩けば、再び海にぶつかる。そのかわり、白砂の浜は細長くどこまでもまっすぐ伸びており、地平線の先にも終わりは見えない。両側を囲む穏やかな海の向こうにも何も見えなかった。

 沙凪の目の端で何かが動いた。体を引きずりながら浜に上がった男が、力尽きたように倒れこむ。

 沙凪はなんとか立ち上がり、砂に足をすくわれながら男のもとへ走る。

「大丈夫ですか」

 返事はないが、ぬれた男の背中は呼吸のたびに大きく上下している。沙凪はそっと男の肩に触れた。

 その手はすぐさま弾かれた。

 真っ赤に充血した目ににらまれ、沙凪は言葉を失う。

 男はふらふらと体を起こした。短い髪から水を滴り落ちる。

「……ざけんなよ」

 口の中に残っていた海水と一緒に言葉を吐き捨てる。

「どこのだれかも分かんねえやつの夢に突然引きずりこまれて、手貸してやろうとした結果がこのザマだ」

 男の横顔が、だんだん別人のそれに見えてくる。こめかみの血管を浮き立たせ、顔には疲労が色濃く表れている。

「つき合わされるこっちの身にもなれ。いくら無理だできないとわめいたってな、ここには逃げ場なんかねえんだよ!」

 これまでにない剣幕に、沙凪は黙ってその言葉を聞くしかなかった。

 それが本音なのか。

 沙凪の夢に巻きこまれていい迷惑だと思っていたのか。

 男はこれまで何度も沙凪を守ってくれた。色々言われはしたけど、それでも沙凪を見捨てなかった。だから男を信じようとしてきた。

 でも本当は、自分がここから出たいだけだったのかもしれない。

 その時、沙凪の目が、男の背後にある扉を見つけた。

 鉄製の重厚な二枚扉。扉の上に定規のような目盛りがついている。いつからあったか分からないが、もうそんなことどうでもよかった。

 沙凪は男の横をすり抜け、エレベーターへとまっすぐ進む。

 気づいた男が声を上げる。

「おい、何してる、よせっ」

 その命令口調が、どうしようもなくしゃくさわった。

「どうせ全部夢なんでしょ。だったら、あなたもこのバカげた夢の一部ってことです」

 夢の言いなりなんかごめんだ。沙凪は足を速めた。

 後ろで男が体を動かす気配がしたが、追いかけてくる足音は遅い。

「待てっ」

「私に指図しないで!」

 もう何も言わないで。

 命令しないで。

 エレベーターの前で振り向き、今までで一番の声をはり上げる。

「私はっ――」

 チン、と乾いた音が響く。

 背後でエレベーターのドアが開いた。

 振り返るより早く、何かの影が沙凪を覆った。

 扉から、我先にともみ合いながら複数のイミューンが飛びだしてくる。

「逃げろっ!」

 男が沙凪の腕をつかみ、エレベーターから引き離す。

 男に放り投げられた勢いのまま、沙凪は走った。

 だが、一向に追ってくる気配がない。

 何かおかしい。

 足を止めた沙凪は、後ろを振り返る。

 沙凪の方を見ているイミューンは一体もいなかった。この場にいるすべてのイミューンが男をねらっている。

 腕を振った男が、自分の拳に振り回されてバランスを崩す。男の動きは、青白い高校生が生まれて初めてケンカをしているみたいに、ひたすら情けない。それでも男は立ち上がり、イミューンにつかみかかっていく。

 なぜそんなに必死に戦うのだろう。

 夢から出るため?

 命が惜しいから?

 呆然とたたずんでいた沙凪に、男が怒鳴る。

「何してる、走れ!」

 男の注意がそれた一瞬、イミューンの一体が大きなあごを広げて男に迫った。

「オジサンッ」

 男が振り向いた時には、イミューンの牙が肩に突き刺さっていた。男の顔がゆがむ。

 沙凪の呼吸が止まる。

 さらに動きが鈍った男の脇を、別のイミューンの爪が裂く。ひざをついた男に、イミューンが押し寄せていく。引き倒された男は必死に抵抗するが、数の前にはなす術もない。アメ玉にアリが群がるように、男の姿はあっという間にイミューンにとり囲まれて見えなくなった。

 肉を打ち据える鈍い音と、男のわずかなうめきが、沙凪の耳を支配する。

 目をそらすことができなかった。ただ自分の肩を抱き、まばたきひとつせずにその光景を見つめた。吸った息が吐きだせなくて、意味もなく口が開いたり閉じたりする。

 しばらくすると音がやみ、イミューンたちの動きも大人しくなった。幾重にも重なったイミューンの脚の向こうで、砂に沈みこんだ男の体が垣間かいま見えた。

 動かなくなった男を、イミューンたちはエレベーターへ引きずっていく。男を確保したことで満足したらしく、やはり沙凪には見向きもしない。

 拘束された男の、砂と血にまみれた顔が見えた。

「オジサン!」

 すべてのイミューンがおさまると、エレベーターの扉が閉じた。

 扉の上の目盛りがひとつだけ光っていた。それが消えると、かわりに隣の目盛りが光る。光はひとつずつ左にずれていき、やがて左端で止まった。

 あたりは不気味なくらいの静寂に包まれた。浜にはおびただしい数の足跡と滴り落ちた血のしずくだけが残されていた。

 沙凪はその場に立ち尽くす。

 どうしよう。

 男が、連れていかれた。

 自分のせいだ。

 どうしよう。

 思考が同じところをぐるぐる回って、何を考えられない。

 沙凪に分かるのはただひとつ。今の自分が直面している、抗いようのない現実だけだった。

 今の沙凪は、ひとりきりだ。

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