第6話 大きな廊下

 イミューンの大群に背を向け、一目散に逃げる。

 文字通り廊下を埋め尽くすイミューンは、地鳴りのような足音を響かせながらふたりに押し寄せてくる。

「どうするんですか!」

「どうもできねえだろこの数は!」

 今回ばかりは男も策がないらしく、後ろも見ずひたすら走る。でも廊下はまっすぐな一本道で、これまで横道のひとつもなかった。このままじゃ、いずれ追いつかれてしまう。

 その時、沙凪の目に、手洗い場の下の戸棚が飛びこんできた。あれくらいのサイズなら沙凪でも開けられるかもしれない。思いつくと同時に、飛びついていた。

 男が何か言った気がしたが、戸を開く音にかき消される。

 木製の引き戸は思ったよりもずっと軽かった。

 暗い棚の奥にひそんでいたイミューンが、いっせいに振り返る。

 ぞっとした瞬間、中からイミューンが飛びだしてきた。凍りついた体が横に吹っ飛ばされた。

 床に倒れた沙凪の目に、戸棚から出てきたイミューンが、やはり勢い余って反対側の壁に激突するのが見えた。おたがいの体が絡み合って、なかなか動きだせないでいた。

 沙凪に覆いかぶさるようにして床に手をついていた男は、すぐさま立ち上がり刀を抜く。しかし男は戸を背に、刀でイミューンを牽制することしかできない。

 両側をイミューンにはさまれ、進むことも戻ることもできなくなっていた。

「言い忘れたけどな、扉はむやみに開けるんじゃない」

 沙凪に向けられた皮肉のはずだが、男自身のうかつを恨むような響きが強かった。

「こうなった以上やるしかない。お前、どうにかしろ」

「え……ええっ?」

「時間は稼ぐ。あいつらまとめてなんとかできる方法を考えろ」

 無茶振りにもほどがある。第一、これだけの数のイミューンを相手にどうやって戦うというのだ。

 まごついていると、男に怒鳴られた。

「嘘でもいいからできると言ってみろ! そうすりゃ少しはできる気になる!」

「は、はいっ」

 沙凪が返事をすると、男は飛びかかってきたイミューンに斬りかかる。それを合図にイミューンがいっせいに動きだした。左右からイミューンの壁が迫ってくる。

 男が弾き飛ばしたイミューンの爪が、沙凪の頭の上をかすった。ひゅっと恐怖でのどが引きつり、全身から血の気が引く。

 恐怖で立ち上がれない。関節が震えて、体がばらばらに崩れ落ちそうになる。

「吹っ飛ばすとか落とすとかなんでもいい! 急げ!」

 男に急かされ、沙凪は体を縮こまらせたまま耳を塞ぐ。

 集中しろ。とにかく考えるのだ。

 この数の敵をいっぺんに倒せる方法。例えば、もっと大きな武器をだして男に渡す。具体的には何がいい? 巨大なハンマーとか。バカ言うな、漫画じゃないんだ。あるいは、大きな岩を頭上にだしてまとめて押し潰す。でもこれじゃ男や自分を巻きこみかねないし、道を塞いでしまう。床に穴を空けるのも同じ危険がある。あとは、あとは……。

 突如、目の前に男の体が降ってきた。バランスを崩した男は近づいてくるイミューンを蹴飛ばし、すぐに体を起こし臨戦態勢を整える。

「早く、しろっ」

 男の目には一切余裕がなく、額にはびっしりと汗が浮いていた。こうしてもたもたしている間も、男は消耗していくのだ。

 ダメだ。どう考えたって、この数のイミューンを相手に勝てるはずがない。男が倒れたら、沙凪だけでここを切り抜けることができるか? もっと無理だ。考えはどんどん悪い方向へ転がり落ちていく。

