1章

第2話 白い塔

 なんだ、夢か。

 かすみの中から覚醒した新島沙凪にいじまさなは、ゆっくりと目を開ける。

 見渡す限り一面に、赤い大地が広がっていた。

 風が吹くたびに巻き上がる土煙の向こうに、白い塔がひとつ建っている。それ以外は何もない。乾いてひび割れた岩肌が地平線まで延々と続いているだけだ。

 自分がまだ夢を見ているのかと思ったけど、砂混じりの風が頬に当たる感触は、あまりにリアルだった。

 ここはどこだろう。

 なぜこんなところにいるのだろう。

 目覚めたてのぼんやりとした頭に、ぽつりぽつりと疑問が浮かぶ。けれどあたりには人の気配はおろか、虫一匹、草の一本も生えていない。

 とりあえず、塔に行ってみることにした。あそこならだれかいるかもしれない。

 遥か遠くに見えたのに、歩き始めると塔はみるみる近づいてきて、拍子抜けするくらいあっという間にたどり着いてしまった。

 近くで見ると、ますます不思議な塔だ。きれいな円柱形をしていて、装飾はおろか窓もない。正面の大きな両開きの扉がなければ、煙突だと思ったかもしれない。こんな環境だというのに、まぶしいほど白い壁には、砂粒ひとつ、ついていない。触れてみると陶器のようにつるりとしていて、近づけると表面に顔が写りこんだ。

 勝手に入っていいものだろうか。呼び鈴を探してみるが、どこにもない。ノックしてみるしかないか。

 ふと、視界の端で何かが動いた。

 首をそちらに向けると、土煙の向こうに人影を見つけた。

「あ、あの! すみません!」

 沙凪の声に振り返った人影が、こちらへ走ってきてくれる。

 よかった。やっと人に会えた。沙凪はホッとして人影に手を振る。

「あの、ここってなんなんですか? 入っても大丈夫で……」

 言い終わらないうちに、沙凪は異変に気づいた。

 人影は、土煙を抜けてものままだった。

 違う。

 あれは、人じゃない。

 影がそのまま実体を持ったみたいな、真っ黒な何か。

 それが、全速力でこちらに向かってきている。

 何、あれ。

 なんなの。

 マッチ棒のようなひょろりとした人型のそれは、もう沙凪の目の前まで迫っていた。そのままスピードを緩めずに腕を振り上げる。

 無意識に引いたかかとが地面に引っかかり、尻もちをつく。それと同時に、頭の上で空気が裂ける音がした。

 はらり、と何かが顔の前に落ちてくる。

 それが自分の髪の毛だと気づくなり、全身の血が凍った。

 顔を上げると、文字通り沙凪の目と鼻の先に、黒いきりのような鋭いものが突きつけられていた。人型のそれのひじから先は、いくつもの細長い錐に枝分かれしていて、その間を魚のヒレのような膜がつないでいる。

 そいつは、なぜはずしたのか? と考えこむようにゆっくりと首をかしげる。

 かしげた首の上には、顔がなかった。

 頭部はあるが、体と同様に真っ黒だ。首から上だけ曇りガラスがかかっているような感じで、輪郭や顔の凹凸すらも判然としない。

 ダメだ。話が通じる相手じゃない。

 逃げなきゃ。

 殺される。

 本能がそう叫んだ。

 それなのに、体が動かない。

 足はがくがく震えるばかりで、ちっとも言うことを聞かなかった。

 必死に手で地面を押し、尻を引きずってそいつから離れる。

 目がないというのに、そいつはちゃんと沙凪のことが見えているようだ。沙凪が苦労した移動した距離を、たった一歩で振り出しに戻す。沙凪が離れたらまた一歩進む。獲物の獲得を確信したのっそりとしたその動きに、恐怖はますますふくれ上がっていく。

