第3話 雨の部屋
上へ行くと言う男に、沙凪はとりあえずついていくことにした。男の言う通り、他に道はないし、何より、ひとりになりたくなかった。
階段の上にはてっきり二階があるのかと思っていたが、天井をすぎたあともずっと階段が続いた。壁も天井も白い石のような素材に囲まれた
窓も踊り場もないので、どれくらい上がってきたのか分からないが、かれこれ十五分は歩いている。それなのに、まだ次の階にたどり着かない。
沈黙に耐えきれなくなった沙凪が声をかけた。
「あの……さっきの人たち、なんなんですか?」
男は足を止めずに答える。
「俺はイミューンと呼んでる」
「イミューン?」
「呼び名はなんでもいい。とにかくやつらは集合体で、基本、単体では動かない。だから厄介だ。心がなければ感情もない。やつらを見たら、とりあえず逃げろ。捕まったら下へ引きずりこまれるからな。下からもう一度上がってこられる保証はない」
「地下ってことですか?」
「まあ、大体そんなところだ」
だけど正解でもないらしい。説明がめんどうだからそれでいい、という感じだろうか。知っているのならちゃんと教えてくれればいいのに。沙凪は自分の唇がとがるのを感じた。
でも、現段階でそこを掘り下げて質問するのはためらわれた。幹を理解していないうちにいくら枝葉の説明をされても、右から左に流れるだけだ。かといって、幹を理解するために何を聞けばいいのかも、分からない。
だから必然的に、男が一方的に沙凪に質問する形になった。
「お前、ここに来る前、どこで何をしてたか覚えてるか?」
沙凪は答えられない。
どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、休日をどうすごしているのかは思いだせる。しかし、ここ最近の自分の行動がまったく思いだせなかった。昨日何をしたのかはおろか、今日の日付も分からない。
「俺もだ。ここに来る直前の記憶だけすっぽり抜け落ちてやがる」
「それって、変ですよね?」
「お前が忘れるのは珍しいことじゃない。問題は、俺が何も覚えて……」
男が足を止めた。沙凪もつられて顔を上げる。
階段がそこで終わっていた。行き止まりの壁には、壁と同じく白い扉がある。塔の入り口を小さくしたような、取っ手のない両開きの扉だ。
男が扉を開ける。
扉のすき間からあふれた白い光に、沙凪は目を細める。階段同様、床も壁も天井も真っ白な廊下が伸びていた。
「……っ」
男の動きが止まる。
「どうしたんです?」
男の背中越しに中を覗きこもうとした時、突然男がすごい勢いで腕を引いた。取っ手がないから、勢いだけで扉を閉めたのだ。危うくひじが顔に直撃するところだった沙凪は、文句まじりに男の背中に問いかける。
「なんなんですか?」
男は答えない。男の視線は、まだ扉の向こう側に向けられているようだった。
「あの……」
沙凪がもう一度声をかけると、男は後ろに下がり扉からゆっくりと離れた。
「お前が開けろ」
うわっ、押しつけた。何、何が見えたの?
「私が、開けるんですか?」
「その方がよさそうだ」
「開けたら急にイミューンが襲ってくるってことは?」
「ないとは言えないが、たぶん大丈夫だ」
その自信はどこから来るのだろう。とにかく男は自分で開けるつもりはないらしい。
でも、あまり長い時間一箇所にとどまっていると、イミューンがまた襲ってくるような気がして怖い。戻るわけにもいかないし。進むしかないか。
沙凪は諦めて前に出る。
小さく息を吐くと、扉に手をつき、ぐっと押す。初めは少し引っかかる感じがあったけど、少し開いてしまえばあとは軽く押すだけで開いた。
沙凪は、目の前の光景に息をのむ。
世界が上下ふたつに割れたみたいに見えた。水平線を境に、青空と、それを映す水鏡が広がっている。他には何もない。
一歩、中へ足を踏み入れてみる。
そっと水面に足を下ろすと、水たまり程度の深さしかなかった。安心して後ろ足も扉をまたぐ。靴を中心に波紋が広がった。それに呼応するように、小さな波紋がいくつも生まれていく。
雨が降っていた。霧みたいに細かく、さらさらと優しく降り注ぐ雨だ。
けれど上を見上げてみれば、空は青く晴れていた。お天気雨かと思ったけど、ぽつりぽつりと真っ白な雲が浮いているだけだ。ぐるりと周囲を一周見回してみたけど、やっぱり雨雲はない。
