スケープゴートの書簡

[短編] [ミディアム] [ファンタジー度☆☆☆]




 *  *  *


 ジベルから手紙が届いた。

 ヴァンサンはそれを読まずに火にくべた。

 そしてヴァンサンは紙とペンを取る。

 ジベルに手紙を書くために――


 *  *  *



 少年ヴァンサン・ノワは、今となってはもう唯一の肉親である母親と二人きりで、その山奥の村へとやってきた。

 夕闇に紛れるようにして、石畳の舗装のされていない道を足早に進む。やがて二人は一軒の立派な家の前に辿り着いた。母親は『ブラン家』との表札のかかったその家の扉を叩く。


「……で、その子供を連れてこの村に戻りたいと。そういうわけかね」

 テーブルを挟んでヴァンサンたちの前に座っている、白いものの交じった口ひげをたっぷりと蓄えた男が、葉巻に火を付けながらそう言った。

「この村生まれのあんたがそう望むんだ。わしは反対はせんよ。……賛成もしないがね」

 男は煙を吐き出した。その音は鋭い溜め息のようにも聞こえた。

「……ま、村での決め事はしっかりと守ってくれたまえ。それだけが、わしらの願いだ」

 母親が黙って深々と頭を下げる。ヴァンサンはそれにならいながら、横目で母親の表情を読み取ろうとした。しかし、ばらりと垂れ落ちる母親の長い黒髪に阻まれ、それは叶わなかった。



「ヴァンサン・ノワです……」

 翌日。村の子供たちの前で、ヴァンサンはうつむき加減にぼそぼそと名乗った。その真横で、子供たちの教師役を兼ねている村の神父が彼の肩に手を乗せて言う。

「ヴァンサン君は、お母さんと二人で町から引っ越してきてくれました。村の暮らしに早く馴染めるよう、彼と仲良くしてあげましょう」

 子供たちのぶしつけな視線がヴァンサンに突き刺さる。

 それもここでは当然のことなのかもしれない。真っ黒な髪と瞳を持つヴァンサンの姿は、白や金色の髪を持つ少年少女の青や緑色の瞳にはさぞかし奇怪に映ったことだろう。

 ヴァンサンは居心地が悪そうに体をもぞもぞと動かした。



 授業は午前中だけで、昼の鐘が鳴ると放課となる。子供たちがそれぞれの家の仕事を手伝うためだ。村の家の大半は農業か牧畜、もしくはその両方をやっている。

 昼の鐘が鳴ると同時に、ヴァンサンは逃げるように教会から飛び出した。そして村で一番小さくみすぼらしい家――新しい自分の家まで、ほとんど駆け足となって村の中を行く。


「ふぅん。あの女、結局出戻りになったの」

 家のそばで誰かの声が聞こえ、ヴァンサンはハッと足を止めた。複数人の女の声だ。

「自分を連れ出してった男に死なれたみたいよぉ」

「それで子供連れて戻ってきたってことは、あっちでも鼻つまみ者だったってことかしらねぇやっぱり」

「ま、こっち戻ってきたところで……、って話だけどねぇ。今だってわざわざ村の外にまで働きに出てるんでしょ? ホントご苦労サマよね」

「アッハッハ、そう言うんならじゃあ、あんたンとこで雇ってやればぁ?」

「あぁら、そんなの死んでもゴメンよ。あんたも分かってて言ってるんでしょ。この村に、あの女にやらせて良い仕事なんて一つもないよ! ……それに、あの女が外で何してるかなんて、みぃんなお見通しだわよ」

「そうそう。あの女、髪と目こそ気味悪い色してるけど、それを差っ引けばまぁー男好きしそうな見た目してるもの」

「やぁだ、不潔。子供もいるってのに、気が知れないわぁ」


 ヴァンサンは、そう言って笑い合う村の女たちに見つからないようクルリと向きを変えると、急いで自分の家から遠ざかった。

「雌ヤギ」

 ヴァンサンの背中にそう言う声が聞こえた。

「雌ヤギ」

 それが汚い罵りの言葉であることだけは分かった。



 村の道をやみくもに歩いて行く。

(この村は嫌いだ)

 村に来てまだ一日にも満たないうち、早くもそんな思いがヴァンサンの胸の中に広がり満ちていった。

(いや、この村も、か……)

 そのまま早足に歩き続ける。すると、急に開けた場所に出た。ヴァンサンは目を丸くして辺りを見渡す。


 目の前に広がるなだらかな緑の丘。そこではヒツジたちがのんびりと草をんでいる。

 牧草のにおいの風がヴァンサンの頬をなでた。大きく息を吐く。胸の中に詰まっていた空気がスゥッと流れたような気がした。そう感じたのは恐らく、ここまで早足で来たからというだけではないだろう。

