2章

第4話 白い階段

 傘の上を登ったり降りたりしながら進んでいくと、突如、白い扉が現れた。カラフルな傘の群生地で、真っ白な扉は異様な存在感を放っていた。

 真っ赤な傘の上にぽつんとたたずんでいるその扉を開けると、さっきとよく似た白い階段につながっていた。見た目はまったく同じだが、下へ降りる階段はない。

「ここはお前の記憶や感情から生まれた世界だ」

 階段をのぼりながら、男が説明する。

 沙凪はいまひとつ実感が湧かなかった。

「私、あんなきれいな場所、行ったことないと思うんですけど」

「記憶ってのは、印象的だった部分しか残ってないもんだ。夢の中じゃそれがさらに大げさになる。ただの用水路が海になるくらい、驚くことじゃない」

 そう言われると、ないとは言えなくなってくる。だが用水路までハードルが下がると、候補が多すぎて逆に候補が絞りこめなくなってしまい、途中で考えるのをやめた。

 とりあえず、男が説明する気になってくれている今のうちに、気になったことは全部聞いてしまおう。理解できないところはあとで考えればいい。

「場所が変わったのは、なんなんですか?」

「お前が無意識に考えたことや、心境の変化で場所が変わることがある」

「でも、この階段はずっと変わりませんよね?」

「おそらく、階段は記憶の部屋同士をつなぐ役目なんだろう。もしかすると、この世界の土台か柱のようなものなのかもしれない。だとしたら、ここだけは不変だろうな」

 おそらく、もしかすると、かもしれない、だろう。そのくせ確信に満ちた男の言葉に、沙凪は小さくため息をつく。

 気づいているのかいないのか、男は続ける。

「夢の形は人によって違うから、パターン化できねえんだ。だだっ広い場所をただひたすら進む夢もあれば、同じ部屋の中ですべてが起こる夢もある。お前の場合は塔の中に階段があった。だからのぼってる」

「勘ってことですか?」

「経験による推測と言え」

「あー、年の功ってやつですね」

「お前なあ」

 男ににらまれてようやく自分の失言に気づいた。沙凪は慌てて話題を変える。

「あっ、いや、えっと、あの、ようするに、ここは夢の世界なんですよね?」

「だからそう言ってるだろ」

「なら、何が問題なんですか?」

「これが悪夢だからだ」

 それでも夢は夢だ。夢なら覚めるのを待てばいい。夢の中で必死になる理由が、沙凪には分からなかった。

 男が少しだけ考える。

「例えば、巨大な怪獣に襲われる夢を見たとする。お前は逃げきれず、怪獣に踏み潰される。普通は踏み潰されたところで目が覚めるもんだ。だがこの時ばかりは、のしもちみてえに潰れたあとも、痛みや恐怖を感じながら夢が続く。自分の力では目覚めることができない夢。それを悪夢と呼ぶんだ」

「えっ、じゃあ私、自分じゃ起きられないんですか?」

「だからそう言ってるだろ」

「アラームをセットしてても、ダメですか?」

「はあ?」

 男が体をひねって沙凪を見下ろす。男は心底呆れた顔を隠しもせず「その程度で目が覚めりゃあ苦労ねえよ」とつぶやいた。沙凪としては真面目に言ったのだが、どうやらトンチンカンな質問だったらしい。

 このまま男が話を終わりにしてしまう気配がして、沙凪は慌てて言葉をつなげる。まだまだ分からないことはたくさんあるのだ。

「じゃあ、どうやったら目が覚めるんですか?」

「出口にたどり着くことだ。そうすりゃ悪夢も消える」

「えっと、その出口っていうのは……」

「それはお前にしか分からない」

 悪夢とは、無意識にもう目覚めたくないと願うことで、夢に閉じこめられる現象だと男は説明する。だから目覚めるには、現実に戻りたい思う本人の強い意志が必要になる。さっきから男が沙凪の記憶について尋ねていたのも、夢に入ったきっかけを知るためだ。この塔の中のものは沙凪の記憶、それも強く残っている記憶や価値観を具現化しているから、ヒントがある可能性が高いのだという。