無意識に顔の上に手をかざしていた沙凪は、違和感に気づいた。その場でもう一周してみるが、なんの躊躇もなく目を開けていられた。やっぱりそうだ。
この空には、太陽がない。
後ろを振り返ると、水たまりの上に、白い扉と枠だけが立っていた。その様はなんていうか、格式高いどこでもドアという感じだった。開いた扉の向こうに白い階段が見えて、沙凪はここが塔の中であることを思いだした。
男も扉をまたいで水たまりに立つ。
「何か思いだすか?」
意味が分からず、沙凪は首を傾げる。
「えっと、すみません、それってどういう……」
突然、子どもの笑い声がした。
バシャバシャと水を蹴散らしながら、傘を差した子どもが走り抜けていく。ドアの後ろから、色とりどりの傘を持った子どもが次々に現れ、ふたりの横を通過していった。
思わず身構える沙凪に、男が囁く。
「心配するな。敵じゃない」
「でも……」
「爪や牙みたいな攻撃的なもんが表に出てなければ、大抵は無害だ」
確かに、無邪気にじゃれ合いながら駆けていく姿は、普通の子どもとなんら変わらない。ただ、顔だけはイミューンと同じようにぼやけていて見えない。キャッキャと笑う声がするのに、顔のどこからその声が発せられているのか分からないのは、なんとも不気味だった。
横から広がってきた少し大きめな波紋が、沙凪の靴にぶつかった。
波紋が来た方向に視線をやると、沙凪のすぐ横に、男の子が立っていた。
沙凪はその子に見入ってしまう。
その子には、ちゃんと顔があったのだ。
あごのラインは細く、顔の真ん中にちょんとかわいい鼻がついている。瞳は透き通るような明るい茶色だ。
そのままおたがいの顔を見合っていると、男の子が傘を差しだした。入れてくれるということだろうか。
沙凪は体を屈めて、黄色い傘の下に頭を入れてみる。男の子はそれで満足したらしく、他の子たちの向かった方向へ歩き始めた。沙凪もそれに合わせて歩く。体を屈めたまま歩くのはなかなか大変だし、入りきらない腰からは下は雨にぬれているけれど、せっかくの気持ちを
ふと、視線を感じた。
少し離れたところに、ふたつ結びの女の子が立っていた。ビニール傘を差してたたずむその子も、男の子同様、顔をはっきりと認識することができた。こちらに寄ってくるでもなく、ただじっと私たちのことを見つめている。無表情だけど、一瞬たりとも目を離そうとしない。
「ねえ、あの子、知り合い?」
男の子は答えない。女の子のことなど目に入っていない様子で、ぐんぐん歩き続ける。
その時、クスクス、と笑い声がどこからか聞こえた。
沙凪は後ろを振り返るが、そこに人の姿はなく、だだっ広い水たまりが広がっているだけだった。
不思議に思っていると、また背中の方から、クスクスと聞こえてきた。
今度はさっきよりも素早く振り向いてみる。やはり、だれもいない。
どっちを向いても、あざ笑うような笑い声は背中にはりついて離れなかった。笑い声が鼓膜の奥でこだまして、だんだん、どっちから聞こえてくるのかわからなくなってくる。あたり一面、笑い声に包まれているみたいで、耳が、頭が、くらくらする。
耳を手で塞ぎ、固く目を閉じて、すべてを拒絶する。
その途端、笑い声がやんだ。
笑い声だけじゃない。
小雨が水面を叩くかすかな音以外、何も聞こえなかった。
目を開けると、横にいたはずの男の子の姿がなくなっていた。離れたところでこっちを見ていたはずの女の子もいない。そこら中を駆け回っていた子どもたちも、いなくなっていた。
あたりを見回した沙凪の視線が、水たまりに浮く水色の何かを見つけた。
自然と足が吸い寄せられていく。
それが何か分かった瞬間、沙凪ののどが引きつった。
ハンカチだ。
胸がぎゅうっとしめつけられ、うまく呼吸ができなくなる。
水色のタオル生地のハンカチを拾う。水を吸ってずっしりと重たくなったハンカチは、持ち上げると水が滴った。
その時だ。
水面を突き破って黒い手が伸びてきた。沙凪の手首をつかむなり、水面の下へと引きずりこむ。とっさに反対の手を地面につくと、もう一本黒い手が伸びてきてそっちもつかまれた。氷を踏み抜いたみたいに、手の平が触れていた地面が突然消えて、ひじまで一瞬で水に沈んだ。体を支えるものがなくなり、顔から前へ倒れていく。