 その場に立ち尽くし辺りを眺めるうちに、ヴァンサンはあることに気がついた。


 目の前に広がる緑の丘の右側に、もう一つ丘がある。そちらの丘はうって変わって、黒い岩がゴツゴツとむき出しになった黒い丘。ヴァンサンが目を凝らすと、黒い丘の中腹に小屋のようなものが小さく見えた。

 そしてその黒い丘は、緑の丘とは明らかに大きさが違うのにも関わらず、その遠さによってあたかも、丘のてっぺんが二つ横並びになっているかのように見えた。

 岩だらけの丘の向こう側の空は、まるで地獄の底からやってきたような真っ黒な雲をモクモクと吐きあげている。その様子に得も言われぬ恐ろしさを感じ、ヴァンサンは慌てて黒い丘から目を逸らした。


 再びヒツジたちに目を向ける。よくよく注意して見ると、その群れの中にヤギがいることにヴァンサンは気がついた。

 白くてまるっこいヒツジの中、一匹だけ黒くてとんがったヤギ。ヴァンサンは嫌な気持ちになった。先ほどの言葉を思い出したのだ。

 しかし、ヒツジたちから離れ一匹で平然と草を食んでいるヤギを見るうちに、ヴァンサンはその黒ヤギに親近感を覚えはじめた。

(なんだか、僕にそっくりだな)

 生まれてはじめて仲間を見つけた気がした。ヴァンサンは嬉しかった。

 その日からヴァンサンは、昼の鐘が鳴った後はいつもこの丘に来るようになった。



 ヴァンサンが村に来てしばらく経った。

 学校代わりの教会。古臭く分厚い石壁に囲まれた息の詰まるような空間。

 ここで村の子供たちは毎朝、神父の話を聞く。その時間がヴァンサンにとって、一日の中で一番の苦痛だった。

 神父が聖書のとあるページを開くように言う。教科書代わりに一人一冊持たされている聖書だ。ヴァンサンも村に来たその日に『村の決め事だ』と同じものを渡されていた。

 自分の本にヴァンサンは指をかけた。ヴァンサンのまだ新しい本のそのページには既に開き癖がついていて、待ってましたとばかりにパッと開く。そこへ神父の声が響いた。


「すべての国の民が王の前に集められると、王はヒツジ飼いがヒツジとヤギを分けるように彼らをより分け、ヒツジを右に、ヤギを左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造のときからおまえたちのために用意されている国を受け継ぎなさい』

 それから王は、左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども。わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』」


 神父はその一節を読み上げ終えると目を上げた。

「皆さん、どうぞ大人しく心優しいヒツジにおなりなさい。ヤギのような傲慢な生き方をすれば、地獄に落ちることになります。必ず」

 言葉の最後の方、神父の視線は明らかにヴァンサンの方に向けられている。

 母子おやこが『ヤギ』と呼ばれていることは、もはや村の大人たちはおろか子供たちの間でさえも周知の事実となっていた。子供たちがニヤニヤした笑いを浮かべてこちらを見てくる。その中の一人とヴァンサンは目が合ってしまった。その口がこう動く。

「雌ヤギの子供」

 ヴァンサンは黙ったまま、本のページに目を落とした。



 風の音でヴァンサンはふと目を覚ました。青々とした牧草に覆われた斜面、緑の丘の上で身を起こす。空に浮かぶヒツジ雲の腹がほんのりと橙色に染まっていた。自分の黒髪をかすめて通り過ぎていく風が冷たい。ヴァンサンは首をちぢこめた。

(いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。そろそろ帰らないとかな)

 その時、ヴァンサンは丘の上に人影を見つけた。

(きっとヒツジの持ち主だ。……ここにいたのが僕だったって知れたら、何をされるか分からない)

 ヴァンサンは慌てて立ち上がり、その場から走り去ろうとした。

「待って! 行かないで!」

 ヴァンサンの背中に声が投げかけられる。それは彼の予想に反して、かわいらしい女の子の声だった。足を止めて振り返る。ヴァンサンの目に、白色に近い金のまっすぐな長い髪を風になびかせて、一人の女の子が駆けてくるのが映った。

「あなたも手伝って! ヒツジを小屋に入れたいの!」


 その数分後。ヴァンサンは女の子と並んで、ヒツジの群れの中を歩いていた。

「暗くなっちゃわないうちに、ヒツジたちを小屋に戻してあげないとなの。もう夏だっていうのに、今年はなんだかとっても寒いから、ヒツジたちが風邪をひかないように!」

 明るい声でそう言う女の子。その横顔を見るとは無しに見ながらヴァンサンはふぅんとつぶやいた。

 女の子は首を回し、ヴァンサンの顔をまじまじと覗き込んだ。丘の牧草のように瑞々しい緑色の瞳がキラキラと輝いている。この距離からだと、女の子の白い肌に少しばかりそばかすがあることが分かった。