 心臓がめちゃくちゃに鳴っている。のども肺も縮み上がってしまって、うまく呼吸ができない。腕がしびれて、どんどん動けるペースが落ちていく。

 どうして。

 なんで、私が、こんなめに。

 鼻のあたりがつんとして、涙がにじんでくる。

「やだ……」

 涙で揺らぐ視界の向こうで、そいつが再び腕を振り上げるのが見えた。黒くて長いヒレの先端が、沙凪の顔を捉える。

 死にたくない。

 吐息にかき消され、声にすらならなかった。

 ヒレが振り下ろされ、沙凪は目を閉じる。

 肉を打ちえる鈍い音が響いた。

 だが、一向に痛みはやってこない。

 おそるおそる、まぶたを開ける。

 目の前に、男が立っていた。紺色のつなぎを着た男だ。

 男の脚の向こうで、さっきの黒い何かが立ち上がって両腕を構え直すのが見えた。

 男が前に出る。

 黒い何かがヒレを横になぐと、男は上体を反らしてヒレをかわす。空振ったことで、黒い何かの動きが一瞬止まった。男はすかさず、そいつのひざに前蹴りを放つ。がくんと地面にひざをついたそいつの頬に、男はひざ蹴りを打ちこむ。

 横へ吹っ飛んだ黒い何かは、そのままごろんと一回転する。ところがそいつは一瞬ひるんだだけで、ヒレを地面に突き立ててすぐに立ち上がった。うなるでも怒るでもなく、無言のまま、まっすぐに男へ向かって突っこんでくる。

 黒い何かはヒレをすぼめて錐の束を作った。ヒレを広げている時よりも突きだす速度が上がり、男は胸に穴が開く寸前のところで回避した。男は少し下がって距離をとる。黒い何かが両手で繰りだしてくる素早い突きを、一撃ずつ確実に回避していく。

 相手の動きが大ぶりになった瞬間、男が踏みこんだ。胸をねらってまっすぐ伸びてきた突きを、男は体を回転させて受け流す。その勢いに乗せて、回し蹴りを側頭部に叩きこんだ。

 黒い何かの首が、がくんとぶら下がる。頭の重みに引っぱられるように、ゆっくりと体が傾いていく。

 地面に倒れた黒い何かは、顔を沙凪の方に向けたまま動かなくなった。

 沙凪はそれと、

 目がないはずなのに、はっきりと視線を感じたのだ。あまりの不気味さに、悪寒が背筋を駆け上がる。

 男の脚が、その視線を遮った。

 顔を上げると、今度は男と目が合った。その鋭い目つきに一瞬ひるんだものの、きちんと顔がある人だという安心感の方が今は大きかった。

 少し体を屈めた男が、沙凪に手を伸ばす。

 手を貸してくれるのかと思いきや、沙凪のえり首をつかみ、乱暴に引き上げた。

「走れ」

「えっ、ええ?」

 そのまま男に引きずられるように、塔へと走る。

 足音に気づいて後ろを振り返る。

 さっき人型の何かが来た方角から、同じような人影がたくさんこちらに向かって走ってきていた。ぱっと見で二十はいる。嘘でしょ! 胸の中で悲鳴を上げながら、懸命に走る。

 つなぎ姿の男は、走ってきた勢いのまま塔の扉を蹴破る。勢いよく開いた扉に沙凪も飛びこんだ。

 中は天井が高く、円形のホールのようになっていた。天井も壁も床も、外壁と同じく真っ白だ。

「手伝え!」

 男が入り口を閉めようと肩で扉を押していた。慌てて沙凪も扉を押す。

 開く時はスムーズだったのに、扉は信じられないくらい重たかった。急に蝶番ちょうつがいが錆びたみたいに、なかなか動かない。体を斜めに傾け、足をふんばって肩で扉を押す。ふたりがかりで、ようやく少し動いた。勢いに乗せて一気に押しきる。

 だが閉まる寸前、反対側から何かがぶつかってきた。扉のすき間から、何本も黒い腕が入りこんでくる。手は沙凪たちを探して空をつかむ。沙凪はできるだけ黒い手から顔を遠ざけて必死に扉を押すが、じわじわと押し戻されていく。

 突然、男が手を放した。かと思うと助走をつけて扉を蹴る。

 重たい音をたてて、扉が完全に閉まった。

 ちぎれた腕がボトボトと床に落ち、陸に上げられた魚のようにのたうち回る。あまりの気持ち悪さに、沙凪は思わずあとずさっていた。

 腕の断面からは、血のかわりに黒い霧のようなものがもれ出ていた。動くたびに霧が勢いよく噴きだす。やがて、腕全体がぼやけた。膨張したかに見えた腕は、砂絵を吹いたようにさらさらと細かい粒子になって流れていく。真っ白な床の上が一部、黒い霧に包まれた。黒い霧はある程度拡散したところで散り散りになり、あとかたもなくなった。

 腕が、消えた。

 あのヒレみたいなものを腕と呼んでいいのかわからないけれど、とにかく消えた。

 そもそも、あいつらはいったいなんなのだ?