 さっき襲ってきたイミューンは、夢の世界を維持するため、沙凪を深い眠りへと導く存在だ。特に男のような部外者が夢に干渉することを防ぐ、この世界の防衛システムのようなものらしい。

 そしてこの男がどうしてこんなに夢について詳しいのかといえば、他人の夢に入る力を持っているからだという。今の沙凪のように、自力で目覚めることができなくなった者に触れることで、その人の夢の中に入ることができる。

「ただ、他人の夢に入っている間は俺も眠っちまう。俺が目覚めるためには、まずはお前が目を覚ます必要がある」

 だから沙凪が出口を捜す手助けをしてくれるのだ。ここはひとつ腑に落ちた。

 だが男の話を信じるなら、沙凪が眠っているところに男が居合わせたということになる。それって、ちょっと、別の意味で怖い。

「お前、仕事は何してる?」

 男の言葉で思考が引き戻された。

 沙凪はその質問に内心、ホッとした。難しい話に疲れてきたところだったので、世間話らしい会話は安心する。

「文房具メーカーで、経理をやってます」

「事務所があるのはビルか? 戸建てか?」

「はい?」

 あまりに具体的かつ突拍子のない質問だった。しかし男はあくまで真顔で「いいから答えろ」と催促する。

「オフィスビルの、三階です」

「清掃は業者委託か?」

「たぶん、そうです。でもうちはワンフロア借りてるだけなので、詳しいことは……」

 ますます意味が分からない。だが男には何か思い当たるところがあったようだ。

「なんで急に、そんなことを聞くんですか?」

 男が無言で、自分のつなぎの左胸のあたりを引っぱる。会社の名前のようなものが白い糸で刺繍してある。

「ビル清掃が仕事だ」

 なるほど、それでつなぎ姿なのだ。

 だが、沙凪の会社が入っているビルの名前を言っても、男に心当たりはないようだった。男の仕事は定期契約の清掃が主で、決まったビルを順番に回るので、担当以外の場所へ行くことはまずないと言う。もしかしたら会社で男と会っていたのではないかと思ったのだが、その可能性も消えた。

 当てがはずれて、沙凪は自分でもちょっとびっくりするくらい、がっかりしていた。すべてが自分の理解を越えたこの状況で、何かひとつでいいから、明解な理由がほしかったのだ。納得して、安心したかった。

 そこでまた、会話が途切れた。質問を探したが、頭の中がこんがらがって、もう何が分からないのかもよく分からなくなっていた。間を持たそうと、とにかくなんでもいいから話す。