 ヴァンサンは自分の顔が夕焼け空みたいにだんだんと赤くなっていくのを感じた。女の子は、ヴァンサンのその様子にはお構い無しにジッと彼の顔を見つめていたかと思うと、いきなり顔をパッと輝かせた。

「あなた、あの黒ヤギにそっくりね!」

 ヴァンサンは面食らった。まさかそんなことを真正面から言われるとは思ってもみなかった。数秒遅れて言葉を返す。

「……君は『ヤギ』の意味、分かって言ってるの?」

「ええ。ヤギでしょ、ヤギ。ヤギのことは良ぉく分かってるわ。私を誰だと思ってるの? 村一番の牧場主、ブラン家の一人娘よ!」

 女の子は後ろで手を組んで、丘の上をステップを踏むように歩きはじめた。その口から歌うように言葉が流れ出す。

「臆病なおろおろヒツジ! 図太いずけずけヤギ! ヒツジたちは良い子よ。でも良い子なだけ。いつもみんなで固まって、おろおろ人のマネばかり。ヤギは頑固者。わがままで、人にへいこらしたりしないで、自分の意見をずけずけ通すの。ヒツジの群れにはヤギをまぜなきゃ。でないとみーんな何もできない!」

「……君はヒツジだよ」

 良い子の君が、こんな僕と同じなはずないもの。ヴァンサンは力なく首を横に振った。

「いや! 私もヤギにして!」

 ヴァンサンの暗い声をはねのけて、女の子は明るく笑った。

「私はヤギになりたいって言ったら、神父様に怒られちゃった。わがままを言わず大人になりなさいって。でも大人になるってそういうことなのかしら? ヒツジになることが大人になること? うふふ、おっかしい! ヤギでも大人になれるわ!」

 クルリ。女の子はヴァンサンの方を振り返った。

「あなたが黒ヤギなら、私は白ヤギね」

 ヴァンサンはヒツジの群れに目を向けた。もこもことした白いかたまりの中に、とんがった白い生き物を見つける。

(……白ヤギもいたのか。ヒツジに紛れてよく分からなかった)

 女の子の声が、ヴァンサンのすぐ横から響いてくる。

「……ジベルって言うのよ」

「あの白ヤギが?」

「私!」

 女の子――ジベルはそう言って、クスクスと笑った。

「……ヴァンサンって言うんだ」

「あの黒ヤギが?」

「……僕だよ」

 ヴァンサンは思わずクスリと笑った。いつの間にか彼女のペースに巻き込まれてしまっている。でも、それに悪い気などはちっともしなかった。


 すべてのヒツジを小屋に戻した後で、ジベルは言った。

「今日はありがとう、ヴァンサン。助かっちゃったわ。それに、とっても楽しかった。……ねぇ、明日もこうしておしゃべりしましょう。良いでしょ? ね? そう、約束よ、ヴァンサン!」



 次の日。ヴァンサンが丘に行くと、そこにはもうジベルがいた。

「ジベル、君の仕事は?」

「お手伝いさんに任せて来ちゃった。この前居眠りしてたこと、パパに内緒にしてあげる代わりにって! 私、早くヴァンサンとおしゃべりしたかったんだもん。ヴァンサン、教会だと私の方をちっとも見てくれないから」

「……ごめん……」

 教会で、ジベルが自分の方に視線を送ってくれていたことには気づいていた。だが、村の人間の誰かしらに囲まれている彼女に話しかけに行く勇気、もしくは図太さなど、ヴァンサンには到底持てなかった。

 困った顔をしてうつむくヴァンサンに気づいてか、ジベルは尖らせた口をほころばせ、ヴァンサンの手を取った。

「じゃあ、その分もここでいっぱいおしゃべりしましょ!」


 丘の上を笑いながら駆け回って遊び、最後にヒツジたちをすべて小屋に入れ終えた後。

 二人は丘の斜面に並んで座る。ここからは村の家々や教会などが一望できた。特に教会は、その装飾の多くなされた屋根がはっきりと目立って見える。

「ここからだと村がぜーんぶ見えるでしょ? この丘、私の家の物なのよ」

「へぇ、すごいや。じゃあ、あの向こう側の丘は?」

 ヴァンサンが黒い丘の方を指差すと、ジベルの表情が曇った。

「誰の物でもないわ。……みんな、あの丘を怖がっている。あの向こうには地獄があるって。ほら、丘の向こうに黒い雲が見えるでしょ? あの雲が村の上にかかったら何かとっても悪いことが起こるって、そう言われているの」