「もういい! あれ使え!」

 しびれを切らした男が頭上を指さす。視線を上げた沙凪の目に、オレンジの断面が飛びこんできた。

「あ、あれを、どうするんですか」

「こいつら押し流すんだよ、他にあるか!」

 そうか、倒すのが無理でも、逃げられる程度に引き離せばいいのだ。

 やるしかない。

 涙をこらえ、なかばヤケクソで目を閉じる。

 あちこちに散っている集中力をかき集め、必死にイメージを結ぶ。蛇口の上についたバルブの冷たさや固さを思い浮かべるのだ。自分の手がそれをひねる感覚を思いだす。

 回れ、回れ、回れ、回れ、回れ、回れ。

 祈るように念じると、頭上でごうごうとすさまじい音がした。見上げると、蛇口の大きさよりも太い水の柱が噴きだしている。もっと。もっと早く。

 沙凪は壁に手をついて立ち上がると、手洗い場からあふれた水が一筋、流れ落ちてきた。

「オジサン!」

 上を見た男はすぐに状況を理解し、沙凪のそばへ駆け寄ってくる。

 ごうごうと音をたてる水は勢いを増し続け、流し一面が幅の広い滝のようになった。滝の下敷きになったり、床に広がる水の勢いでイミューンが少しずつ押し流されていく。

 滝の裏側を進んだふたりは、さっき沙凪が開けた戸の中に逃げこんだ。

 戸の中は一段高くなっていたが、水位はあっという間にひざまで上がってきた。このままではここもすぐに満ちるだろう。水は沙凪が想像した以上の勢いになっていた。もう水を止めた方がいいかもしれないが、走りながらでは集中できない。

「扉だ!」

 男の声に顔を上げると、戸の奥に、あの白い両開きの扉がぼんやりと輝いていた。

 水を蹴散らしながらふたりで夢中で走る。

 ほとんど倒れこむようにして扉を開けた。ホッとしたのもつかの間、行き場がなくなった水がどんどんたまり、白い階段を満たしていく。

「閉めろっ」

 男が左の扉についたので、沙凪は右の扉を押した。水圧で重たくなった扉はなかなか動かない。左の扉を閉めた男が沙凪を手伝い、やっと両方の扉が閉まった。

 ふたりはしばらく肩で呼吸をしながら扉にもたれた。階段の下から三段まで水に浸かっていたが、それ以上、水位が上がってはこない。

 垂れた髪を耳にかけようとした手が震えていた。ここに来てから怖いことばかりだ。なんでこんなめにあわなきゃいけないんだろう。

「ちょい、休憩だ」

 水から上がったところに腰を下ろした男は、つなぎのポケットからタバコをとりだした。くしゃくしゃになった箱から一本抜いてくわえる。

 沙凪の中にもやっとしたものがこみ上げる。我慢しようかとも思ったけど、考えただけで寒気がした沙凪は、意を決した。

「ぁ、あの……」

「ん?」

「すみません。私、タバコ、ダメなんです」

 自分でも呆れるほど弱々しい声だった。

 しばし考えた男は、少し階段を上がったところに座り直し、火をつけた。

「すぐ済む」

 鼻と口から煙を吐きながら言う。

 沙凪は渋々、できるだけ距離をとってしゃがみこんだ。戦ってくれているのだからこのくらい許すべきだと自分に言い聞かせ、吸い終わるのを待つ。

 白い階段なのに、タバコの煙ははっきりと見てとれた。

 たゆたう煙を見ていると、脳裏に、ヨーグルトのような甘く煙たいにおいがよみがえってきた。距離は十分離れているのに、煙が口や鼻から入りこんできて、粘膜に染みつき茶色くなっていく気がする。胸がむかむかしてきた。

 やめて、やめて、やめて――

「やめて!」

 声がフロアいっぱいに反響すると同時に、突風が吹いた。体があおられるほどの強い風が、下から上へ吹き抜ける。

 一瞬で通りすぎた風に、乱れた髪を直すことも忘れて沙凪は凍りついた。窓もないのにいったいどこから吹いてきたのか。

 男は無表情で沙凪をじっと見下ろしていた。とり落としたタバコが階段の上でくすぶっている。

 やがて男は立ち上がり、タバコをかかとで踏み消した。一瞬だけ沙凪をにらみ、階段をのぼり始める。

 男の視線は痛かったが、沙凪は少しだけホッとしてあとを追った。

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