落ちる。
そう思った瞬間、がくんと体が揺れて止まった。上半身が何かにつり上げられている。
「ふんばれっ」
頭の上から男の声が降ってきた。
首を回そうとしたけど、シャツの襟で首がしまった。男がシャツの背中をつかんでいるのだと、遅れて理解する。
けれど沙凪の両手をつかんだ何かは、引っぱる力を弱めない。腕がちぎれるのが先か、シャツがちぎれるのが先か。襟が首に食いこんで、息が止まる。
水面にはあせる自分の顔が映るだけで、腕が沈んだ向こう側は見えない。いくら腕を引っこめようとしても、手首のところで何かが引っかかる。いったい何が、と思ったところで、沙凪は右手につかんでいたハンカチを離した。
すぽんと水たまりから腕が抜けた。急に解放された反動で、男ともども後ろにひっくり返る。
水たまりに尻もちをついた沙凪は、すぐに立ち上がり後ろへ下がった。またあの黒い手が伸びてくるのではないかと思ったが、そこら中が水たまりでは、手がどこから来るか分かったものじゃない。水たまりに足をつけていることすら怖くて、体を縮こませる。
クスクス、と笑い声が聞こえた。
まただ。
笑っている人間がどこにいるのかは、やはりわからない。常に沙凪の視界の外から聞こえてくる。耳を塞いでも、指のわずかなすき間から滑りこんできた。
笑い声はどんどん大きく、人数も増えていく。
たまらず、沙凪はその場から逃げだした。
目を閉じ、がむしゃらに腕を振り回しながらひたすら走る。どこに向かっているのかなど気にしない。とにかくあの声から少しでも離れたかった。
けれど、笑い声はまだ背中にはりついてくる。声だけじゃない。追いかけてくる足音も聞こえて、沙凪はスピードを上げた。
放っておいて。
私に構わないで。
お願いだから、ひとりにして。
ぐん、と強引に腕を引っぱられた。バランスを崩して地面にひざをつく。
「何考えてんだ、バカっ!」
目を開けた沙凪は、
座りこんだひざの数十センチほど先で、地面が途切れていた。
いや、地面ですらない。
沙凪は透明な傘の上にいた。すぐ脇では川のような勢いで水が流れており、傘の縁から轟音を響かせて流れ落ちていく。滝の下は別の傘が開いていた。水はさらに下の傘へと落ちていくが、そのあたりは水しぶきで煙ってよく見えない。
いつの間に、こんなところに移動したのだろう。
空は相変わらず晴れたまま小雨を降らしているが、あたり一面、びっしりと傘で埋め尽くされていた。絵の具セットにある色を全部使ったってまだ足りないくらい、さまざまな色の傘がひしめき合っている。大きさも通常サイズから、軽い丘くらいあるものまで、まちまちだ。それらが群生する花のように重なり合っていて、地面を覆い隠している。
弾む息を整えながら、沙凪は男を見上げる。滝のしぶきを顔に受ける男が沙凪をにらんでいた。
「いいか、覚えとけ。世界が変わり始めたら絶対に動くんじゃない! 一歩先に地面がある保証はないんだぞ。おい、聞いてんのか」
沙凪は男の手を振り払っていた。
またそうやってわけの分からないことを、当たり前みたいに並べ立てる。ろくに説明もしないくせに、怒鳴って、命令して。何がしたいのだ、この男は。唇が震える。
「世界とかイミューンとか、そんなの私には関係ない! 私はただ帰りたいんです!」
言い終わったあとも震えが止まらなかった。感情任せに大声をだしたことなど、人生で数えるほどもない。
「お前、まさか、気づいてなかったのか?」
今までと違う男の口調に、沙凪は顔を上げた。
男の顔はもう怒ってはいなかった。じっと沙凪の顔を見つめている。そして、沙凪がまったくその言葉の意味を理解していないと見るや、大げさにため息をついた。
「夢だ。この世界も、できごとも、全部お前の夢なんだよ」
沙凪はただただ言葉を失った。
男の言葉が頭の中で何度も反響するが、なかなか言葉が頭になじんでいかない。
ようやく理解が追いついても、そこから新たな疑問が湧き、思考が止まる。
これが、夢?
ならば、いったい、いつ眠った?
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