(そうか、そんな言い伝えがあったのか)

 考え込むヴァンサンの隣で、ジベルは続けた。

「あの雲を抑えるために、何年かに一度あの丘にヤギが捧げられるの。……ヤギは何も悪くないのに……」

 そう言ってジベルは体を震わせた。その緑色の目に、朝露のように澄んだ涙が浮かぶ。

 ヴァンサンは驚いた。ジベルのそんな顔は初めてだ。気がつくとヴァンサンは、こう言葉をかけていた。

「ジベル、そんな悲しい顔をしないで。きっとそのヤギは、君にそう思ってもらえて嬉しいと思ってるよ」

「ヴァンサン……」

 ジベルは両手で顔を覆ってうつむき、肩を震わせ何度も何度も小さくうなずいた。

 夕暮れ時の太陽が、夜の闇に隠れるより早く丘の上の黒雲に飲まれていく。そうして、長かったはずの夏の日は駆け去るように暮れていった。



 それからまたしばらくの時が経つ。もう真夏の頃合いのはずなのに、村一帯は異様なまでに冷え切っていた。ここのところずっと晴れ間がない。荒れた黒い丘の上の分厚い雲は、日ごとに村に迫り来ているように見えた。

 さらに悪いことに、その寒さが災いしてか村でたちの悪い風邪が流行り始めた。

 ヴァンサンの母親もそれにかかり、ここ二、三日の間は町に働きにも出れずに家でふせっていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

(母さんがうなされている。……きっと、町にいた時の夢を見ているんだな)

 ヴァンサンの脳裏に、町での生活のことがよぎる。

 あの家で父親がいた時は良かった。父親が亡くなった後、それまでの生活は一変した。ヴァンサンにはてんで理由などは分からなかったが、母子は口々に非難され、追われるようにしてその屋敷を後にしたのである。

「……ごめんなさい、ごめんなさい。間に合わなくて。こんなことに、なってしまって……」

 母親に飲ませるための水を汲みに外に出るヴァンサンの背中に向かって、ふと意識を取り戻した母親は、すすり泣きと共にそう声をもらした。



 教会の鐘が鳴っている。あれは時を告げる鐘の音じゃない。あれは、弔いの鐘の音。



 結局、あの夜のすすり泣きの合間の声がヴァンサンの母親の最期の言葉だった。あれから母親の容体は急変し、丸一日苦しみ抜いた挙句にあっけなく息を引き取った。


 この日は雨の降りしきる、昼間だというのにどこか薄暗く、凍えるように寒い日だった。頭上は黒い雲に覆われている。……そう、あの丘の雲である。


 ヴァンサンは涙を流さなかった。自分の代わりに、空が泣いてくれている。

 ヴァンサンは傘を差さなかった。ヴァンサンは、全身を涙で濡らしていた。


 簡素な墓標の前で、神父が弔いの言葉を読み上げている。それがただ耳を滑っていくおざなりのもののように聞こえたのは、ただの気のせいなんだとヴァンサンは思いたかった。

 葬儀への参列者はごくわずか。遺族であるヴァンサンの他には、仕方なく来てやっているんだと言わんばかりの顔をした村長と、顔をくしゃくしゃにして喪服の裾を握りしめるジベルのみ。

(ジベルが来てくれて良かった)

 ヴァンサンはただぼんやりとそんなことを思った。



「ついてきなさい」

 葬儀を終えて、村長はごく短くヴァンサンにそう言った。後ろで昼の鐘が鳴っていた。ヴァンサンは、そこから逃げ出すことはできなかった。

 ヴァンサンはブラン家の居間に通される。ここに来るのは村に越してきた際に母親と共に訪れた時以来だ。……今度は、ヴァンサンのための椅子は用意されていなかったが。

 ブラン家の居間には村の大人たちがずらりと勢揃いしていた。

(葬式には出ないけど、ここには来るんだな)

 大人たちはヴァンサンを睨み付けていたが、ヴァンサンが彼らの方を向くとサッと顔を背けた。しかしその顔に恐れの色が浮かぶのをヴァンサンは見逃さなかった。


「ジベル、お前は自分の部屋にいなさい」

 村長は自分の娘の方を振り向き言った。ジベルは頑として首を横に振る。

「いや。私もヴァンサンと一緒に、パパたちの話を聞くの」

「葬式には出させてやっただろう。これ以上わがままを言うんじゃない」

「わがままじゃないもん! ね、パパ、お願い……!」

「いいから、さっさと部屋に戻りなさい!」

 村長の怒号と共にブラン家の使用人たちが動いた。使用人たちに引きずられ、抵抗もむなしくジベルの姿は扉の向こうに消えた。


「さてヴァンサン。これからの君のことについて、話し合おうではないか」

 村長はヴァンサンの目の前、自分の椅子にどっかと腰を下ろして言った。口調こそ穏やかだが、その目が笑っていないのは明らかだった。

「わしは君たち母子を、村の掟を守るのなら、という条件でこの村においてやっていたのだが……」

「早く出て行きな、この悪魔!」

 突如、部屋の中に金切り声が響いた。見ると、一人の女が全身をブルブルと震わせている。真っ青なその顔にヴァンサンは見覚えがあった。あの日彼の家の横で噂話をしていた主婦のうちの一人だ。