 混乱して、ちっとも考えがまとまらない。

「まったく、とんだ悪夢だな」

 男が低い声でつぶやいた。

 言葉が通じるというのは、この状況ではかなりの安心材料だ。きっと男もそうだろうと思ったので、沙凪は「そうですね」と相槌あいづちを打った。

 近くで見ると大柄な男だった。年齢は四十代か五十代くらいだろうか。よく見れば、短い髪や数日っていないらしいヒゲには、白いものが混ざっている。紺色のつなぎはかなり使いこまれていて、すそがすり切れていた。

「お前、名前は?」

 男が沙凪に問いかける。

「あ、えっと、新島です」

「新島、何?」

「沙凪です」

「は?」

 乱暴に聞き返され、沙凪はビクッと肩を震わせる。

「……沙凪、です。新島沙凪」

 おびえたカメのように首をひっこませた沙凪を男がにらんだ。

「知らないな」

 こっちのセリフです。のどまで出かけた言葉を飲みこむ。

 窓も明かりもないのに、室内はしっかりと見渡せるだけの明るさがあった。壁や床が発光しているような不思議な、淡い明るさだ。柱やはりなどはひとつもない。壁沿いに上へ行く階段が伸びている。

「まあいい。とっとと、ここから出るぞ」

 男はなぜか扉に背を向けて歩き始める。当然沙凪がついてくると思っているのか、あるいは置いていくつもりなのか、男はすたすたとホールを横切っていく。

 状況についていけていない沙凪は、慌てて男を呼び止めた。

「あ、あの! どこへ行くんですか?」

 めんどうくさそうに立ち止まった男が、首だけ振り返る。

「上だ」

「上には、何が?」

「さあな」

 俺に聞くな、とでも言いたげな、ぶっきらぼうな返事だった。

「この扉から出るのは、ダメなんですか?」

「やつらがまだ外をうろうろしてるぞ」

「もちろん、いなくなるまで待ってってことになりますけど」

「どうやって外の様子を見るんだ?」

 沙凪は答えに詰まる。部屋をもう一度見回してみるが、他の出口はおろか、通風孔すらない。

「ほんのちょっとだけ扉を開けてみるとか……」

「外を覗く役はお前がやれよ」

 男が真顔で引き返してきた。そのまま沙凪の横を通りすぎて、まっすぐ扉へ向かう。

「え、ちょ、ちょっと待って! 本当に開けるんですか? ダメ元で言ってみただけ……」

 続きは、男が扉を蹴る音に遮られた。

 余韻が部屋全体の空気を震わせる。音からして相当の力で蹴ったはずだが、扉は開くどころか靴跡すらついていなかった。

 男は納得したように小さくうなずく。

「出口は消えたようだな」

 まさか、と思い、沙凪は扉に駆け寄る。そもそもこの扉にはノブがなかった。つるりとした壁に切れ目が入っているだけで、すき間は爪の先も入らないほどぴったり閉じている。試しに押してみたが、やはりびくともしない。出られないと分かった途端、白い壁で密閉されたこの空間が恐ろしくなる。

 そんな沙凪を見透かしたように、男が言う。

「他に行き場もない。だったら大人しく上へ行くべきだと俺は思うがね」

 沙凪は男を見た。どうしてこの男はこんなに冷静でいられるのだろう。得体の知れないものに襲われて、塔に閉じこめられたというのに。

 そもそも、この男はいったい何者なのだ。少なくとも沙凪に危害を加えるつもりはなさそうだが、さっきの動きを見る限り、ただ者ではなさそうだ。

「あの、あなたは……」

 つなぎのポケットに手を突っこんだ男が、沙凪を見下ろす。

「で、来るのか? 来ないのか?」

 沙凪の質問は無視された。

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