立つ鳥跡を濁さず

Ch.8 ED 甘い約束

 帰国後、早急に探偵事務所へと帰還した俺と心美は、久方振りの澹然無極とした生活を享受し、その有難味に浸っていた。スウェーデンの穏やかな気候の所為で忘れていたが、梅雨明けから暫くしてピークに達した夏場の気温は過酷そのもの。もう少しだけ滞在期間を延ばせば良かったかと冗談を飛ばしながら、解けかかった氷が小気味良い音を奏でるジャスミン入りのグラスを片手に、現地参戦することができなかった夏フェスのライブ配信を夢中になって視聴していた。


「私がもしこの場に現れたら、他の観客はどういう反応するのかしら。」


「スウェーデンでの活躍は早速日本国民の耳にも届いているみたいだぞ。良かったなあ。有名人になれて。」


「堅慎、怒るわよ。」


 皮肉にも、オリヴィアが茉莉花探偵としてメディア露出していたことで、心美の株は再び急騰状態だ。顧客には度重なる守秘義務違反を咎められたが、オリヴィアの出演したインタビュー映像はこの頃巷を騒がせているディープフェイク技術を悪用されたものとして、情報漏洩については友人であるアイーシャの経営する警備会社・GBSの日本支社と連携を強化して対策していくと説明し、何とか矛を収めてもらうことができた。これからは探偵事務所の信頼回復にも難儀しそうだ。


「でもさ、知らない土地を散々歩き回って、ちょっとした食事制限まで経験したから、ダイエットは無事成功だな。」


「日本に帰ってきてから、堅慎の作ってくれる料理が普段より美味しく感じるわ。食べ過ぎてたら、今度こそ止めてよね。」


「自分の作ったものを美味しそうに食べてもらうのは料理人冥利に尽きるというか……。俺がそれを止めてやるのは無理かもな。」


 どうせ食べ過ぎを指摘して少な目に食事を用意したところで、頬を膨らませて抗議の視線を送ってくる心美の姿は容易に想像できる。それに、嬉しそうに自分の料理を食べてくれる心美の笑顔は何度見ても飽きないものだ。その機会を自ら減らしてしまうのは、勿体ないにも程がある。


「だったら、何度でもダイエットに付き合ってもらうから、覚悟しなさい。」


「ああ、望むところだ。」



 §



 食後、温かいジャスミンを啜りながら暮夜密かにスウェーデンでの出来事に想いを馳せると、漸く安心できる家に帰ってきたのだという実感が湧いてくる。それと同時に、誘拐犯の目的如何によっては、俺も心美も、今頃無事では居られなかっただろうという底知れぬ恐怖感が去来した。


「どうしたのよ、浮かない顔して。」


 すると、キッチンの冷凍庫からバニラアイスのカップを取り出し、俺の座るダイニングテーブルの対面に腰掛け、上機嫌にトップシールを剥がしている心美が不思議そうに首を傾げた。


「別に。それより良いのか。アイスなんか食べて。」


「当然でしょ。成果に対しては相当の報酬が必要なのよ。」


 じっとりと汗ばむほどの熱帯夜、容器の側面に手を当てて心地良い冷たさを楽しみながら、小さなスプーンで大きめの一口を頬張っては頭を抱えている彼女へ、ティーカップに残ったほんのりと温いジャスミンを譲った。ほっと一息ついて、満足そうに目元を綻ばせる彼女の顔を見ていると、何もかもがどうでも良くなってくる。