「何なのよ、今日の空の色は! もう昼間だってのにこんなに真っ黒で……。アンタの母親が死んだ腹いせかい? もうこんなマネはやめておくれよ。最近の寒さも病気も、全部ぜーんぶ、アンタのしわざなんだろう?」

 ヴァンサンは内心、首をひねった。

(この人はいったい何を・・・・・・言っているのだろう……?)

 一方で、村長はその村の女を制し、やれやれとため息をついた。

「奥さん、少し落ち着きなさい。……神父様、おまえさまに代表で話してもらうのが良かろう」

 村長にうながされ、その隣にいた神父はしたり顔で口を開いた。

「ではヴァンサン君、この場をお借りして君に授業をしますね。まずは算数と社会です」

 村人たちの視線が突き刺さる中、ヴァンサンは両手を握りしめてその場に立ち尽くし神父の声を聞く他なかった。

「ひと月に、金貨二枚。これが、この村で生まれていないよそ者がこの村に住むためにかかる税です。今までは君のお母さんが、君の代わりにそれを納めていました。……が、農作業も牧畜も何一つできない君にはもう、その税金分どころか自分の食べる分すらも稼ぐことなどできないでしょう。ひと月に、金貨はゼロ枚だ。村の掟が守れない。これだけでも十分に、君がもうこの村にいてはならない理由となります」


 ヒソヒソ声。クスクス笑い。神父はそれを咎めることもせずにそのまま話を続けた。教会で話をする時と同じように。

「そして、大事な神学の授業です。……隠しても無駄です、もう分かっているんですよ。この『悪魔の手下』め!」

 神父は大げさな、どこか芝居がかった様子でヴァンサンに指を突き付けた。周りを取り囲む村人たちの視線がいっそう鋭くヴァンサンを刺す。

「今この村に訪れているすべての災いの元凶であるあの黒雲を呼び寄せたのは、お前だ! 神の目にはすべてお見通しです、白状なさい。お前の母親は魔女であり、お前が悪魔の手下であると……!」

(えっ、なんだって……?)

 ヴァンサンは目を白黒させた。あまりのことに言葉が出てこない。いや、いったい何を言えば良いというのだろうか。

(なんでそんなバカげたこと・・・・・・を? 魔女? 悪魔? そんなおとぎ話・・・・・・・を、この村の大人たちは、本気で……?)


 ――この頃はとうに、魔女だの魔法だのというのは『ただの迷信』で片付けられる時代になっていた。だがそんな常識はこの山奥の村では何ら意味をなさない。彼らにとっては自分たちの価値観こそが絶対で、自分たちの安全こそが第一なのであるのだから。


「忌まわしいヤギ」「魔女の子」「悪魔の使い」「黒ヤギ」「黒ヤギ!」「黒ヤギ!!」

 恐怖と猜疑心とがないまぜになった顔が、ヴァンサンをぐるりと囲む。その姿は迫りくる嵐の前に何もできず、おろおろと鳴きわめくヒツジの群れを思い起こさせた。

「村の慣習にならい、あの荒れた丘に黒ヤギを放しましょう。この村にもたらされた厄災がすべて祓われるように。善良なヒツジの群れに紛れた邪悪なヤギは放逐されなくてはなりません。遠くへ、王の左側の丘、呪われた者どものための丘へ」

「ま、待ってください……!」

 やっとのことでヴァンサンはそう声を上げたが、もう遅い。村人たちから口々に発せられる声は、高く低く混ざり合い、一つの不気味なうねりのようになっている。それに取り囲まれたヴァンサンに、もう逃げ道はない。

 ヒツジの群れは眠らせる。心のままに自由に跳ね回ろうとする子供を、その数をもって押しつぶすかのように

「いや! そんなのダメよ、ヴァンサンは何も悪くないでしょ! ヴァンサンに何かあったら、私、パパもママも村の人たちもみんなみーんな、絶対に許さないんだから!」

 突如。村人たちの判別のつかない混ざった声の合間から、叫ぶジベルの声が一つはっきりと聞こえた。ヴァンサンはその声に目を輝かせ振り向きかけた。

 しかし。自分のすぐそばから聞こえてきた溜め息を耳にして、ヴァンサンは動きを止めた。目の前には、村長が椅子にどっかと腰を下ろしたままでいる。その目は、動物を屠る時のものにも似ていて。

「うちの娘がおかしくなったのも、お前が来てからだ。それまでは大人しい良い子だったのに、お前が来てから何故だかずいぶんと強情になってしまってね。……あれでは、まるでヤギだ」

 ヴァンサンはハッとした。

(僕がここにいたらジベルに迷惑がかかる。ジベルまでヤギだと言われてしまう……!)