「よくあるんですか? 人の夢に入るのって?」

「そんなこと聞いてどうする」

「悪夢じゃない普通の夢だったら、楽しそうだなって」

「さあな。俺は悪夢にしか入れないから、他は知らん」

「え、それって、つらくないですか?」

 男は答えなかった。単なる感想だと思われたのだろうか。沙凪は別の質問に変える。

「これまで、どれくらいの人の悪夢に入ったんですか?」

「質問の多いやつだな」

 明らかに会話を拒否する言い方だった。

 単なる世間話だと分かってほしくて、あえて能天気に言い訳する。

「私、そういう特殊な能力持ってる人って初めてだから、どんな感じなのかなって思って」

 けれど男は答えず、ずんずん階段をのぼっていってしまう。

 会話の再開は不可能だと悟った沙凪は、口をつぐむしかなかった。

 それからしばらく、自分の足元だけを見て歩いた。

 だから男が立ち止まったことにも気づかず、男の背中に顔から突っこんでしまった。

「どうしたんですか?」

 ぶつかったことを怒りもせず、男は何かを捜すように周囲へ視線を配っていた。

 光が揺れた。ロウソクの揺らぎを思わせたが、ここには揺れるべき光源がない。

 そのかわり、ぞわぞわと遠くで何かがうごめく気配があった。階段の下を覗きこんでみるが、壁に隠れたカーブの先は見渡すことができない。

「いいか。逃げる時は上を目指せ。何があっても下にだけは行くんじゃねえぞ」

 男がつなぎのジッパーを腹まで下げた。腕を抜き、余った袖を腰で結ぶ。黒いTシャツの下から伸びる腕は、思いのほか、太かった。

「また、戦うんですか?」

「他にいい案でもあるか」

 ひとりくらい話の通じるイミューンがいるのではと思ったが、下から上がってくる無数の足音を聞いた途端、そんなの無理だと悟った。

「お前はとにかく自分の身を守ることだけ考えろ。夢のあるじが意識を失ったらここは崩壊するからな」

 何か怖いことを言っている気がしたけど、聞き返す余裕はなかった。ただただ、下からはい上がってくる気配が、怖い。外で襲われた時の恐怖がよみがえってくる。

 やがて、下からイミューンがぞろぞろと現れた。例の腕から先がヒレになっている者や、腕や背に長いトゲが生えている者、鋭い牙のある大きな口を持つ者など、姿はばらばらだ。体はひょろりと細長いから、それぞれが持つ武器の凶暴さが余計に目立って見える。

「いいか、この塔ではお前が信じたものが真実だ。お前のイメージがそのまま俺の力になる」

 逃げ場を求めて数段上がった沙凪のかわりに、男が階段を下りていく。

「練習だ。手始めに武器を想像しろ。戦えりゃなんでもいいが、集中して細部までしっかり思い浮かべろ」

 言うなり男は跳躍し、一番手前にいたイミューンの横っつらに安全靴のつま先を打ちこんだ。片足で着地すると、そのまま一回転して隣のイミューンに回し蹴りを繰りだす。イミューンが折り重なって数段下に落ちていく。

 倒れた仲間を乗り越えて次々に上がってくるイミューンを、男は一体ずつ押し返していく。

 沙凪はただただ、それを見ていた。間に男がいても、イミューンがこちらに向かってくるたびに体がすくみ上がってしまう。

「どうしたっ」

 男が沙凪を急かす。

「あの、想像するって、どう……」

「それがここにあると思って強くイメージするんだよ」

 そんな急に言われても。ただでさえ恐怖で頭が回らないのに。

 武器と言われて最初に思い浮かんだのは拳銃だが、水鉄砲の形をなんとなく思いだすのが限界だった。あせってしまって、他の武器も思い浮かばない。

 じれた男が声を荒げる。

「じゃあいい、刀だ。日本刀。そんくらいイメージできんだろ」

「でも、刀なんて、私、見たことないんですけど」

「俺だってねえよ! でも形くらい分かんだろ」

「いや、でも、そんな、急に言われても」

「あー、ぐちゃぐちゃうるせえんだよ!」

 怒鳴った男が、いらだちまぎれに目の前にいたイミューンの顔を踏みつけた。それから肩越しに沙凪を見る。

「いいから黙って俺を信じろ」

 本当になんなんだ、この男は。

 さっき会ったばかりだし、言うことは理不尽だし、強引だし、根拠も何もない。

 それなのに、どういうわけか、頼りたいと思っている自分がいる。

 沙凪は階段を駆け上がる。

 男やイミューンが視界に入らなくなったあたりで、壁に背を預けた。耳を塞ぎ、目を閉じ、ゆっくり深呼吸する。

 幼い頃、祖父と一緒に見た時代劇を思いだす。

 まず思い浮かべたのは、切っ先が緩やかなカーブを描く刀身の輝き。硬く繊細な冷たい刃の根本には、花のような形をしたつばと、ひし形が並んだつかが伸びている。今なら、ひし形に巻かれた糸の感触もわかる気がした。

 男が駆け上がってくる音で、沙凪は目を開ける。

 チカッと鼻先で何かが光った。粉雪のような細かい光の粒が集まり、糸のように絡み合いながらゆっくり伸びていく。沙凪が数歩あとずさると、ぎゅっと収縮し、ぜ、鱗粉りんぷんのような光の粉のベールを脱いだ刀があらわになった。

 糸が切れたように刀が落ち、むき身の切っ先がすとんと階段に突き刺さる。

 イメージした刀がそのまま、そこにあった。すごい、本当にできた!