「なあ、心美。」


「ん、なにかしら?」


「この前の仕事の御褒美、あれってまだ有効か?」


「あー、分かってるわよ。お風呂はまた後で、ゆっくり一緒に入りましょう。」


 アイスに夢中になって、俺の話に興味を示さない心美の反応が面白くなくて、俺は彼女の右手に握られたスプーンをそっと取り上げて視線を奪う。


「な、なによ。」


「ごめん。」


「え?」


「今回は運が良かっただけだ。俺は命を懸けてでも心美を護ると豪語しておきながら、家の防犯対策もままならず、オーストラリアでの失態の二の舞を演じてしまった。」


「その話はもう終わったはずよ。盗聴・盗撮に気付けなかったのは堅慎だけの責任じゃないし、何だかんだ、ここぞという時に貴方はとても頼りになるもの。」


 自らの不甲斐なさを恥じている俺とは対照的に、言葉通り、一切合切を気にも留めていない様子の心美には、かえって申し訳なさを感じる。


「そういえば、アイーシャさんに事務所の防犯について相談したら、最新鋭の監視カメラを数台分格安で譲ってくれるって言ってくれたよ。これからはもう二度と、今回のようなことがないように一層注意するつもりだ。」


「堅慎なりに色々と考えてくれたみたいで、どうもありがとう。でも、本当に私は気にしてないのよ。五体満足で帰ってこられた今だから言える結果論かもしれないけれど、良い海外旅行になったわ。」


 心美の身を案じるあまり、強い責任感に苛まれる俺の悪い癖を見抜いている彼女は、俺の考えを尊重しつつもあくまで前向きな言葉を掛けてくれる。それが嬉しいと感じてしまっている自分が居るのも全く以て度し難い。


「心美、前に言ってくれたよな。何でもひとつ願いを叶えるって。」


「え、ええ。それで、願い事は決まったの?」


 今までとは意味合いの異なる緊張感を胸に抱いて、俺は深々と肺に生暖かい夏の空気を溜めてからゆっくりと吐き、ありのままの心境を吐露した。


「心美との将来を考えた時、やっぱり俺、今のままじゃダメだと思ったんだ。」


「私との将来……。それって──」


「ああ。心美と肩を並べて歩いても恥ずかしくない、それに相応しい人間になるためには、俺ももっと努力を重ねなくちゃならない。どんな危険が迫っても、どんな悪意に晒されても、それらを全部跳ね返して心美の笑顔を絶やさないようにするため、俺は今まで以上に強くなってみせる。だからそれまで、待っててほしいんだ。」


「それが、堅慎の願い事なの……?」


 心美の問いに、俺は黙って頷き返した。


「はあ。貴方って本当に謙虚というか、遠慮がちというか……。折角この私が直々に、堅慎のためだけに何でもしてあげるって言ってるのに。」


「じゃあ、これも却下か?」


「いいえ。待つわ。いくらでも。貴方が心から真剣に私との将来を考えてくれるのなら、私もそれに応えてあげなくちゃね。」


 不服そうな口振りとは裏腹に、溶けかけたアイスのように緩み切った顔は元に戻らず、照れ隠しに俺の手からスプーンを取り返した心美は、カップの中身を素早く掻き集めて俺の口へと無理やりに突っ込んだ。


「んぐっ、何するんだ。」


「最後の一口、おすそ分け。このアイス美味しいでしょ。」


 確かに、喉越し滑らかなアイスの食感と鼻から通り抜ける風味豊かなバニラの濃厚な香りが感じられる。しかし、先程まで濃い目に淹れたジャスミンを口に含んでいたためか、控えめな甘さに物足りなさを覚えた。その時──。


「っ……!」


「貴方がいつか、私と生涯を共にするよう決心してくれる日を楽しみにしてるわ。でも、私も気が長い方ではないからね。急かさないとは保証できないわよ。」


 唇に伝わる冷たい感触と口一杯に広がるバニラが、今だけはとても甘く、心ゆくまで何度でも味わいたいと感じてしまう。彼女も同じことを考えているのだろうか。シルクのように艶やかな銀糸の暖簾を押し分けて急接近する紅い宝石の持ち主は、繋がれた右手に導かれるまま膝の上へと収まった。その蠱惑的な光に抗いようもなく魅入られてしまった俺は、燃えたぎる瞳の奥の輝きを絶やさぬようにと、朝鳥の鳴く頃まで夜直よたた、愛情の薪を焼べ続けるのだった。

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