「……分かりました」

 ヴァンサンは息を吸い込み、部屋の大人たち全員、そして扉の向こうのジベルにも聞こえるように、はっきりと言った。

「あの丘に行きます。もう誰にも迷惑はかけません」

 ジベルの声がピタリと止んだ。大人たちは当然だとでも言うように鼻を鳴らす。

 村長が顎をしゃくり、使用人に命じた。

「小屋に入れておけ。明日の朝に出発させる」

 使用人らに強く肩を掴まれ、ヴァンサンは黙って部屋を後にした。



 家畜小屋の中に乱暴に突き飛ばされる。背後で鍵のかけられる音がする。

 ヴァンサンがよろよろと顔を上げると、目の前には二匹のヤギがいた。あの黒いヤギと白いヤギだ。

 一方、木の柵に隔てられた隣側ではヒツジたちが身を寄せ合って固まっている。ヴァンサンには、ヒツジたちが恐る恐る、しかし好奇心をむき出しにしてこちらを見つめてくるように感じられた。このヒツジたちが悪いわけではない、そう分かってはいたが、ヴァンサンはふいとヒツジたちを視界から外した。

(おろおろヒツジにずけずけヤギ、か……)

 ヴァンサンは立ち上がり、同じ柵内にいる黒ヤギの方を向いた。

「……お前、ジベルを守るんだぞ。絶対に」

 そして手を伸ばし、その隣にいる白ヤギの頭をそっと撫でる。

「君は、幸せになるんだよ……」

 二匹のヤギはヴァンサンの言葉に答えるかのように、メェと一声鳴いた。


 敷かれた干し草の上に寝転がり、いつかのあの日に思いを馳せる。黒い丘へと追いやられるヤギに対して悲しみで体を震わせたジベルの、その涙を。

「ジベル、そんな悲しい顔をしないで。……きっとそのヤギは、君にそう思ってもらえて嬉しいと思ってるよ」

 ヴァンサンはその時と同じ言葉をそっと口の中でつぶやき反芻した。



「おい、起きろ。出発するぞ」

 そう言われてヴァンサンが外に出ると、真夜中の時間帯のようだった。出発は明日の朝と言われていたはずだったのに、とヴァンサンは思ったが、その理由は粗方予想がついた。

(ジベルと僕を会わせないようにするためだろう。……僕もその方が良い。彼女の泣き顔を見なくて済むし、僕自身も泣かなくて済む……)


 東の空が白み始める頃。ヴァンサンは荒れた丘に建つみすぼらしい小屋に辿り着いた。

 その小屋は、先ほどまでいた家畜小屋と大差はないように感じられた。違いと言えばせいぜい、暖炉が備え付けられていることくらいか。

 使用人らの引いてきた荷車から薪や缶詰などが積み下ろされる。今後は頃合いを見て薪と食料を届けに来ると、使用人たちから説明があった。……『黒雲を抑えるため』だ。逃げられたり死なれたりしては困るのだろう。

 そうして用事を済ませると、使用人たちはそそくさと帰っていった。


 小屋の外、ゴツゴツとした斜面に、たった一人でヴァンサンは立つ。

 村の景色がうんと遠くに見えた。あまりにも遠くて、それがきれいなのかどうかもてんで分からない。ただ、それを一人で眺めるのはやけに寂しくて。

 今日からここで、たった独りだけでの生活が始まる。



 一週間ほど経つと、聞いていた通りにブラン家の使用人が荷車を小屋の前に置いて行った。今度はもう声もかけられなかった。

 使用人が去った後、荷車に積まれた箱を小屋の中に運び込み、中身を確認する。必要最低限のものだけが入れられていた。わずかな薪に、わずかな食料……。

 その中に、一片の紙が見つかった。それは一見、偶然挟まりこんでしまったただの紙切れに見えたが……。その紙は二つに折られている。

 ヴァンサンはハッとそれを拾い上げる。ジベル・ブラン。そこにはそう名前が書いてあった。ジベルからの手紙だ!