 男の手が刀を引き抜く。その瞬間、男の眉がぎゅっと寄った。

 柄の模様も、鍔も、イメージした通りだ。しかしその先に伸びる刃が、柄と同じくらいの長さしかなかった。フォルム的には長めのナイフかなたに近い。

「まあ、初めてはこんなもんか」

 短くため息をついた男は、両手で柄をにぎり、ぐんと腰を落として前へ出た。

 イミューンの胴が一瞬で裂け、その切り口から黒い霧が吹きだし、体が霧散する。

 リーチは短いが、男は器用にくるくると体を回すようにイミューンの懐に飛びこみ、斬り捨てていく。だがイミューンは仲間が斬られても動揺ひとつせず、次々に下から上がってくる。

 そのうちのひとりが、男の脇をすり抜けて沙凪を襲いかかってきた。

 驚いた沙凪はあとずさる。足が階段の段差に引っかかり、そのまま後ろへ倒れた。

 まずい、と思った時には、ウニのように無数のトゲが生えたこぶしが目前に迫っていた。

 悲鳴を上げる間もなかった。

 ドッとそのイミューンの胸から刀の切っ先が突き出た。ぼやけて見えない顔が、沙凪の目の前で、さらっととけていく。

「立て。ぼさっとすんな」

 沙凪を起こそうと男が手をだした時、背後からイミューンが飛びかかってきた。

「後ろっ」

 沙凪の声で男が後ろへ刀を振り払う。その時、横から来ていた別のイミューンの爪が引っかかり、刀が弾き飛んだ。

 舌打ちした男は、頭を低くした姿勢のまま足を振り上げる。イミューンの首に一発、ひるんだ胸にもう一発叩きこみ、下へ蹴り落とす。

 同時に牙の生えたイミューンが口を開けて飛びかかってきた。男はかわしながら、ひじ打ちで黒い頭を壁に叩きつける。頭が割れたイミューンが霧になって消える。

 その霧を突き破って、別のイミューンが襲ってきた。虚を突かれた男は足を踏みはずし、背中から倒れる。起き上がる間もなく、イミューンが男に飛びかかる。鋭く伸びた爪が突きだされ、男は腕で顔を守る。

 沙凪ののどから悲鳴に近い声が上がった。

「オジサン!」

 閃光とともに硬質な音が響いた。

 男に覆いかぶさるイミューンの動きが止まる。男は起き上がりざまに腕を振り抜いた。イミューンが霧散し、その霧の中から刀が現れた。さっきとは刃の長さがまったく違う。まさしく時代劇で見ていたあの刀に変わっていた。

 それから男は調子をとり戻した、あっという間にその場にいたイミューンすべてを霧にしてしまった。

 あたりが静まり返り、男が呼吸を整える音だけが聞こえてくる。

 すごい。

 全員霧になってしまったので正確な人数は分からないが、十人はいたはずだ。それを、ひとりで倒してしまった。

 沙凪は今になって、手足が震えていることに気づいた。止めようと力を入れれば、余計に大きく震えだしてしまう。これまでの人生で、命の危険を感じるような恐怖なんか一度だって遭遇したことはなかった。それなのに、ここに来てからもう何回死にかけたか分からない。

「悪くない」

 男は刃を目の高さまで上げ、品定めをするように視線を滑らせていた。

「できたら次は、最初からその感じで頼む」

 男はそう言うと、再び階段をのぼり始めた。

 男の静かな嫌味に、胸がチクリと痛む。

 守ってくれて、頼もしいと思う。でも、現物を見たことがないと言った刀を平然と使いこなし、得体のしれない相手に臆することなく立ち向かっていけるなんて。

 本当に、いったい何者なんだろう?

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