 ヴァンサンの手は震えた。その手紙を穴の開くほど見つめる。しかし。

(……ダメだ。これを読んでしまったら、きっと耐えられなくなってしまう。だから、これは開けない方が良い)

 ヴァンサンはうつむき、震える指を離す。手紙は宙に舞って、そのままヴァンサンのうつむいた視線の先、暖炉の火の中にひらりと落ちた。ヴァンサンの手が、肩が、全身が、いっそう震える。

(これで良かったんだ。これで)

 手紙が黒く燃え尽きた後。ヴァンサンは震える息を一つ吐いた。


(でも……、ジベルには何かを返したい。何か、何か――)

 ヴァンサンはハッと胸のあたりに手をやった。着の身着のままここに連れて来られたが一つ。母親の葬儀のために持っていたものがポケットに入っていた。あの、すっかり開きぐせのついてしまった聖書が。

 それを広げる。すぐさまパッと開いたのは『ヤギ』についての話が記されたページ。ヴァンサンはそのページを一枚、ひと思いにビリリと破いた。

 文字を書くのには暖炉の煤を使った。小屋の外で鳥の羽を拾ってペンの代わりとした。

 ヴァンサンは書き終えた手紙を二つに折り、荷車の隙間に挟み込んだ。一見、偶然挟まりこんでしまったただの紙切れに見えるように。そして後日、その荷車をブラン家の使用人たちが引き取って村へと帰っていく――



 *  *  *


 ヴァンサンから手紙が届いた。

 ジベルはそれを読まずに火にくべた。

 そしてジベルは紙とペンを取る。

 ヴァンサンに手紙を書くために――


 *  *  *



 それからも、ジベルからの手紙はいつも荷車にそっとさりげなく挟み込まれていた。

 ヴァンサンも変わらず、ページをちぎっては手紙を書いて、同じく荷車に挟み込む。

 どうしても、手紙の中を読むことはできなかった。だが、返事を出すのを止めてしまうこともできない。このやりとりだけが、二人の間の細い細い繋がりで……。



 ヴァンサンはもう、ここから村を眺めることもしなくなった。小屋の中にただじっと引きこもり、荷車が引かれる音だけを心のたよりにしている。

 どれくらいの月日が経っただろう。

 ヴァンサンの手元の本は、もう最後の一枚を残すだけとなっていた。次にジベルへの手紙を書いたら、紙はなくなる。細い細い繋がりが、ここで途絶える。

 ヴァンサンは、今はもうすっかりと薄っぺらくなった、かつて自分を責め苛んだ本の残骸を握りしめるようにして持つ。そして、いつか来るであろうその日の訪れに震えた。

(僕は結局、ジベルの言う『ヤギ』でも無かったのかもしれない。自分を通す勇気なんてずっとずっと持てないまま。おろおろと、ここで震えて動けないばかりで……)


 しかしそこからいくら待っても、荷車を引く音が聞こえてくる日は来なかった。

(これはいったいどうしたんだろう。僕がとうとう見限られたのか。……いや、まさかジベルに何かがあって……?)

 胸が騒ぎ、ヴァンサンは小屋の外に出てみた。まだ明けきらない薄暗さの中。ヴァンサンは村の方に視線を向け、よくよく目を凝らしてみた。

 あまりにも遠い、村の景色。しかしそこに異変が見て取れた。崩れ去ってしまったのか、あの遠くからでも目立っていた教会の屋根がどこにも確認できない。考え得るのは、火災かはたまた別の何かか――

「ジベル……!」

 気がつくとヴァンサンは、黒い丘を駆け下りていた。


 途中、緑の丘に差しかかる頃には日が昇りきり、村の様子がよく見えるようになる。やはり気のせいなどではなかった。あの飾り立てられた教会の屋根は跡形もない。ヴァンサンは祈るような気持ちで、駆ける足を速めた。

「ジベル、ごめん。どうか無事でいてくれ、ジベル……!」



 久々に足を踏み入れた村は、様子がだいぶ変わって見えた。

 大変な騒ぎになっているだろうとヴァンサンは予想していたが、火災に騒ぐ悲鳴などはどこからも聞こえてこない。それどころか、村にはゆったりとした空気すらも漂っていた。

 自分が黒い丘から降りてきたことを、村人たちから見咎められ糾弾されるだろう。そう覚悟もして来たヴァンサンだったが、村人の刺すような視線などはどこにも無い。

 ヴァンサンは拍子抜けしつつ、しかしまだ警戒は解かないままで、訝しみながら足を進めた。


 ヴァンサンの足は村の中心に辿り着く。あの古めかしい教会のあった場所には、新しい建物ができていた。シンプルな造りの温かみのある木造の建物。

 建物の横には墓地がある。ヴァンサンの足は自ずとそちらへ向かった。

 石でできた立派な墓標。そのうちの一つにふいと目を向ける。それに書かれていたのはなんと、彼の母親の名前だった。ヴァンサンは目を見開いた。

(どういうことだろう。母さんの墓が、こんなに立派なものに建て直されているなんて)


「君が『黒ヤギ』くんかな?」

 そう声をかけられ、ヴァンサンはバッと振り返る。そこには、見知らぬ初老の男性が立っていた。

 穏やかな微笑みを浮かべるその足元には、白と黒の二匹のヤギが戯れる姿。加えて、その男性の口にした『黒ヤギ』の響きには、侮蔑の色などはまったく無かった。まるで、ジベルがそう言う時のような。

「……どうして、その呼び名を?」

 ヴァンサンは恐る恐るそう口にした。久しぶりに発した声は、まるでヤギのようにしゃがれていた。

「そうだね、話すと長くなるのだが――」

 ヴァンサンを前に、その初老の男性は静かに語った。


 この男性は教会の牧師で、この村を再建するためにやってきたのだと言う。

 蔓延し尽くして多くの村人の命を奪った疫病からの復興。そしてそれ以上に、この山奥の村にて捻じ曲げられた教えを振りかざし、この村を世間から遠ざけて悪行を重ねていた神父のもとからの回復のためなのだと。

 すでにその神父は捕らえられ、近々その罪が裁かれるのだとヴァンサンは説明された。


 そして牧師は続けて、あることを彼に告げる。

「信条のたもとを分かったかつての同胞の卑劣な行い。それが判明したのは実は、一通の手紙からでね。……君のお母さんからの手紙だよ」

 ヴァンサンは驚きで目を見開いた。母さん……!


 更に話を聞くところには、この牧師とヴァンサンの父母は既知の仲だったそうだ。

 かつて町で疫病が流行した時に、牧師の担当する地区での治療で世話になった、医者と看護婦の夫婦。ある時、その夫の方が患者から病気が移ってしまい、妻の看護もむなしく帰らぬ人となった。

 その後、妻と子供の姿を町で見かけることがぱったりとなくなった。

 そのことについて医者の親族に訊いても「知らない」と言われ、そして牧師自身も担当する地区の異動が決まり……。

 そしてようやく最近になって、遠い地区に行った牧師の元に一通の手紙が届いた。そこからこの村への異動を申し出て、先日ようやくここまでに辿り着いたのだと。


 そこまで話すと、初老の牧師は目の前のヴァンサンに向かって深々と頭を下げ詫びた。

「間に合わなくて、本当にすまなかった」

「いいえ、いいえ……!」

 ヴァンサンは勢いよく首を横に振り、目に浮かんだ涙を振り払った。そして胸に手を当て、口を開く。

「僕も、牧師様に謝らなければならないことがあるんです。その……これを僕、破いてしまって……」


 持っていた聖書の最後の一ページ。手渡されたそれをのぞき込んで、牧師は「ああ」と深い息を吐き、ヴァンサンの両肩に手を回して首をゆっくりと横に振る。その乗せられた手のあたたかさ。それがヴァンサンにはしみじみと感じられた。

「辛かっただろう。『ヤギ』の言葉を捻じ曲げられて……。君がその紙の束をそう使ってくれて良かったよ。そうした手紙のやりとりが、間違いなく二人の間を繋いだのだからね」

 そう言うと牧師は、手を伸ばして教会の扉の方を指し示す。牧師の足元にいた黒と白の二匹のヤギが、連れ立ってその扉に向かって駆けていった。ヴァンサンはハッと息を飲んだ。

「さぁて、私の話はこれでおしまいだ」

 今の頭上の空のように曇ったところの無い晴れ晴れとした顔で、牧師は言った。

「会ってきなさい。『白ヤギ』さんに」



 ヴァンサンは新しい教会の中へと駆け込んだ。その中では、先ほどの牧師と共に来た人々だろうか、何人もの人がいてヴァンサンの方を振り向いた。でもそれらの視線ももう何も気にならない。

 ヴァンサンは黒ヤギと白ヤギと共にその中を、丘に吹く風のように駆け抜けていく。


 教会の中を抜けた先の、緑に溢れる庭。ヴァンサンの視線の先には、白色に近い金のまっすぐな長い髪を持つ一人の女の子。


「ジベル……!」

「ヴァンサン……!」



 ヤギたちは豊かな緑の中で自由に跳ね回る。浮かんだ涙は朝露のように、明るくあたたかい陽射しの中に溶けていった。




Fin.






お題:「田舎」

   11月23日「いいふみ(良い文)の日」

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短編集 ~ファンタジーから日常まで~ Ellie Blue @EllieBlue

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